廃校(5)

 データのバックアップを終えたと報告すると、ミヤは「お疲れ様」と平淡な口調で言った。

『おめでとう。これであなたは、文字通り生きたデータになったわけね』

「……そうですね」

 返事に困る。

 ミヤはぼくをからかうように笑った。露骨に顔をしかめたぼくの前に、端末の持ち主であるナナがコーヒーを置いた。

 ぼくの端末はすでに電池が切れて使い物にならなくなっている。探知される可能性もある以上、ぼくのものは使わない方が利口な選択だった。

『これからどうするつもり?』

 スピーカー越しのミヤの声は、いつもよりもざらついて聞こえる。

 こちらに主導権を握らせるつもりなど、果たしてあるのだろうか。

「ともかくデータを閲覧してみます。それと、……」

 端末を握る手に力を込める。言い淀んだぼくに、ミヤが「何?」と続きを促した。

「あなた方の親に会わせてください」

 今度は向こうが沈黙する番だった。

 ぼくは手元のコーヒーに口をつける。薄味で、風味だけが鼻に抜けた。

「博士が姿を消したこと。ぼくがここにいること。研究を引き継ぐこと。すべて『パパ』の掌の上なんでしょう?」

『……言いがかりね』

「だったら、弁明の機会としましょう。とにかく会わせてください。確認したいことが山ほどある」

 数秒の間の後、「そうね」と吐き出すような声が返った。

『丁度いいわ。パパもあなたに会いたがってたから』

 それじゃあまた連絡するわ。その言葉を最後に、通話は切れた。

 落ち着かない気持ちを鎮めるために、もう一度コーヒーを飲んだ。温かい液体が胃の奥に落ちていく。

 ナナはぼくの正面でミルクティーを飲んでいた。「これ、ありがとう」と端末を返すと、「ん」とカップを離さないまま受け取られた。

 木枯らしが強いらしく、薄汚れた窓がガタガタと震えていた。室内の暖房は、今や骨董品の電気ストーブがひとつだけ。古ぼけたやかんがその上で湯気を出していた。

 ストーブの前で手を擦り合わせ、ぼくは小さく息をつく。考えなければならないことが多すぎる。

 頭が疲れている感覚がした。眉間を指でぐりぐりと押したが、緊張がほぐれたような感覚はなかった。

「どうして桜の研究なんかしてたの?」

 静寂の中、やかんに手を伸ばしながらナナが尋ねた。

 またその質問か。半ば辟易するが、ナナは興味深そうな眼差しを変えない。

「だって気になるじゃない。皆、桜のことを忌まわしいもののように言うでしょう。不潔なものには触れたがらない。臭いものには蓋ってやつ?」

 ナナはそう言って、ティーバッグが入ったままのカップに直接お湯を注いだ。

 発現の時期が重なりすぎていたから、「桜の存在がなくなれば病もなくなる」と考える人は少なくなかった。次第に桜は忌々しいものの象徴とまでなった。だからこそ『花狩り』によってほとんどの桜が伐採された。一時は研究施設や病院への放火が相次いだとも聞く。

 彼女の言うことはもっともらしかったが……全員を一緒くたにされては元も子もない。

「そんな人ばかりじゃない」

「けど、世論は『そんな人』によって作られていったわけでしょう。だから生物犯罪法ができた。樹化病や桜が関わる研究・書物すべてが検閲されるようになった。桜を用いた芸術作品だって規制を受けるようになった。安全ではなく安心のために。無意味なことよ」

 ぼくのフォローはあっさりはじき返された。

 桜に対する異常なまでの潔癖は、病の流行後、各所で見受けられた事実だ。伏字やモザイクが一部で厳格化し、禁書となった文学作品も少なくなかった。一度電子データを削除された作品は、紙の本を手に入れない限り目にすることも難しい。

 丸椅子の上で足を組みなおし、彼女は再びぼくを見据える。

「あたしが聞きたいのは、そういう抑圧の中で、手伝いとはいえあえてその研究に手を伸ばした動機が、どんなものだったのかってこと。悪いけどあたし、あなたがそんなに情熱に満ちた人間だとは思えない」

 随分なご挨拶だな。ぼくは小さく苦笑し、ぼんやりと答えを考える。

「一度でもいいから、咲いている桜を見てみたかった」

「嘘つき」

 博士の受け売りがバッサリと切られ、ぼくは答えに詰まる。まったくの嘘ではないが、確かに本当でもない。

 誰にも話したことのない部分を彼女に晒すのは、少し気が引ける。

 机上の菓子袋に手を伸ばし、クッキーを口に放り込んだ。粉っぽい甘さだけが胃の中に落ちていく。

「樹化病について、君はどのくらい知ってる?」

 ぼくの問いに、ナナは少し首を傾ける。

 ワールドペディアによればこうだ。

 ソメイヨシノ種が媒介する伝染病。致死率は六割超。二〇四七年一月に世界保健機構がエピデミックと認定。流行のピークは二〇四八年。約三五万人が死亡、うち九割を東京の貧困者層が占める。初期症状は麻痺、貧血、治癒能力の低下。中期以降の患者には末端組織からの壊死が見られる。数週間から数ヶ月にかけて進行。感染源は不明。半数近くが海綿状脳症を併発している。

 感染経路については、花粉を吸ったことによる肺からの感染、粘膜接触、血液感染、経口感染と諸説あるがいずれも根拠が薄い。空気感染については医学研究で否定されている。

 何度も何度も繰り返し見聞きした話だ。

「その中に一つ、検討されていない事項がある。わかる?」

「うーん……」

 ナナはしばらく考え込む所作をし、「何?」とこちらを伺った。

「母子感染」

 口から出た声が、どこか自分のものではないような感覚がした。

「ぼくの母親は相当なお人好しだったみたいで、流行り病に侵された東京で、病院にもありつけないような貧困者層の介護をしていたらしい。いわゆる『死を待つ人の家』のような場所で、ボランティアとして働いていた。そうしたらまんまと感染した。父親とは結婚して数ヶ月も経っていなかった」

 何度も耳にした感動話。君のお母さんは献身的で優しい人だったんだよ、ハル。

「末端の痺れと貧血がひどくて、病院に駆け込んだんだ。そうしたら、病気と同時に妊娠が分かった。腹の中にいたのがぼくだ」

 ぼくを身ごもっていた母親は、他の患者に比べて病気の進行が速かったらしい。

 病気がさらに深刻化すれば、胎児は自然と流産する。ぼくの父親も当然それを覚悟したが、母親は違った。胎内の小さな命でも、簡単に奪うことはしたくない。頑なにそう主張していたらしく、苦肉の策としてワシントンでの代理母出産が決まった。

 代理母に受精卵を移す手術の後、予後が悪かった母親は総合病院に長期にわたり入院した。やがて病床が足りなくなると、半ば強制的に退院を迫られ、父親の計らいで終身医療施設に移された。いわゆるホスピスのような場所だそうだ。

 出産の見届けのために父親がワシントンに移った翌日、母親は亡くなった。奇しくも、その直後に見知らぬ女からぼくが生まれた。

 樹化病の母子感染についてはまったく調査が進んでいない。感染した妊婦が無事に子供を産めることはまずないからだ。たいていが流産や死産になるか、母体が病気に耐えられず先に死亡する。

 ぼくが母体にいたのはほんの数週間だった。その点でぼくは相当なイレギュラーだった。検査結果は陰性だったが、発症の可能性は絶たれたわけではない、というのが医師の見解だ。

「終息宣言から十年以上経っているのに、今更樹化病が発症するかもしれない。今の今までぼくは健康そのものだったけれど、例外的に進行が遅いか、潜伏期間が長いという可能性だって否定はできない。ゼロに近いけどね」

 ナナは神妙そうな顔でぼくの話を聞いている。

 口の妙な渇きを感じて、手の中のコーヒーカップに口をつける。すでにぬるくなり始めている。

「どうせ死ぬかもしれないから、自暴自棄になってたってこと?」

「いや」

 ぼくは彼女の意地悪な問いを否定し、背もたれに体重を預ける。

「どうせだったら自分の命を有効活用したいと思っただけだよ。感染のリスクはぼくには無意味だから」

 そもそも、いつか死ぬのは誰だって一緒だ。

 ナナはぼくの返答に不満げだった。頬いっぱいにお菓子を詰めたまま、「そんなの自暴自棄と同じじゃない」とこちらを睨んでいる。

「……そうかな」

 ぼくにはよくわからない。彼女の台詞の真意も、なぜ彼女が怒っているのかも。

「桜に興味があったのも事実だ。ぼくなんかの能力が少しでも役に立つならそれでもいいと思った。ぼくは、」

 そこまで口にして、気がつく。それと同時に、自分の根底にある浅ましさに、うんざりする。

「ぼくは自分の生きる意味がほしかった」

 ナナは何も言わなかった。

 ぼくは席を立ち、カップ中の僅かな残りを流しに捨てた。錆びくさい冷水でカップをゆすぐぼくの傍ら、彼女は頬杖をついたまま何か考え込んでいた。

 ふと窓の外を見ると、枯れ木の枝先に雀が二羽ほど止まっていた。枝は寒風に煽られて頼りなく揺れている。膨れた雀は枝先でじゃれるように体を触れ合わせ、小さく羽ばたくふりを繰り返していた。

「意味なんかなくたって、あなたたちには自由があるのに」

 ひときわ強い風と同時に、雀は二羽同時に飛び立った。

 一般的に労働力として酷使されるアンドロイドは、同時に失業の原因として疎まれている。人間主義が過激になるに伴って、排斥も制約も強まっている。

 一方で、ぼくたちが享受できる自由だってたかが知れている。口に出そうと思った言葉を、ぼくは喉の奥に飲み込んだ。代わりに、

「意味に縛られることと、何にも縛られないこと。どっちの方が幸せなんだろうね」

 そう言って、彼女の傍に座った。人間は自由の刑に処せられている、と言ったのは誰だったか。

 ナナはぼくの言葉を半ば無視し、ラジオのチューナーに手を伸ばした。

 ドラムの重低音。金属めいた軋んだギターの音。ロック音楽だろうか。病が流行る少し前までは、ロック音楽は厳しい検閲の対象だったと聞いたことがある。

 俺たちは生きてる!

 音割れするサウンドの中、歌手が何度も怒鳴るように歌っていた。

「あたしは難しいことはわからないけど、幸せってたぶん、好きな音楽を好きなように歌えるとか、そういうことじゃない?」

 そう言って、ナナは退屈そうに小さなあくびをした。

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