4・おとぎ話の始まりと終わり

 昔々ある国に王女さまがいました。

 王女さまはとても優しく明るくて、なにより可愛く美しかったので、国中のみんなが王女さまのことが好きでした。

 でもそんな王女さまの噂が、悪い悪い魔王の耳に届いてしまったのです。

 魔王は可愛くて美しい王女さまが、欲しくて欲しくてたまらなくなり、ある日 とうとう王女さまを、みんなの前からさらってしまったのです。

 そして王女さまは、高い塔の天辺に閉じ込められてしまいました。

 王女は逃げ出すことができません。

 だから王女さまは、毎日 星に祈りをささげます。

 いつか私を、誰かが助けに来てくれますように。

 どうか勇敢な者が、助けに来てくれますように。

 強い騎士が、助けに来てくれますように。

 名立たる勇者が、助けに来てくれますように。

 そしてある日、勇敢で強くて勇者として名を馳せた騎士が現れたのでした。



 魔王殿の一画、幽閉の塔の最上階で、イグラード王国の王女マリアンヌはおとぎ話の一説を思い出していた。

 現在、自らが置かれた状況と酷似しているが、しかし現実はお話のように都合良くは進まない。

 いくら星に願っても、王国からの救出の手は、途中で全滅したのか、それとも諦めてしまったのか、一向に現れる気配がない。

 塞がっていく気分を解消するには、窓の向こう側の景色を眺めて、心を落ち着けると良いのだけれど、しかし外は心が潤う美景には程遠く、益々気分が落ち込んでくる。

 魔王殿の光景は、廃墟としか形容できない惨状だった。

 伝承に伝わる最初の魔物出現における戦いの破壊痕を、勝利した魔物は修繕せずに三百年間放置していたということなのだろうか。

 正常な命の気配はなく、代わりに表現し難い異形の魔物が徘徊しているのが時折見える。

 今、塔の近くを飛翔して行った巨大な鳥も、全く羽毛に覆われていないという、この世界には有り得ない姿をしている。

 おそらくその鳥も魔物の一種なのだろう。

 なにより窓にかけられた鉄格子が、自分が囚われの身であることを否応なく痛感させてくれるのだ。

 反対に部屋の中は清潔に保たれ、趣味の良い調度品で整えられており、食事もこの世ならざる珍味が出されることもなく、基本的に王宮での生活と大差はなかった。

 毎日 姿を見せる侍女の姿も普通の人間の若い女性のように見える。

 ただし顔の表情が完全に動かないことを考慮に入れなければだが。

 会話の時でさえ唇が動かないのでは、人間ではないことを暴露しているようなものだ。

 隠す意思など始めからないのかもしれないが。

「はぁー」

 王女は深い溜息を吐いた。

 一ヶ月ほど前、イグラード王城の庭園で従者と一緒に日課の散歩をしていると、空から巨大な怪鳥が飛来し、その鉤爪で自分を捕らえ、上空へと飛び立った。

 それはあまりにも唐突で脈絡がなく、なにが起こったのかしばらく理解できず、状況を飲み込めたのは五分ほど経過してからだった。

 しかし短時間で状況判断ができたとしても、自分が選択できる行動は二つしかなかっただろう。

 1・鉤爪を振り解く。

 2・おとなしくする。

 この選択肢の結果を予想してみる。

 1を選択。

 暴れて振り解くのに成功したとすると、重力の法則に基づいて、数十メートルから数百メートルの自由落下の後、地面に激突する。

 幸運に恵まれれば重症で済むかもしれないが、一生ベッドの上で暮らす破目になる後遺症が確実に残るだろう。

 運が悪かった場合、苦しみ抜いた末に死亡する。

 どちらでもない場合、即死。

 必然的に選択肢は2しか残っていない。

 とにかく状況を好転しうる機会を待ち続け、結局そんな好機など訪れず、半日ほど経過して夕日が水平線の彼方に沈み始めた頃、この魔王殿に到着して不快な空の旅は終了した。

 そして魔王ゲオルギウスに直々に奉迎され、とても丁寧に、一切の説明なく、幽閉の塔に閉じ込めてくれたのである。

 それから一ヶ月、比較的優遇された状態で監禁されている。

 もちろん不満は幾つもあるし、特に外出できないのはその最たることだが、この待遇の良さから、時が来れば生贄の類に自分が使われるであろうことが容易に想像ついた。

 おそらく過去に行った地獄とこの世を結ぶ通路を開くためだろう。

 長い時間を掛けて精神を蝕む抑圧は暴力的傾向に繋がる。

 今の彼女はまさにその状態だった。

 開いた窓から木の葉が室内に入り、マリアンヌの頬に当たった。

 それだけの些細なことで、途端に頭の中で何かが弾け、気がつけば扉へ走っていた。

「せあ!」

 気合の声と共に、体重を乗せて金属の扉を蹴りつけた。

 鐘声に似た音が幽閉の塔に鳴り響いたが、強固な鋼鉄製の扉は微動だにしない。

 端整で可愛らしい顔が憤怒で歪み、両拳を滅茶苦茶に扉へ叩きつける。

「このっ! 開けなさい! いつまで閉じ込めておく気ですの!? ここを開けなさい! 開けるのです! 開けなさーい!」

 一頻り喚き散らした後、疲れたのかマリアンヌは静かになった。

 そして扉に背を凭れさせ、床に腰をつけ足を無造作に伸ばす。

 躾係が見ればはしたないと叱責するだろうが、ここには口煩い従者はいない。

 叩きつけていた手が赤くなり、少し皮が剥けている。

 王城では少し怪我をしただけで周りが大騒ぎして、必要以上に性急に手当てをしてくれた。

 鬱陶しいとさえ思っていたその人々が、今は無性に恋しい。

 急に酷い不安感に襲われるが、心の内を唯一告げることのできた家庭教師、サリシュタールもいない。

 活躍を噂に聞く、王国の偉大な聖騎士や、風の山脈の勇者も、助けに来てくれない。

 自力で逃げ出そうにも、たった一つの扉が外界から完全に断絶し、外へ出ることは適わない。

 自分は一人、誰にも知られることなく、魔物の謀の犠牲になってしまうのだろうか。

 いつしかマリアンヌは泣いていた。

 私は王族。

 王国の王女。

 こんな私を見れば民はどう思うだろうか。

 民に無用の心配をかけないためにも、常に強くあれと父母から教えられた。

 常に優しく微笑んでいなければならないと教えられた。

 それが王女の務めだと。

 だから泣いてはいけない。

 自分に言い聞かせても、溢れる涙は止まらない。

 一ヶ月間、気丈を保ち弱音を吐かなかった少女だが、それも限界を超えたのだ。

 どれぐらいの時間そうしていただろう、不意に扉から錠が外れる特有の金属音が鳴った。

 マリアンヌは正気に返り、立ち上がると同時にその場から瞬時に離れ、既に涙も止まっている。

 外界から隔てている金属扉が緩慢に開き、来訪者が姿を現す。

 銀色の髪を後ろで束ね、瞳の色は鮮血のように紅い。

 小柄で華奢な体を包むのは漆黒の法衣。

 容貌は端整で美しく、肌は雪のように白い。

「……魔王ゲオルギウス」

 三百年前、魔物を率いて世界を制圧しようとし、光の戦士に倒され、そして長い年月を経て復活を果たした、魔物の王。

 儚くか弱い白兎を連想する少年の姿は、その恐怖の対象には程遠い。

 しかし紛れもなくこの男は、世界を混乱と恐怖に導いた邪悪なる存在。

 少女の泣き腫らした顔を一瞥しても、秀麗な顔表に変化はない。

 魔王は変声期前特有の声質で、冷淡に用件を告げる。

「マリアンヌ王女、付いて来なさい」

 少女は眉目を吊り上げ、ささやかな抵抗を行う。

「お断りですわ。どこへ連れて行くおつもりなのか存じませんが、私が素直にあなたの言葉に従うとお思いですの」

 魔王はしばらく王女の瞳を、無感動とも呼べるほど変化のない表情で見据えていたが、不意に無造作に彼女へ足を進めた。

 王女は怯えに負けて後退るが、魔王の手からは逃れられない。

 気が付けば腕を掴まれていた。

 そして魔王は引き摺るようにして、王女を退室させる。

「ちょっと! 止めてください! 放して!」

 マリアンヌの抗議を無視して、魔王は掴んだ腕を放さずに螺旋階段を足早に下りる。

 少女は歩幅を上手く合わせることができず、時折躓きそうになる。

 それに腕を掴む手に込められる力は、少年の容姿からは想像できないほど強く、万力で捻り上げられたような激痛が骨にまで浸透する。

「ねえ! 分かりました! 付いて行きますから腕を放してください! 痛い! ちょっと、聞いているのですか?!」

 魔王は返答せず、掴んだ手を放せば逃亡すると思っているのか、殊更に力を込めた。

「このっ!」

 その時、王女の感情は頂点に達した。

 問答無用でさらって魔王殿に連れてきた挙句、一ヶ月も部屋の中に監禁し、そして今また強引にどこかへ連行しようとしている。

 王女であるマリアンヌは自分の意思をここまで無視されたことはなかった。

 異形の者であれば人間の心とは異質であるのだと納得したかもしれないが、目の前の存在はなまじ人の形をしていた為か、激情の発露を誘発させた。

 そして怒りは容易く行動に繋がる。

「いい加減にしなさい!」

 叫ぶが否やマリアンヌ王女は、魔王ゲオルギウスが纏う漆黒の法衣の裾を、床に踏みつけた。

 突発的行動とはいえ、どうして少女はそんな方法を選んだのだろうか。

 もしそれが闘気の拳であれば、もし殺意の刃であれば、もし鋼鉄の弾であれば、魔王である彼にとって回避も防御も簡単だっただろう。

 もしかすると少女の攻撃が命中したところで、なんの痛痒も与えなかったかもしれない。

 しかし裾を踏みつけるという酷く幼稚な、攻撃とさえ呼べない王女の行動は、魔王ゲオルギウスの虚を完全に衝いた。

「!?」

 足が縺れ階段を一つ踏み外し、体の重心を崩したと認識した瞬間、手摺の角に右側頭部を強打した。

 一瞬意識が飛び、再び正常な認識能力を取り戻した時は、螺旋階段を転落していた。

 なんとか体を押し留めようとするが、最初の頭部への衝撃の影響で平衡感覚が狂ってしまったのか、手は空を掴み、足は空を蹴る。

 しかし階段の最後まで来た所で漸く手摺を掴むのに成功した。

 だがそれも束の間、長い年月の間に風化し脆くなっていた手摺は、立ち上がろうとする彼の体重を支えきれずに、急激な崩壊を起こして、折れた。

 自重の支えが突然消失し、対応しきれず仰向けに倒れて行き、そして後頭部を階段の角に打ち付けてしまった。

 そして魔王ゲオルギウスの意識は消失した。

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