廃病院(1)

 1、

『桜の樹の下には屍体が埋まっている!

 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ』

 不思議な文章だ、というのが率直な感想だった。

 博士との話の後、ぼくは彼に言われた通りに部屋を調べた。机の上には写真立てと、空き瓶に挿した桜の複製レプリカ。その陰に、おそらくこれも複製なのであろう、小ぶりなレモンが添えられていた。

 桜とレモンはどちらも博士の好きなものだった。感慨に浸りつつ、ぼくは写真立てを手に取った。東郷を中心に据え、彼のオリジナルたち――アン、ミヤ、ナナ、そして博士が、家族のように並んで身を寄せ合っている写真だ。ぼくは裏の金具を外し、その写真を写真立てから抜いた。

 コルクボードには小さい鍵が張り付けられていた。机の引き出しで、鍵のかかっているものは一つだけ。他の引き出しも一応確認をしたが、全て空だった。

 意を決して鍵を開けた。中に入っていたのは、古びた文庫本が一冊。

 表紙には『檸檬』と書かれていた。著者は梶井基次郎という作家だ。母親が生前好きだったと聞いたことがある。『檸檬』は花狩りの影響で禁書認定を受けた作品の一つだった。電子データは削除され、現存するものは紙の書籍だけだ。ここで手にしなければ、おそらく読める機会もなかっただろう。

 これが博士がぼくに託したかったものなのか。怪訝に思いつつ、ぼくはその文庫本を手に取った。

 東郷の計らいで、今夜はこの邸宅に泊まることになっていた。ぼくは案内された客室に本を持ち込み、やたらふかふかと沈むベッドの上で、寝そべりながら文庫本をめくった。相当の年季ものらしく、紙は茶色っぽく風化している。

 短編集のようだ。表題の『檸檬』をはじめ、全部で二十作品ほどが目次に並んでいる。その中で、真っ先に目に留まった題名があった。

『桜の樹の下には』

 禁書認定された所以の作品だろう。ぼくは指定のページを探して本をめくった。本は黴のような湿ったにおいがした。

 『桜の樹の下には屍体が埋まっている!』という文で始まるこの小説は、独特のリズムと雰囲気を持っていた。この時代の小説は、高校での授業以来だろうか。ただ、教科書に載っていたものよりも、いくばくか読みやすい文体だった。

 短い小説だったから、全てを読むまでにそう時間はかからなかった。

 読み終えた後、ぼくは奇怪な気分だった。主人公は桜の美しさに恐怖に似た感情を覚えている。このような現象は、てっきり、樹化病の流行以降に特有のものだと思っていた。桜への恐怖は、日本人にある潜在的なものなのだろうか。それはいささか考えすぎだろうか。

 電子パットは充電中。浴槽にお湯が溜まるまでにはまだ時間がある。手持無沙汰だったぼくは、ついでに表題の『檸檬』にも目を通した。

 端的に言えば、日々の暮らしで摩耗している主人公が、レモンを爆弾に見立てて置き去る話だった。嫌いではないが、やっぱり独特だ。母親はこんなものを好んで読んでいたのか。

 文章表現は確かにきれいだった。みすぼらしいものに惹かれる、という主人公の感性にも、どこかしら共感を覚えるところがあった。だが、ぼくの頭は何とも言えない微妙な読後感に支配されていた。

 燻ぶった気分のまま、ぺらぺらと適当にページをめくる。すると、ページの隙間から何か白いものがひらり、と落ちた。手に取ってみると、レシートのようだ。栞代わりに使われていたのだろう。

 つるつるとした紙。印字はすり切れていて、文字が紫色っぽく色あせている。時間をかけて解読すると、売店のレシートらしいとわかった。何を買ったのかまではわからないが、品数はそう多くはない。

 日付は今から十六年前の一月。奇遇にも、ぼくの生まれた年だった。

 場所に関しては、末尾の「センター」の文字だけがかろうじて読めた。

『兄さんは、もともと病院に導入されたケアロイドだった。終身医療施設で使い倒されて、ある日首を切られたんだって』

 いつか聞いたナナの台詞が蘇る。これは博士の勤めていた病院だろうか。

 ミヤに聞けば何かわかるかもしれない。どの道、明日はミヤと落ち合う予定だった。

 色々な情報を頭の中で咀嚼しながら、ぼくは久しぶりに湯船につかった。風呂に入っている間に、ぼくが来ていた衣服は洗濯されて、きれいに畳まれていた。

 疲れが溜まっていたせいなのか、その日は夢を見ることもなく、ぐっすりと眠った。


 翌朝、起き上がると頭がどろりと重かった。差し込む朝日の中で感じたのは、どこか穴が空いてしまったような喪失感と、目の前がちかちかと弾けるような眩暈だった。

 身支度を整え、昨夜と同じリビングに着くと、すでにナナと東郷が並んで朝食をとっていた。

 サラダとベーコンエッグ、厚めに切られたフランスパン、いくらかの果物。豪華なものだったが、生憎食欲はなく、ぼくはビタミン剤をコーヒーで無理やり流し込んだ。

 昨日の料理の重さが、まだ胃の中に残っているような気がした。

「ひどい顔。ちゃんと寝れた?」

 林檎のかけらを口に押し込みながら、ナナがこちらを伺った。彼女の皿はすでに空だった。

 ぼくは首だけで頷き、もう一度カップに口を付ける。研究室のものと同じにおいがした。コーヒーだけはなぜだか無理なく胃の中に入れられた。

「少しは食べたらどうだい?」

 東郷は小動物を観察するような目でこちらを見ていた。「君に倒れられてはこちらも困るんだが」

「……朝はあまり食べないので」

 そんなんだからチビなんじゃないの、というナナの横槍を無視し、ぼくはカップを置いた。

 早急にやるべきことは二つ。一つは、カメラを取りに戻ること。視覚情報を共有できるものは多い方がいい。写真は何かの証拠にもなり得るかもしれないし、何より手元にカメラがなくてはぼくが落ち着かない。

 二つ目は、病院の所在を突き止めること。博士の勤め先は終身医療施設だったとナナが言っていた。おそらく樹化病の前線だったことは間違いない。現場を訪れれば、少なからず新しい情報が手に入るはずだ。

 自宅に戻る必要があるのは気がかりだが、日中のこの時間であれば父親は不在だろう。

 ぼくは腹を決め、一度自宅に戻りたいと東郷に伝えた。彼は快諾し、すぐにでも車を出すとぼくに告げた。

「とはいえ、あまり長時間滞在するのはよろしくない。君は件の研究の重要参考人なんだよ、市村治くん。市警に情報が出回っている」

 彼も随分と回りくどいことをするものだ、と東郷が言った。

 煮え切らない気分だった。これではまるで泳がされているようだ。

「君が捕まれば私にも相当な痛手だ。ナナを連れて行きなさい。あれは戦闘に特化したモデルでね。旧型とは違う」

「第二研究室はいいの? パパ」

 ぼくの残した朝食に手を付けていたナナが、口元に黄味をつけたまま顔を上げた。

「データは既にバックアップされているんだろう。ならあそこは、今やただの空箱も同然だ。……それに、君も一緒に行きたいんだろう、ナナ」

 ナナは少し息を呑むような所作をして、でも何も答えなかった。

 その時、昨夜と同じ秘書の男が顔を出した。車の用意ができたらしい。ぼくは荷物を持って入口へと歩いた。一刻も早くこの場所を出たかった。

「くれぐれも慎重に頼むよ」

 東郷はぼくの背中に向けて、言い聞かせるように言った。

「わかってます」

 ぼくは振り返らずに答えた。

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