廃校(2)

 ナナの拠点は駅近郊のとある学校だった。

 もともとは全校生徒一四〇名ほどの小さな高校だ。生徒の減少と合併が原因で、学校そのものは昨年の時点ですでに廃校になっている。あとは取り壊しを待つだけの古い校舎は、管理権をめぐる問題や業者の都合で煮詰まっており、長いこと放置されている状態らしい。そこにナナが潜り込んだという塩梅だ。

 校舎は見るからに煤けていたが、まだわずかに生活臭が残っている。長い間、野ざらしにされていた東京の廃墟群とは違い、完全に風化しきってはいない。まだ新しい死体のような生々しさ。

 明かりもない夜の校舎の中へ、ナナは躊躇いなく足を進めていく。細かな砂利の踏み鳴らされる音。砂地のグラウンドとは今時珍しい。

 ここは、彼女が試験的に生徒として導入され、生活していた場所だという。

「なかなかいい学校だったのよ。今はみんな福島の新校舎に行ってしまって、仲良くなった子とももう会えないけど」

 ナナは渡り廊下から続くドアに手をかける。施錠を解き、彼女は土足で校舎に踏み入った。「埃だらけだから靴のまま入って」という彼女の言葉通り、廊下の隅には砂とも埃ともつかない何かが薄く降り積もっていた。軽く咳が出て、コートの襟口を引っ張りあげる。埃っぽい上に乾燥している。喉が痛い。

 ナナがある教室に入ると同時に、自動点灯の照明がぱっと明かりを灯した。

 カーテンで区切られた白いベッドがいくつか並んでいる。小さなキッチンと、薬品棚。微かに残る湿布のようなにおい。

 保健室か。懐かしさとある種の苦々しさを感じながら、ぼくは固いソファに荷物を下ろす。中高に通ったのはあわせて三年程度だが、保健室は馴染み深い場所だ。

 ナナは戸棚を探り、温めるだけのうどんを二つ取り出した。

「きつねとすき焼き味、好きな方選んでいいよ」

 ナナはこちらを見ないまま、ぞんざいに手を差し出す。

 ぼくは空腹感も食欲もなかった。疲れていたし、色々なものを見すぎたせいだ。中には凄惨なものも多くあった。今日だけでいくつの死体を見ただろう。

「ほら早く選んでよ、いき倒れたら元も子もないじゃない」

 彼女の勢いに負け、「きつね」と書かれたパッケージに手を伸ばす。アルミ容器の中には最低限の材料しか入っていない。真空処理された麺の他に、からからと乾いた薬味の音。

 彼女はてきぱきと準備をし、水とうどんの入ったアルミ容器を、古めかしいストーブの上に二つ置いた。

「……君たちアンドロイドにも、食事が要るの?」

 ふと浮かんだ素朴な疑問を口にする。ナナはキャスター付きの丸椅子に腰かけ、「そうね」と答えながら床を蹴った。ぐるり、と彼女の体が回る。

「あたしたちの体には、体内に取り込んだ水と有機物を分解して、エネルギーに変換する機能が備わってるの。人間社会でなるべく自然に見えるように。疑似的な味覚もあるから、味もわかる。あくまで数値上のラベリングされた感覚でしかないけど」

 兄さんなんかは食事を楽しんでたみたいだけどね、とナナは言った。思えば、ぼくによくお菓子を持って帰ってきた博士は、「これ、おいしいんですよ」と言いながらレモンタルトばかり選んでいた。手間を避けてキューブを夕飯にしようとした時に叱られたこともあった。

 不思議な感覚だった。あの人がアンドロイドだということが、頭でわかっているはずなのに、実感として入ってこない。

「兄さんは人間が好きだったの。憧れ、と言ってもいいかもしれない」

 ナナは煮え立ったアルミ容器に手を伸ばす。白い湯気がもくもくとあがって、食欲はないはずなのに、胃の奥のほうがきゅんと動いた。

「兄さんは、もともと病院に導入されたケアロイドだった。終身医療施設で使い倒されて、ある日首を切られたんだって。かわいそうにね」

 アルミ容器にスープの粉末を入れながらの、淡白な口調だった。

「病院での処遇は相当ひどいものだったはずなの。満足に食事だって出ないし、人間サマは威張ってばっかり。散々な目にあって使い捨てられて、それでも憧れを捨て切れなかったあの人は相当変わってる」

 端的にナナが言った。

 病院が閉鎖されてから、博士はあの場所で研究を始めたらしい。灰色に風化した廃墟の森の中で、人目を憚るようにひっそりと。

 それでも、彼が人間を嫌うそぶりはなかった、という。

「兄さんの心境はパパも不思議がってたわ。パパは人間嫌いだから」

 なんの感傷もない言い方だった。彼女の台詞を聞いて、ぼくはいつかの博士の言葉を思い出した。僕にはとても大切な人がいたんです。首元の包帯について尋ねた時の、妙にしんみりとした声音。

 博士が慕っていたのは「人間」じゃなく「その人」なんじゃないか。ふとそう思ったものの、口に出すことに意味はないように思えて、ぼくは言葉を飲み込んだ。

 その日、うどんを無理やり胃に入れて、ぼくはそのまま横になった。保健室に備えられているベッドは簡素なものだったが、横たわった途端に瞼が開かなくなり、沈むように意識が落ちていった。


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