最終話 ひとなつプラネタリウム

「……ハカセ……?」


 突然通話が切れた。ややあってから携帯の画面を見ると、電波が圏外の表示に切り替わっていた。山奥だからか、ここは未だに電波が通りづらい。


 わたしは諦めて携帯をカバンにしまいこむと、くすんだ赤色をしたベロア調のシートに沈み込むように体を預ける。


 力が入らない。余命についての宣告を受けたのが春前のことだからこれでもずいぶん持ったほうだろう。神様にはわたしのワガママをずいぶん聞いてもらった。だからこれ以上を望むのは悪い気もしたけど、これで最後だ。もう一つだけワガママをお願いした。


「ハカセ……あなたに……会いたいよ……」


 わたしは流れていく景色を眺めながら、彼の顔を思い浮かべていた。



 階段を一気に駆け下りながら、ポケットに遊ばせていたバイクのキーを取り出す。踊り場を通り抜けるたびに、教室から楽しそうな声が聞こえてきた。


 のんきなものだ。彼らが悪いわけじゃないのはわかっていたが、それでも舌打ちしたい衝動にかられた。


 玄関を抜けてバイクを停めてある駐輪場に向かう。するとバイクの側に人影があった。


 真衣奈だった。


 その姿を見ても特別驚きはしなかった。


「行くの?」


 真衣奈の問いかけはそれだけだった。それだけで真衣奈が全てを悟っていると気づいた。


「知ってたのか」

「……うん。千枝さんに教えてもらったから。千枝さん、泣いてた」

「だろうな」


 千枝さんは自由奔放なところがある割に、人に対して情が厚い。紗季のことも本当の妹のように可愛がっていた。それだけに紗季のことを知って千枝さんがどんな思いでいたのか、想像するだけで胸が痛んだ。


 俺はバイクにくくりつけていたメットを外す。親父が残してくれたメットだ。それを手馴れた手つきで身に付ける。


「もしさ、わたしが行かないでって言ったら、先輩は怒るかな」


 真衣奈が感情を抑えつつ、つぶやく。


「……どうかな。怒らないと思う。けど、きっとお互いに後悔すると思う」


 俺がそう答えると、真衣奈が所在なさげに俯いた。バイクのセルモーターを回すと、エストレヤが馬のいななきのようにエンジン音を高鳴らせた。


「先輩」


 顔を上げた真衣奈が俺を見つめていた。俺は大丈夫だと言い聞かせるように真衣奈の頭を撫でた。


「紗季さんによろしくって、それから……ありがとうって伝えて」

「わかってる。ついでにあいつの口から迷惑かけてごめんなさいって言わせてやる。それでお詫びに千枝さんところでお好み焼きを腹いっぱい食べよう」

「待ってるから」


 真衣奈と唇を交わす。それから小さく「行ってらっしゃい」と呟いた。


 アクセルをひねると、エストレヤが力強く走りだす。


 思い出の母校が遠くなっていく。


『いつの間にか男になったんだなお前も』


 どこからか親父の声が聞こえた気がした。


 街の景色が風とともに流れていく。


 この瞬間、俺は一陣の風になった。



 遠のいていく排気音を見つめながら「行っちゃったね」と、あたしの横でポツリと真衣奈ちゃんが呟く。どこか寂しそうで、けれどちゃんと笑って見送るその姿は昔のあたしを見ているようだった。


「ようやく行ったんだね」

「世話のかかる二人だよね」

「面倒をかけられるのはいつものことだよ。あたしゃ馴れた」


 大きく深呼吸する。もう夏も終わって秋の香りがほのかに鼻をくすぐった。


「ねぇ千枝さん」

「なぁに」

「千枝さんもさ、こんな気持ちになったことある?」

「これでもあんたたちより十年も長く生きてるんだよ? 当然あるに決まってるさ」


 そううそぶきながらあたしは薬指にはめたままにしている指輪に触れていた。


 こんな気持ち──。どんな気持ちだったかもうすでに忘れてしまった。


 彼と別れてから八年。ちょうど今のあの子達と同じ年の頃だった。


 周りには旦那は死んだことにしてある。そのほうが変に勘ぐられずに済むのと、昔ほどではなくなったが、未婚の母というのは、やはり周りから奇異の対象として見られてしまう。その視線を自分だけならともかく、それを自分の娘にまで向けられるのは母親として許せなかった。


 あたしが彼と出会ったのもこの学校で、今の彼女のように青春を謳歌していた。そして、卒業してから彼らのように月日を重ねて、そして娘を生んだ。


 娘が生まれてしばらくした後、あたしは娘の父親と別れた。理由はただ一つ。彼が自分の家を継ぐためだった。もともと彼の家はあたしが一生かかっても手に入れることの出来ないくらいのお金を持っているような家で、普通ならそんな人間と出会うことなんてないはずだった。それがどういうわけか出会い、愛を育み、子を成した。彼の夢でもあったお好み焼き屋も始めて、借金と子育ても重なってとんでもなく大変な毎日だったけど、それはそれで楽しかった。そんな中、彼の父親が倒れたという報せが入った。あまりにも急な話で、正直なところかなり危険な状態だった。ずっとうわごとで彼の名を呼んでいたらしい。あたしとの結婚を散々反対されて、家を飛び出してきた彼は迷っていた。だからあたしは彼に別れを告げた。彼は嫌がっていたけど、あたしにはそうすることしか出来なかった。


 それから八年経った。今じゃ二人で始めた店も軌道に乗って、借金もほとんど返し終えた。毎日、店と娘の世話で忙しい毎日だけど、ふとした瞬間に、店の入口から彼が入ってくるんじゃないかと思う時がある。


 そんなわけない。以前、娘と二人で街を歩いていると、彼が奥さんらしい女性と一緒に男の子を連れて歩いているのを見たからだ。それを見てあたしは、自分の選んだ選択は間違ってなかったんだと改めて思うことにした。


「恋愛運が悪いのは家系なのかもねぇ」

「なにか言った?」

「いんや独り言」


 紗季ちゃんが恋をしたと話してくれたときは素直に嬉しかった。子供の頃から知ってる彼女が、一人の女の子としてちゃんと生きてくれていたから。学校の帰りにいつもウチに寄ってその男の子のことを話してくれた。紗季ちゃんの話を聞いているうちに、あたしまでなんだか恋をしているような気分になった。


 紗季ちゃんは自分の体のことをいつも心配していた。恋をしちゃいけないんだって思い込んでいた。あたしは彼女に自分を重ねていた。だから紗季ちゃんが翔吾に振られたって聞いたときは、あまり驚かなかった。ウチの家系らしいやとさえ思っていた。仮に翔吾が紗季ちゃんの体のことを知っていたら、同情心でも紗季を選んでいただろうか。……もしそうなら、あたしだったら塩を撒いて追い返してやるところだ。それは紗季ちゃんも同じ気持ちだったんだろう。


 紗季ちゃんがいなくなる日の朝、あの子はあたしに挨拶に来た。あの子が来た時に、無事、翔吾に振られたことを話してくれた。どことなくスッキリした顔をしてた。それからしばらく旅に出てくると教えてくれた。行き先は北海道で原付に乗って旅をするんだと。取ったばかりの原付免許と、旅の相棒らしき古びたスーパーカブを傍らに置いて。あたしがなんで原付で旅を? と聞くと、照れくさそうにしながら「今度は自分が運転して風になってみたくて」と話してくれた。


 彼女がそうする理由はもう聞かなくてもわかっていた。


 時間がないのだ。


 紗季ちゃんはあたしに、自分がいなくなった後のアリバイ工作を依頼してきた。このタイミングでいなくなれば、間違いなく振られたからと思われてしまう。むしろそのほうがいいんじゃないか? と提案したが、彼女にもちゃんと振られたショックはあったらしく、そこについては言葉を濁していた。


 とまぁ、あたしが知ってるのはこのぐらい。ここから先はあの子達がどうするか。


 結果はどうあれ、紗季ちゃんは終りを迎える。


 その時に一緒にいてあげられるのは翔吾、アンタしかいないんだからね。



 目的の場所に着くとわたしは持っていたカバンを放り出して寝転んだ。


 まだじんわりと昼の熱を持った地面が暖かくて気持ちがいい。


 一面、暗闇に包まれたここはさながら、天然のプラネタリウムのようだ。


「……あれが……ベガ……あっちがデネブ……それから……あの星がアルタイル……」


 もうろうとする意識の中、夜空に瞬く星を指でなぞる。それが本当にその星なのかどうかもわからない。ただ、そうしているといないはずの彼が側にいるような気がした。


 散りばめられた宝石たちの中、一筋の光を放ちながら星が流れた。


「……流れ星……やっと見つけた……」


 あの時は見つけることができなかった。なのに最後の最後で見つけるなんてついてるのか、ついていないのかわからない。


 ちゃんとお願い事をした。この願いが叶うかどうかは神のみぞ知る。


 ……いや、叶ってもらわなくちゃ困る。


 目を閉じると、視界から一切の光が消え、風がざわめく音と、虫の奏でるりぃりぃという鳴き声が心地いい。


 誰にも知られずひっそりと終りを迎える、こんな最後も悪くない。


 トクン、トクン、心臓が弱々しくだが、鼓動を刻む。


 ハロー、サンキュー、お疲れ様。今までありがとう。


 決して長くない命だったけど、それでも大いに生きたと感じる。


 思い残すことも、やり残したこともほとんどない。強いて言うなら、最後に千枝さんの作ったお好み焼きをお腹いっぱい食べたかった。そう思うと、腹の虫がぐう、と鳴った。


「はは……こんなときでも元気だね君は……」


 そっとお腹をなでると、意識が遠のいていく。


 ぼんやりと浮かんできたのは彼と出会った高校二年の夏だった。


 わたしが覚えている中で一番楽しかった時間だ。


 人は自分の死期が近づくと、自身の中に残っている一番大事な記憶に触れるという。わたしにとっての大事な記憶はどうやらこの時だった。


 これは彼にも話していなかったことだが、わたしが彼の存在を知ったのはあの事件が起こる以前からだった。


 いつも部活中に屋上を見上げると、彼が望遠鏡を持って空を眺めている姿が見えた。最初のころは特別意識なんてしていなかった。それがいつも彼の姿を見ているうちに、だんだんと彼のことを知りたいという衝動に駆られていた。


 こっそりと彼のことを知っていくうちに、わたしは彼に惹かれていった。


 彼の名前は宮野翔吾。わたしと同じ学年で、天文部に所属している。得意な科目は数学で、苦手な科目は意外にも国語だった。昼休みは友達とつるんでいたり、ときどき図書室で本を読んでいる姿を見かけたりした。


 たまに従姉妹の千枝さんの店に手伝いに行くと、お客さんとして来ている彼を見かけたりした。もちろん彼はわたしのことなんて知らない。それなのに彼が店にいるのに気づくと、顔から火が出そうなくらい恥ずかしくて、物陰に隠れたりしたこともあった。千枝さんに何度冷やかされたことか。そんな気持ちに気付いていたからか、「仲を取り持ってあげようか?」と聞かれたこともあったけど、持病のこともあったからそれは断った。


 わたしは恋をしちゃいけない。勝手にそう決めつけて、無理やり心の奥に沈めた。なのに頭ではそう思っていても、体は言うことを聞いてくれなかった。


 学校で彼の姿を見ると、つい、その姿を目で追ってしまう。その度に心臓の痛みとは違った痛みが胸に走った。


 あるときわたしは、いるのかいないのかわからない神様に祈ったことがあった。


 神様、もしいるんだったらわたしの願いを叶えてほしい、と。


 そのときはなんとなく思ったことを口にした。


 ただ彼と話がしてみたい。そんな願いを。


 その願いは思わぬ形で叶った。


 ある日の部活中、わたしが打った球が綺麗な放物線を描いて吸い込まれるように彼がいる部室の窓ガラスを叩き割ったのだ。あまりの出来事に思わず、やりすぎだよ神様……と、つぶやいてしまったくらいだ。その場にいた神様もきっと苦笑いしてただろう。それでもそのことがきっかけで、わたしは彼と話すことができた。


 一番最初の会話はそう……「頭、大丈夫ですか?」だったっけ。


 窓ガラスを割った罰という名目で、彼が作るプラネタリウム制作の手伝いをすることになった。出会ったばかりのころはなんて話していいかわからなくて、必死に明るく元気な長谷川紗季を演じていた。これはわたしがいつもこうありたいと願った姿で、本来のわたしとは正反対だ。けれど、そんな姿を通してわたしと彼は仲良くなった。お互いに「ハカセ」「紗季」と呼び合える仲にもなった。そのころは不思議なことに体の調子もよかった。あまり無理をすると翌朝ひどい目に遭うのは相変わらずだったけど、前よりこうありたいと願ったわたしに近づいていた。


 毎日が楽しい。


 自然とそう思えるようになった。


 そう思えるようになったのも、傍らでいつも星の話をしてくれる彼の存在があったからだろう。


 ずっとこんな日が続けばいいのに。


 ……しかし、わたしにかけられた魔法は長くは続かなかった。


 高校三年生に上がる直前、わたしは残りの時間がそれほど残されていないことを知らされた。このままいけば良くて二年、最悪、一年も生きられないと。


 医者から聞かされた宣告に母は泣いていた。しきりに「ごめんなさい、ごめんなさい」と嗚咽を漏らしながら。


 わたしは思ったより絶望感を感じていなかった。むしろ、ここまで育ててくれたことに感謝さえしていた。


 お母さん、ありがとう。それから、ごめんなさい。


 そう心の中でつぶやきながら。


 大事をとるということで、わたしは転校という理由をつけて一年間休学することを選んだ。三年の一学期までは思い出の学校で過ごすという条件付きで。


 その日から一日が過ぎるのが早くなった気がした。


 楽しくて、でも切なくて、彼と別れることを思うと胸が苦しくなった。


 何度も、何度も、思いを伝えようとした。わたしにあと少しの勇気があればそれも出来ただろう。結局、最後まで伝えることは出来なかった。


 過ごした街からいなくなる日、お世話になった椎名先生に挨拶を終え、二年とちょっと過ごした校舎に別れを告げる。


 何気なく振り返ってみた。もしかしたらという思いがあったからだろう。部室の窓に目を向けた。わたしが割った窓ガラスは新しいものに直っていて、言われないとそんなことがあったことさえわからない。


 そして、その窓から彼が外を眺めていた。


 ハカセ──。


 そう呼ぼうとして──踏みとどまった。


 ここで彼の名前を呼んでしまったら、わたしはわたしでいられなくなる。そう思うと、わたしの目から涙が溢れていた。


 わたしは……彼のことが好きだったんだ。


 それから一年後、新しい学校で二回目の三年生を過ごし、無事に卒業した。


 選んだ進路は彼の通う大学。お母さんは反対したけど、わたしはどうしてももう一度彼と会いたかった。


 残された時間はあとわずか。それでもわたしは諦めたくなかった。


 目を開けると再び星空。


 ……よかったまだ生きてる。


 体を起こそうとする。が、力が入らない。


 さすがにもうダメっぽい。


 ……紗季。


 どこかで彼の声がした。


 とうとう幻聴まで聞こえるようになったか。


 眠るように意識を手放そうとする。


 まぶたの裏側に彼の姿を思い浮かべながら。


「バイバイ……ハカセ……」


 と、遠くから聴き慣れたエンジン音が聞こえた。幻聴にしてはやたらリアルな音だ。


 神様もういいよ。最期だからってサービスしすぎだよ。


 わたしが呆れたようにため息を吐く。


「紗季!」


 今度ははっきり聞こえた。


 わたしは手放そうとした意識をどうにかつなぎ止め、ゆっくりまぶたを開く。


 彼の──ハカセの姿があった。


 駆け寄ってくる。


 わたしが一番会いたかった人が困ったように眉根を下げて。


 どうしていつも君はそんな顔をするかな……。


 君は笑っていたほうがいいのに。


 だからわたしは出来るだけ笑ってみせるのだ。どんなに辛いことがあっても。



 俺がスキー場にたどり着くと、その駐車場で紗季が倒れていた。


「紗季! おい紗季、しっかりしろ!」


 慌てて駆け寄り体を揺する。紗季は「……まだ生きてるよ」と、へらず口で返してきた。


「今、千枝さんに連絡するからな! いや、それよりも救急車が先か」


 俺は慌てながらポケットから携帯を引っつかむと、救急車を呼ぼうとして携帯がつ

ながらないことに気づいた。


「くそ……ここ圏外か。公衆電話は……ないか」


 半ば落胆したようにつぶやくと、なぜか紗季が笑っていた。


「……心配しなくても……まだ大丈夫だよ……」

「けど……」

「……わたしのことは心配しなくていいから。それよりもさ……久しぶりに会ったんだから……話しようよ……」


 そう言う紗季だったが、声はかすれて耳を澄ませていないと聞き取れないほど小さかった。そんな姿に心配する気持ちはあった。それでも俺は、それが紗季の望むことならと従うことにした。


 紗季の横に並ぶようにして寝転んでみる。二年前のあのときと同じ風景がそこにあった。


「……きれい」


 紗季が俺の手を握る。俺も紗季の手を握り返した。


「約束……かなったね……」

「二年かかったけどな」

「……うん」


 この夏はあの日の続きだったんだ。


 紗季がいなくなった日から今日までの長い長いひと夏。叶うことのなかった約束を抱いた俺と、約束を叶えるために戻ってきた紗季との物語。


 星が廻るように俺たちの約束も、遠いあの日からようやくここにたどり着いた。


 星は誰かと繋がりを求めている。名前も知らないほど遠い宇宙から俺たちに会うためだけに命の光を燃やして。


 覚えてるか紗季。今見てる星って何百年、もしかしたら何千年も前に放たれた光だってことを。もしかしたら今見ている星はもうないかもしれない。でも、たとえ姿を失ったとしても、その星があった証は遠い宇宙を超えて俺たちのいる地球に届いている。なくなったとしても、きっと誰かの心の中に残る。忘れない限り永遠に。


「……ハカセ……泣いてる……」

「え──」


 紗季が指で涙の雫を拭う。


「……目にゴミでも入ったかな」

「……そうだね」


 口を閉ざすと音がなくなった。広い宇宙空間にいる気分だった。


 二人だけのプラネタリウム。学園祭が終わった学校の屋上でもこうやって二人で星を眺めていた。


「……ハカセは……さ……わたしと出会ったこと……後悔してない……?」

「後悔か。後悔なんて山ほどしたよ。それこそ数えたらキリがないくらいにな」

「……優しくないなぁ……せめてそこは嘘でもいいからそんなことないって……言ってほしかったよ……」


 そう言うものの、紗季は冗談として受け取ってくれたようで小さく笑った。もちろん、俺だって言葉通りになんて思っちゃいない。


「そういうお前はどうなんだ?」

「わたしは……後悔……してないよ。むしろ感謝してるくらい……」

「感謝されるようなことなんて何一つしてないぞ」

「……そんなことないよ……ハカセはわたしにたくさんの喜びをくれた……ハカセがいなかったら……こんな長く生きられなかったから……」

「そんなこと言うなよ」

「……うん……ごめん……」


 息を一つするたびに紗季の中から命の輝きが、一つ、また一つと消えていく。


 星は消えるその最期の一瞬、大きな光を放つ。紗季の光もまた大きく輝きを放っていた。


「また……来れるかな……」


 紗季がつぶやく。それは……、と俺は言葉を飲み込んだ。


 違う。紗季にかける言葉はそんな言葉じゃない。


 だったらそれは一つしかない。


「紗季」

「なぁに……?」

「また来ような」

「……うん。また来よう」


 それが永遠に叶わない約束だとお互いにわかっていた。それでも俺は言いたかった。


 また来よう。


 たったその一言を。



 それから数日後、紗季は眠るようにして息を引き取った。


 紗季の最期を看取ろうと、たくさんの人たちが紗季の元に集まった。集まった人たちは紗季との別れを惜しんでいたが、俺だけは彼女を笑って見送ろうと決めていた。


 出棺される日まで涙は見せなかった。けれど、とうとう耐え切れず、その日の夜、人知れず泣いた。


 紗季の遺灰は半分はお墓に、もう半分は紗季が残した思い出の地にそれぞれ納められた。


 あいつは最期の最期まで力強く笑っていた。もしかしたら死んだ親父もそうだったのかもしれない。そう思うと二人は似た者同士だったんだと感じた。


 そうだ少し俺たちの話をしよう。


 紗季の葬儀のあと、大樹はゆりと結婚を決めたらしい。というのも、紗季の死に触れて誰かを守りたいと思ったらしい。勢いだけで突っ走ったものの、案外あっさりと受け入れてくれたらしい。二人とも大学生の身分なので籍はまだ入れてないが、もうすでに一緒に暮らし始めているそうだ。無事卒業までいてほしいものだ。


 千枝さんは年の近い身内を亡くしたにも関わらず、元気だった。千枝さん曰く、いつまでも悲しみに囚われてちゃ紗季に怒られるとのことだった。左手の薬指にはめた指輪はなくなっていた。理由は詳しくは知らないが、今は大事な一人娘がいるからとだけ教えてくれた。


 祐介さんといえば……特別変わったことがないので割愛する。


 真衣奈たち天文部の三年生たちは危なげなく無事卒業することができた。真衣奈は希望通り俺と同じ大学へ。コバは地元の企業へ就職を決め、ほかの連中もそれぞれの進路へと進んでいった。中でも一番意外だったのは、あの吉仲が東大に進路を進めたことだろう。さすがに無謀だと全員が心配したにもかかわらず、結果はあっさりと合格した。それを鼻にかけるような真似こそしなかったが、どことなく苛立ちを感じたのはまた別の話だ。


 真衣奈は大学へ進むと、千枝さんの店でバイトを始めた。人手が足りなかったからというのも理由の一つだったが、紗季のことを忘れたくないからというのが一番の理由だった。紗季と同じように接客している姿は確かに紗季を思い出させる。もしかしたら紗季以上の看板娘になる日もそう遠くないかもしれない。


 最後に俺、宮野翔吾について。俺は……まぁ特別変わったことはない。強いて言うなら、また一つ年をとったくらいか。真衣奈との関係は相変わらず良好だし、単位のほうも留年しない程度にとっている。可もなく不可もなくといったところだ。


 時折、紗季のことを思い出すことがある。あっという間に過ぎ去ったあのひと夏のことを。あの夏の暑さは俺の中に未だ残っている。それは一生消えることはないだろう。俺が覚えてる限り、紗季もまた心の中で生き続けている。ずっと。


 海沿いを走るバイク。後頭部にコツンと衝撃が走る。後部座席には真衣奈のぬくもりがあった。


 アクセルをひねるとバラララと、小気味よいエンジン音を上げてエストレヤが風を切って走る。


 風は緩やかに夏のぬくもりを帯び始めていた。


 そしてまた夏がやってくる。


 あのひと夏を越えて──。


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