廃車(2)

 翌朝、ぼくとナナは一度研究室へと向かった。危険性は承知の上だが、やむを得ない。ここでしか手に入らないものがいくつもあった。

 消火器の暴発はかなり研究室を掻き回したらしい。戸を覆っていたガラスが砕けて、上段にしまっていた器具の類は、半分以上が使い物にならなくなっていた。

 研究室には非常時の食料が備蓄してあったはずだ。食料棚の戸を開ける。コーヒーや菓子類の奥に、水やインスタント食品、缶詰などといった非常食が埋もれている。さらに奥を探してみると、目当てのものは簡単に見つかった。

 キューブ。これはナッツ風味のものらしい。他にも、味の違うものがいくつか。

 昨日採集した砂のサンプルを解析している間に、ナナに頼んでキューブを砕いてもらった。それも同じように一定量計測し、成分分析機にセットする。

 幸い、電力も分析機も生きている。五分ほど待てばすぐに結果が出るはずだ。電子パッドを接続し、起動ボタンを押した。データは自動的に同期される。

「こんなもの、分析にかけてどうするの?」

 ナナはどこか怪訝そうな面持ちだった。鍵の束を漁る手を止めないまま、「まあ、色々」と適当に返事をした。目当ての鍵を見つけ、メッキのはがれた薬品棚に近づく。

 しゃがみこんで、下段の鍵穴に鍵を差す。

「何探してるの?」

「爆弾の材料」

「はあ?」

「防衛手段はひとつでも多い方がいい。そうだろ」

 鍵穴が周り、がちゃ、と重たい音がした。

 ゆっくり扉を開ける。手書きのラベルがついた瓶がぎゅうぎゅうに詰められているが、ここにある薬品も研究室のほんの一部にすぎない。この棚に詰められているのはもっぱら塩基性の化合物だ。

 爆弾といっても手榴弾程度のものが作れればいい。なるべく簡単に作れて安全に持ち運べるもの。ニトログリセリンは精製に手間がかかるし、過酸化アセトンは比較的簡単に入手できるが危険度が高い。

「なんで爆弾なわけ」

「なんとなく」

 硝酸アンモニウムの瓶がようやく見つかった。

 油とワックスと水はミヤのところでも入手可能だろう。あとは外枠とガラスビーズさえ手に入れれば、含水爆薬の材料が揃う。

「檸檬」

 彼女はそれで、何か合点がいったようだ。

「あんまり危ないことはやめてよね。ハルは自爆とかしかねない」

「心配ないよ。単なる好奇心だから」

 器具と薬品で必要なものを、一通りかばんに詰めた。

 分析結果もいくらもせず出た。予想した通り、二つの折れ線があるところでぴったりと交わり、沿うように動いていた。酷似している、と言うには少し足りないが。

 あとはミヤの店に戻るだけだ。研究室を出る前に、一度振り向いて全貌を眺めた。すでに乾いて染みになった黒色の傍に、博士の愛用していたカップが転がっていた。

 一枚だけ写真を撮った。彼の存在した形跡がこの世から消えてしまう前に、残しておきたいと思った。この小さな建物が、ぼくと博士の全てだった。

 ぼくは踵を返し、研究室を後にした。

 この場所にはもう足を踏み入れないのだろう、という気がした。

 こんな時に限って、空は晴れやかだった。


 ミヤからの続報があったのは昼食を食べた後だった。「色々調べはついたわ」と報告を受け、ぼくはナナと連れ立ってサーバールームに向かった。

 サーバールームに立ち入った瞬間、温度がすっと下がったように感じた。吐息の白さが、機材のLEDに仄青く照らされる。

 デュアルモニターには、ウェブページが何種類にも渡って映し出されていた。一つが医学協会のデータ。折れ線グラフのようだ。それと、二〇四七年当時のものだろう、同じニュースの記事がいくつか。今は閉鎖になっているサイトがほとんどだ。

 記事そのものも、ぼくが調べた時には、一つだって見ることができなかった。ブロッキングがかかっているか、ページそのものが削除されてしまっていたからだ。アーカイブにアクセスするライセンスもぼくは持っていない。

「まず一番右のモニターからね。精神疾患の罹患者数が青色。アルツハイマーの類が赤色。どちらも増加傾向ね。二〇三〇年代までは傾きが緩やかだけれど、共に四〇年代から増加が激しくなっている。高齢化率が三〇パーセントを越えたのがこの辺りだから、その影響は無視できないレベルでしょうね。それから、ここが樹化病の始まった年。一見下がってるのは人口減ね。精神疾患の方は、割合だけ見ると二.二倍程度に増えてる。種類別に見ると、統合失調症が顕著ってところかしら。鬱も多い」

 ミヤは淡々と告げた。把握されている数でこれなら、治療費を払えず医者にかかれなかった罹患者を含めたら、さらに厖大だ。考え込むぼくをよそに、ミヤは続けて下のモニターを指さす。

「それで、こっちが豪雨災害とそれに関連するデータ。あなたの言っていたような『事故』は、確かに起こっていたわ」

 何もかも見透かしているような目が、こちらを一瞥した。

「あの年の関東の秋は、びっくりするほど長雨が続いた後に、九二〇ヘクトパスカルを下回る台風が来て大変なことになった。酷い場所で五メートル以上の浸水。公共の避難所さえいくつも機能不全になる始末。死者は六五七人、行方不明者はその倍にも及んだ」

 その上、強風に煽られたダンプが、死体処理場の貯蔵所に突っ込んだ。火力発電所に液体燃料を運んでいたダンプは、大規模な爆発と燃焼を引き起こす。あの大雨にも関わらず、延焼が止むまでに一日以上の時間を要した。大きな損壊の最中、散布された防腐剤も虚しくぐずぐずになりかけた死体が、洪水に乗って周囲に散乱した。最も遠いもので三キロ先まで運ばれていたというから驚きだ。

 やがて台風が過ぎ去り、からっと晴れた空の下に晒された東京は、見るも無残な有様だった。乾いた汚泥から無数の菌が舞い上がり、衛生環境の悪かった低所得者の市街では、破傷風やコレラといった前時代の感染症が流行した。ダンプが爆発をした辺りでは、汚泥と炭と死体の海が広がっていた。

 それから半年後の春。徐々に復興の進んでいた東京の街へと、さらなる深手を負わせようとするかのように、桜花病と樹化病とが広がり始めた。

「なかなか興味深かったわ」

 ミヤはデスクに頬杖をついてぼくを見上げた。

 ぼくの仮説はある程度間違っていなかったようだ。とても喜ばしいとは思えない。むしろ苦々しいくらいだった。

「あの黒い装置の解析もしてみたわよ。だけど、その結果を教えるのは少しおあずけね。次はあなたの番よ、ハル」

 あなたは一体、何を掴んだのかしら?

 ナナもミヤも、ぼくに急かすような目を向けていた。

「その前に、少し場所を変えませんか。ここでは寒すぎる」

 腹を決めるための、ほんのわずかな時間稼ぎだった。ミヤが何かを察したような顔をして、「そうしましょうか」とぼくに笑い返した。


 リビングは底冷えがしたが、ヒーターがある分、サーバールームよりはいくらかましだった。地下で日が当たらないのは同じはずなのに、どうしてあの部屋だけがあんなにも冷えるのだろう。

 ぼくはソファに座り、話す順番を頭の中で整えた。

 小さく深呼吸をする。まず一つ、と前置きをして、口火を切る。

「桜花病の流行と樹化病は、おそらく無関係です」

「どういうこと?」

 ナナが身を乗り出す。「続けてちょうだい」と、ミヤが静かな声音で言った。

「無関係、というと言葉が強すぎるかもしれない。要するに、相関関係はあっても、因果関係はないということです」

 アイスクリームの売れ行きが伸びると溺死者が増える。それは夏場の高気温という環境要因があるからであって、決してどちらかがどちらかを呼び起こしているわけではない。それと同じだ。

 桜の腐食が伝染し、同時にヒトの皮膚が変容する奇病が流行る。あまりにもタイミングが被りすぎている。「桜が病を伝搬する」という誤解を招くには十分だ。

 決定的な証拠があるわけではない。しかし、現に、両者を結びつける証拠もない。樹化病患者から、桜花病の原因となった糸状菌や、それと類似した細菌が見つかっていないのは、桜が原因だとしたら不可解だ。

 先ほどのミヤの情報にあった通り、疫病が広がる前年には大きな豪雨災害が起こっていた。それに伴い、大量の腐乱死体が流出している。桜花病の原因はそれだろう、とぼくは踏んでいた。地下室に大量の死体を貯め込んでいた殺人鬼の家から、未発見を含む無数の病原体が検出された、という話も聞いたことがある。米国の古い怪談話だが。

 桜の樹の下には屍体が埋まっている。

 まさに言い得て妙じゃないか。ゆうに百年は昔の作品なのに、不思議なものだ。

 彼らは食い入るようにぼくを見ている。

「それと、桜花病と樹化病が全く別物だとしたら、樹化病の感染源についても、ある仮説が立てられるんです」

 プリオン、という言葉を口にすると、ミヤがはっと目を見開いた。

「プリオンは感染性の蛋白質です。健常のヒトや動物の全身に常駐し、神経細胞の細胞間接着や、脳内の信号伝達に関与すると言われている。通常は害を及ぼさないけれど、異常型のものは神経変性を引き起こし、正常型のものを巻き込みながら増殖していく。その結果、牛の海綿状脳症やクロイツフェルト・ヤコブ病が引き起こされるのは有名な話ですが」

「ちょっと待って、なあにそれ」

 ナナの表情に困惑が露呈していた。「脳がやられる病気よ」とミヤが補足する。

「アルツハイマーに似た症状が現れる。海綿状脳症という名前の通り、異常型プリオンにやられた脳がスポンジみたいにスカスカになるのよ。致死性が極めて高い」

「それが何によって伝搬されるかはご存知ですか」

「共食いでしょう。牛の場合は――狂牛病ともいわれているけど――確か、飼料に牛骨粉を使ったことが原因だったはず。クロイツフェルト・ヤコブ病も、遺伝性と変異性とがあるけど、ニューギニアの『クールー病』なんかは、葬儀の際に故人の遺体を食べる習慣が原因だったかしら」

 そこまで言って、ミヤは苦虫を噛み潰したような顔をした。

 ぼくは続ける。

「樹化病の症例にも、海綿状脳症という特異的なものがありました。皮膚組織の壊死は従来のプリオン病にはない症状だけれど、壊死は伝達系の混乱が原因だというのはジャーナルで読みました。もしかしたら、感染源はこれまでの異常型プリオンの変異種かもしれない。あくまで仮定ですが」

「待って、その話が本当だったとしたら、東京では公然と人肉食カニバリズムを行っていたことになるでしょ? そんなのおかしい。聞いたことない」

 ナナが食ってかかった。信じたくない、とでも言いたげに。

「行っていたのさ。プリオン病は経口感染する。罹患者の八割以上は貧困層だった。

 彼らが常食していたのは何か? 考えるまでもない。

 ナナが青ざめた顔で息を呑んだ。

「キューブは非常に安価で高性能な機能食品で、調理の必要もない。だからこそ、都市労働者を中心に広く普及した」

 桜に異常が見え始めて、東京の物流が、特に外への物資の流れが断絶されてからは、東京工場で作られたものは東京でのみ出回っている。最初期以外に東京外での患者が見られないこととは、何ら矛盾しない。

「今日、キューブの成分とあの砂漠の砂の成分を、分析機にかけてみたんです。病院跡には死体と思しき痕跡がいくつもあった。廃業以来放置せざるをなかったあの場所には、いくつも死体が残っていたようでした」

 あの砂の成分は、完全な一致でこそないものの、キューブとよく似通っていた。特に、リン、カルシウム、硫黄の整合比はおおむね同じ。

 導かれる結論は一つだ。

「つまり、あなたはこう言いたいのね? ――樹化病の発生源はキューブで、、と」

 ええ、と頷く。

 空気が張りつめたように重かった。

 先ほどのデータを見た限り、四〇年代以降、統合失調症や鬱病をはじめとする精神疾患や、アルツハイマーと診断された患者はおよそ倍に増えている。樹化病の発現より前からだ。

 おそらく単なるプリオン病そのものは、ずっと前から起こっていたのだろう。キューブの発売は四〇年代前半で、都市部を中心に普及するまで何年とかからなかった。あのグラフの増減と一致している。

「当時の東京は……いや、日本は、多大な問題を抱えていました。その一つが高齢化率の例を見ない上昇であり、身寄りがなく孤独死する老人の増加であり、墓地の不足でした。加えて、東京で未曽有の豪雨災害が起こります。たくさんの死者が出た。処理に場所的な問題が生じたことは、容易に想像がつく」

「なるほど。火葬で手厚くお弔いができて、お墓も用意できるような富裕層はともかく、大多数のそうでない人たちの行き場のない死体が増えた。処理が大変になったから。どうせ貧困層しか口にしない簡易食品に混ぜ込むことを考えた。面白いじゃない」

「どこがあ? ただただ胸糞悪いだけだわ、こんなの」

 ミヤの余裕ぶった口ぶりに、ナナが噛みついた。「そう? 誰がこんなこと考えたのかを考えれば、ますます面白いわよ」と、ミヤがぼくに目配せをする。軽く伏せた瞼から、濃い色のアイシャドウが覗く。

「ともかく、真実の程を確かめる必要があります。そのために、工場の内部調査をさせてください。実行は早くて明日にでも」

 ミヤは思わせぶりに間をおいて、「いいわね」とぼくに賛同した。

「そうだ、もうひとついいことを教えてあげる。あの装置のデータを解析してみたの。そうしたら、出自がわかったのよ。どこだと思う?」

 ミヤの振りには答えず、目で答えを促した。

 キューブ工場、とミヤが言った。

「愉快なことになってきたわねえ」

 心底楽しむような声音。ミヤは赤い唇をにやりとあげた。


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