第17話 花火大会、そして…… その4

 花火大会の日になると、神通川の土手沿いにはたくさんの人が集まっていた。色とりどりの浴衣を見ると、花火が見せる彩りとはまた違った花が地上に広がっているように見えた。


 普段なら歩けない車道も今は交通規制がなされて、一面、人で賑わっていた。


 待ち合わせ場所に選んだバス停の前にもたくさんのひとだかりができていて、どこに誰がいて、いったい誰と待ち合わせているのかさえわからないほどだった。


 携帯を取り出して時間を確認する。花火の打ち上げにはまだ十分な時間がある。せっかくなら、店を回ってからゆっくり見ようという紗季の提案からだった。しかし、肝心の紗季の姿が見当たらない。時間通りにやってくるなんてこと自体、珍しいとされてるくらいだから、その辺りは織り込み済みだ。それよりやってきたとして出会えるかどうかのほうが気になった。


 夜のとばりが落ち始めてきて、少しずつ茜色の空に藍色が混じってきた。それをぼんやりと眺めていると「ハカセ」と、相変わらずの呼び名で俺を呼ぶ紗季の声がした。


「意外と早かったな。もう少し遅れてくると思って……た?」


 思わず声が上ずった。無理もない。なぜならそこには俺が今まで見たことのない紗季がいたからだ。


 普段なら適当に束ねたり、下ろしたままにした髪はしっかりと結われ、身にまとった浴衣は黒地にあやめが刺繍されていた。髪に刺さったかんざしが彼女の美を一層引き立たせ、艶やかさと清廉せいれんさが入り混じったその姿に思わず見とれていた。


「お待たせ。あんまりこういうの着慣れないから手間取っちゃった。どしたの? 変な顔して」

「あ、いや、あまりにもお前らしくなかったからちょっと驚いてた」

「どう? すごいでしょこれ。千枝さんに着付けてもらったんだ。こういうのなんていうんだっけ。馬子にも衣装?」

「それを自分で言うか? あと、褒め言葉じゃないからな」

「え、そうなの? ずっと褒め言葉だと思ってた」


 えへへ……と、苦笑いを浮かべているさまは、どんな格好をしていようと紗季のままだった。


「ところでどうかな?」

「どうってなにが」

「似合ってる?」


 なにかを期待するように俺の言葉を待つ紗季。こういったときなんて言えば紗季が喜ぶかなんていくら鈍感な俺でもわかっていた。それでも素直に言葉が出てこない。


「どうかな?」


 紗季が伺うように俺を見上げた。


「いいんじゃないか? 似合ってると思うぞ」


 これほどまでそっけない言葉もないだろう。言った本人がそう思ってるのだから間違いない。しかしそれでも紗季は満足してくれたようで、


「行こっ」


 紗季が俺の手を引いて歩き出す。本来ならその仕事は俺の役割なはずだが、上機嫌な紗季を見るに、文句を言うのはためらわれた。


「人いっぱいだね」

「そうだな」


 ぐいぐいと先を行こうとする紗季の手を離さないようにしっかりと握り締める。繋いだ手から伝わる温もりが一緒にいるんだと感じさせた。


 幸いにも雨は降らなかった。


 今日は朝からあまりいい天気ではなかった。天気予報でも午後から天気が崩れるだろうと伝えていたくらいだから、もしかしたら……なんて覚悟もしていた。曇りがかっているせいで、夜空の星は見えなかったけれど、代わりに花火がこの曇った空を艶やかに彩ってくれるに違いない。


 整然と並んだ屋台からこぼれる祭り独特の匂い。それは食べ物の匂いだったり、人々の匂いだったりさまざまだ。そういや真衣奈と来ていたころは、もらったお小遣いをなにに使うかでもめていた。それから決まって、大人になったらここにある屋台全部回ってやるなんて息巻いてもいた。この年になって屋台全部とはいかないが、それでもある程度夢に近づいたと思う。なのにそれをしないのはやはり年をとった証拠だろうか。


「ハカセ、次はあれやろ」


 そう思っているそばから紗季が射的の屋台を指さした。片手に綿菓子、反対の手には水風船でできたヨーヨーを持って。……元気というか、子供っぽいというか。


「そんなにはしゃぎ回るな。花火上がる前に体力尽きるぞ」

「そんなことないよ。これでもハカセと違って体力には自信あるし。元ソフトボール部員だよわたし。大丈夫だって。それにさ、こうやってハカセとお祭りにくるのって初めてじゃない? だからかな……ちょっとはしゃいでるのかも」


 紗季がぺろっと舌を出してごまかすように笑った。俺は知らず頬が熱くなるのを感じていた。


「あ、もしかして照れてる?」

「んなわけねーだろ」

「とか言って本当は嬉しかったんでしょ?」

「バカなこと言ってないで、射的やるんだろ? 持っててやるから早くやれよ」

「そうだった。せっかくだしハカセもやらない?」

「俺はいい。あれって絶対に落ちないようにできてるんだし、やるだけ無駄だろ」

「またそんなこと言って。もしかしてわたしと勝負して負けるのが嫌なんでしょ?」

「誰がそんなこと言った。わかってる結果に無駄な金は払わないってだけだ」

「相変わらず現実主義だね。そんなことだから彼女の一人もできないんだよ」

「それとこれとは話が別だろ。というより余計なお世話だ」

「じゃあさ、射的で勝ったら相手のお願いを聞くっていうのはどう? これならハカセもやる気出るでしょ?」

「だから俺は──」


 やらないと言おうとしたところで、紗季が懇願するような目を向けているのに気づいた。どうしてそこまで勝負事にこだわるのか、その真意までは読み取れなかった。


「わかったよ。お前がそこまで言うなら勝負してやる。んで、勝敗はどうやってつけるんだ?」

「それじゃあ一つでも景品を多く落としたほうが勝ちっていうのはどうかな。もし同じ数だけ落としたんだったら、その中で一番高価なものを落としたほうが勝ちってことでどう?」

「乗った。そこまで言ったからには負けてからやっぱりナシって言うなよ」

「それはこっちのセリフだよ。ハカセこそ負けてから文句言わないでよね」


 紗季がにやりと口元を歪めた。思えばこのときすでに俺は紗季の術中にまんまとはまっていたのかもしれない。


 ……数分後。


 コルク銃片手に得意げな紗季とうなだれている俺の姿があった。


 結果から言うと、紗季が五発で五個の景品を落とし、俺は一つも落とすことができなかった。せいぜい獲得したものといえば、あまりの不甲斐なさに見かねた店主がくれたラムネ菓子ぐらいなものだ。


「大漁大漁! あんなに取れるなんて思わなかったよ」

「……そりゃよかったな」


 紗季が俺からひったくったラムネ菓子を口に放りながら横を歩いていた。


「それよりよかったのか?」

「んー、なにがー?」

「せっかく景品落としたのに一個ももらってこなくて」


 そうなのだ。紗季は一つも景品を持っていない。紗季が落とした景品の中には、目玉商品であろう最新型ゲーム機もあった。なのに紗季はたった一言「邪魔になるからいらない」と言ったのだ。


 店主からすれば、落ちるはずのないゲーム機が戻ってきたのだから喜ばしいはずなのに、なぜか申し訳なさそうにしていた。


「だってさ、あんなの持ち歩いてたら、せっかくのお祭りが楽しめなくなるじゃない。それにわたしは景品が欲しかったわけじゃないし、勝負に勝てたからそれでいいかなって」

「欲のないやつだな」

「欲なんてゲーム機と同じくらい持ってたって邪魔なだけだよ。それよりもあの話覚えてる?」

「覚えてるよ。勝負に負けたら勝ったほうの言うことをなんでも一つ聞くってことだろ。それでお前はなにが望みなんだ?」

「それはまだ明かさないでおくよ」

「あとで言おうが先に言おうが変わらないだろ」

「わたしは好きなものは最後まで取っておく主義なんでね。あ、そろそろ花火上がるみたいだよ」


 訳のわからない理屈を並べ立てる紗季に反論したい気持ちもあったが、花火が打ち上がると聞いてとりあえず矛を収めることにした。


 ヒュールル、ドォン、パラパラパラ。


 花火の打ち上がりを知らせる一発が上がると、周りから歓声が湧き上がった。


「きれいだね」

「そうだな」


 この瞬間だけは何度見てもそう思ってしまう。ありきたりな言葉かもしれない。それでも口をついて出るのはその一言しか考えられなかった。


 最初の一発を皮切りに、次々と打ち上がる花火が夏の夜空を彩っていた。


 そんな花火に見とれていると、さっきまで横にいたはずの紗季がいないことに気づいた。放っておくと勝手に歩き回るくせは今も健在のようだ。辺りを見回すと、人ごみのなかに紗季の姿を見つけた。紗季はこっちに向かって手招きをしていた。


「勝手に歩き回るな。探すの大変なんだぞ」

「ごめんごめん。でもさ、せっかくだからもうちょっといい場所で見たくない?」

「いい場所ってどこだよ」

「いいからついてきて」


 再び紗季に手を引かれて歩き出す。人ごみを抜けて土手から遠ざかっていく。


「どこ行くんだよ」

「もう少しだから待ってて」


 紗季が歩く速度を早める。もう少しと言われてどれくらい歩いただろうか、花火の音が遠くに聞こえる。


「着いたよ。ここがわたしのベストスポット」


 そう言って連れてこられたのは高校の裏山だった。


「ベストスポットってここか?」

「そうだよ。ここなら他に人もいないし、ほら」


 紗季が指差す。さっきまで遠くに感じていた花火が近くに見えた。


「これは……」

「昔ね花火を下から見るか横から見るかって話があってさ、いつもは下から見ている花火が横から見るとどんな風に見えるんだろうって思ってた。下から見ると丸い形をしてるんだったら、横から見たらきっと平べったい形をしてるんだろうなって。ちょっと座ろっか。立ってるのも疲れたし」


 足元を見渡すと適当な大きさの岩が転がっていた。その上に二人で腰掛ける。目の前に大きく広がる花火が、ここが世界から切り離されたところだと錯覚させた。紗季が履いていた下駄を脱ぐと、指先を開いたり閉じたりしていた。ずいぶんと楽そうにしているところ、履きなれていなかったのだろう。


「こんな場所あったんだな。知らなかった」

「えっへへ、ここはわたしの秘密の場所なのだよ」

「そんなところに連れてきてもらって光栄だな」

「もっと感謝したまえ。って、言いたいところだけど、これはハカセへの恩返しみたいなものなんだよね」

「恩返し?」

「うん恩返し。わたしが今こうやっていられるのもハカセのおかげだからね」

「俺なにかしたか?」

「長くなるけど聞くかい?」

「じゃあ遠慮しておく」

「いいから聞きなよ」

「どっちだよ」


 やれやれと嘆息していると、紗季が話し始めた。


「わたしがここを見つけたのは高校二年生のころだった。ちょっと周りで嫌なことがあってさ、そんなときに花火大会があって気晴らしに見に行ったんだ。それで子供のころのこと思い出して、横から見てみようって思ったんだ。もしかしたら今とは違った景色が見えるかもしれないってそう思ってさ。でもさ、花火ってさ放射状に広がるから、どこから見ても同じように見えるんだって。わたしそんなことも知らなかったから、横から見ても同じに見えたときはさすがにショックだったな。思わず一緒じゃん! って言っちゃったし」


 照れ隠しのように鼻をかく紗季。俺はその先の言葉を待った。


「花火をどこから見てもわたしの見ている景色は変わらなかった。下から見ても横から見ても同じだって気づいちゃったから。だからわたしの景色は灰色のまんまだった。だけどね……たった一つ、たった一つだけわたしの見ている景色に色を与えてくれたものがあったんだ」


 紗季が目を細めた。まるで大切ななにかを思い出すかのように。


「わたしの見ている景色に色を与えてくれたのはハカセ、あなたなんだよ」

「俺がか?」

「そう。あのときハカセがわたしに見せてくれた満天の星空が、私の見ていた灰色の景色に色を与えてくれた。もしあのときハカセと星を見ていなかったらわたしの見ている景色はずっと灰色のままだっただろうね。だから恩返し」


 ありがとう、そう付け加えるように言った。


「恩返しって、それを言うなら俺もだよ」

「なんで?」

「お前があのとき部室の窓ガラスを割らなかったら、お前と一緒にプラネタリウムを作ったり、バカな話で盛り上がったりなんてできなかった。きっと卒業するまでたった一人で寂しく過ごしてたと思う。お前がいてくれたから俺もなんだかんだで楽しく過ごせた。ありがとう」


 改めて紗季に向き直って言う。これは俺がずっと言いたかった言葉だ。恥ずかしくて言えなかったけど、今ならはっきりと言えた。


「な、なんだよー。そんなこと言われてもこの紗季さんは喜んだりしないんだぞ。もう……せっかくハカセを泣かせてやろうと思ったのに……これじゃあ立場が逆じゃない……」


 顔を背け浴衣の裾で涙を拭っていた。俺はそんな紗季が愛おしくて思わず頭を撫でた。


「や、やめろよー……」

「いいだろ。どうせ誰もいないんだし」

「……ばかぁ」


 そういうものの、紗季は嫌がる素振りもみせずされるがままにしていた。


 それから俺たちは一言も話さず、ただただ夜空に咲く花火を眺めていた。言葉はなくても俺には紗季の想いが、紗季には俺の想いが伝わっていた。


 そっと紗季の顔を盗み見る。紗季の瞳のなかに、花火が咲いて、散っていった。


 全ての花火が打ち上がり、終えると、それまであった優しい空気は消え、あとには寂寥感せきりょうかんが残った。


「終わっちゃったね」

「終わっちゃったな」


 どちらからともなく言う。そして次に笑いあった。


「なんだかさ学園祭のあとみたいだよね」

「それってどんな」

「楽しかった時間が過ぎ去って、またいつもの日常に戻っていく感じ。祭りのあとの空気感っていうのかな、そんなの」

「そうだな。なんかわかる気がする」

「本当は終わってほしくなんてないのに、必ず終わりってきちゃうんだよね。だからこそその一瞬が楽しく感じるのかも」

「詩人だな。それとも哲学か?」

「そんな高尚なものじゃないよ。ううん、ずっと続いてほしいって思ってるのかも」

「……だな」


 紗季がそっと俺の肩に寄りかかってくる。肩にかかる頭一つ分の重さが、彼女を感じさせてくれた。幸せだと思うこのひと時を、俺はいつまでも続くと思っていた。



「ねぇハカセ。聞かせてくれないかな」

「なにを?」

「あのときの答え」

「答え?」

「わたしがバス停の前で言ったこと」


 花火大会の帰り道、紗季がそう切り出した。その問いかけに俺はとうとうこの日が来てしまったのだと感じていた。


 紗季が言った。終わってほしくないはずの時間。ずっと続いてほしいと願ったその言葉を。俺はその気持ちに向き合わなければならない。俺は彼女とどうなりたいのかを。


「わたしはどんな答えを聞かされてもハカセに対するこの気持ちは変わんないよ。それだけは信じて」


 立ち止まりじっと俺の目を見つめる紗季。薄闇のなかでもはっきりとした顔立ちが彼女を改めて美しいと思わせた。


「……俺は」

「うん」

「俺は……お前のことが……」

「うん」


 ──そのときだった。


「……なにしてるのこんなところで」


 声に振り返る。そこにいたのは真衣奈だった。真衣奈も花火大会に来ていたらしく、白を基調とした浴衣に身を包んでいた。


「……なにしてるのこんなところで。先輩今日バイトじゃなかったの……?」 

「それは……」

「嘘ついてたんだ……。そっか……」

「待ってくれ。俺はただ……」

「もういいよ。わかってたから。本当はそういう関係だったんだって。ごめんね邪魔しちゃって」

「違う! 俺たちは──」

「違うってなにが!? バイトだって嘘までついてこうして紗季さんと会ってるじゃない!! それに紗季さんもだよ。紗季さん言ったじゃない先輩とはなにもないって!」


 紗季? どうして紗季の名前が? 思わず紗季のほうを見る。なぜか紗季は申し訳なさそうにしていた。


「答えてよ。それとも答えられないことでもあるの?」

「あはは、いやだなぁ。そんなわけないじゃない。ただ、わたしはハカセと花火見てただけだよ」

「なにそれ。そんな言葉でわたしが納得すると思ってるの? バカにするのもいい加減にしてよ」

「バカになんてしてないよ。ハカセとはただの友達づきあい。それでいいじゃない。だから真衣奈ちゃんが気にすることなんてなにもない。気にしすぎだよ」

「そうなんだ。そうやって紗季さんもわたしに嘘をつくんだ」

「嘘? 嘘ってなんのこと?」


 紗季の問いかけに真衣奈が笑った。


「わたし知ってるんだよ。二人が海沿いのバス停のところでキスしてたの。これでも違うっていうの?」


 紗季が言葉を失った。それは俺もだった。まさか……真衣奈があの場にいたとは思いもしなかった。


「答えないってことは認めたってことでいいよね? 二人してわたしのこと騙してたんだ……。本当は付き合ってたのに嘘をついて……」

「……」

「もうなにを信じていいのかわからない……。もうこんな思いするくらいなら最初から先輩のことなんて好きにならなければよかった」

「真衣奈……」

「さよなら」


 駆け出す真衣奈。俺はその背を追いかけることができなかった。


 真衣奈の瞳には涙が見えた。


 俺は……また大切ななにかを失ったのだと知った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る