第1話 ひとなつの始まり その1

「あっついな……」


 天文台から外に出ると、夜だというのに暑く感じた。館内の冷房が効きすぎていたせいかもしれない。省エネの時代だと言われている割にはずいぶんなことだ。


 思えば季節もついこの間まで春だったはずなのに、気がつけば一年も半分を折り返してまだ見ぬ七月へとその歩を進めていた。


 夜空もあの時見た夜空と少しだけ違っていて、見える星ぼしも冬の姿から夏のそれへと姿を変えていた。


 ふと思い出すのは、と一緒に星を見に行ったあの冬の日のことだった。


 かじかんだ手を吐く息で温めながらスキー場の駐車場に寝そべって、夜空に浮かぶシリウスを眺めながら将来のことを話し合った。


 二人で見たシリウスを今は遠くに感じる。


 俺が彼女とした約束は果たされることなく、気がつけば二年が経っていた。


 二人で星を見に行った翌年の夏、紗季は俺のいた街から遠く離れた街へと引っ越していったらしい。らしいというのも、人づてに聞いた話で、紗季本人に確認したわけじゃないからっていうのが理由だ。


 別れの言葉も言えないまま姿を消したあいつに、俺は怒るどころか泣くことさえしなかった。ただ、何もしないまま、無意味に夏を過ごしていたことだけははっきりと覚えている。


 どこかに怒りをぶつけることが出来たのかもしれない。


 どこかに悲しみをぶちまけることが出来たのかもしれない。


 でも、それをしなかったのは、それが俺自身の一方的な感情だからだと知っていたからだ。


 はっきり言ってしまえば、俺はあいつのことが好きだったのかもしれない。その恋も実るどころか、芽すら出さないまま枯れてしまったが。


 やめよう。


 こんなの考えたところで頭の体操にすらならない。それに唐突に誰かを失うことなんて慣れてる。気にするだけ無駄だ。


 言い訳のようなことを思いながら、バイクを停めてある駐輪場に向かう。側にポツンと立っている頼りない外灯に明かりを求めてなのか、それとも本能なのか、たくさんの羽虫が群がっていた。


 その下にスポットライトのように照らされて、バイクが一台停まっていた。


 カワサキ、エストレヤ。俺の自慢の愛車で、今はもうこの世にいない親父がかつて乗っていたバイクだった。


 バイクのセルモーターを回すと、キュルキュルという音のあとに、バラララとエンジンのかかる音がした。


 バイクスタンドを上げてアクセルをひねる。そうするだけで一陣の風になることが出来た。


 母親曰く、俺の親父はそれはそれは子供っぽい人だったそうだ。俺もそれはなんとなくわかる気がする。


 俺が小さい頃、親父とゲームをやっていて親父が負けると「翔吾! もう一度勝負だ!」と言っては、自分が勝つまでゲームをやらされた記憶がある。負けず嫌いなのだ。


 そのくせ、ゲームはものすごく下手くそで、負けがこんでくるとゲームの電源を落とし「俺が本気を出さないでやってるのに調子乗るな!」と怒られた。あまりにも可愛そうなのでわざと負けると「俺が本気でやってるのにどうしてお前は本気を出さない!?」と怒られた。理不尽この上ない。


 なのに忘れた頃になると「翔吾! この間のリベンジだ!」と勝負をけしかけてきてまた負ける。その繰り返しだった。


 そんな親父の口癖は『俺はな、いつかこの世界に名を轟かせる人間になってやるんだ』なんて、今どき戦隊ものの悪役だって言わなそうなことを平然と言ってのける。正直、子供の頃はそれを喜んだものだったが、さすがにこの歳で自分の父親がそんな馬鹿げたことを言ってるなんて知ったらすぐに病院にかつぎ込むか、市役所に行って戸籍を別々にしてもらったほうがいいかもしれない。


 それでも俺はそんな大人なのに子供っぽくて、父親っていうよりは歳の離れた友人のような親父が好きだった。


 けれど俺が高校一年生の時に親父はあっさりとこの世を去った。その日は俺がバイクの免許を取ったばかりの日だった。


『翔吾、バイクはいいぞ。風と一体化出来るからな。人間は自分の足で風になることは出来ないけど、バイクに乗ってりゃそれが叶うんだ。風になるとな、いつも見ている景色が違って見えて、どこまでも飛んでいけそうになるんだ』


 親父は俺をバイクに乗せる度にことあるごとにそう話していた。だからかもしれない、俺が高校に入学すると同時にバイクに乗りたいと思ったのは。


 親父にそのことを話すと「お前がバイクに乗るなんて百万光年早い!」とありがたいお言葉を頂戴した。親父、百万光年は時間じゃなくて距離だ。


 けれど、ようやくの思いで免許を取って家に帰ってきた俺を迎えてくれたのは、親父の人を馬鹿にしたような言葉じゃなく、二つ並んだボロボロのヘルメットと真新しいヘルメットだった。


 その時初めて知った。親父が事故に巻き込まれたことを。


 ──そして親父が呆気なく逝ってしまったことを。


 葬儀の日には数え切れないほどの参列者がいた。みな一様に涙を堪え、親父の死を悲しんでいた。


 ある人は「どうして俺より先に逝った! お前は死んでも馬鹿なんだな!」と罵り、ある人は「あなたは本当に人に迷惑ばかりかけて……死んでも馬鹿な人です!」とやっぱり罵られていた。でもそれは簡単に死んでしまった親父のことを本当に好きだからこそ言えた言葉だったんだろう。


 なのに俺は泣かなかった。いや、泣けなかったんだ。それどころか怒ってさえいた。


 これでやっと親父と一緒に風になれると思っていたのに。


 バイクに乗って風になるのは気持ちいいぞと言っていたあんたが、本当に風になってどうするんだ! って。

 葬儀が終わってから母親が言っていた。


「あの人はあなたと一緒に走るのを誰よりも楽しみにしていたのよ」


 と、涙をこぼしながら。


 ピカピカの真新しいヘルメットは俺が免許を取ったら渡そうとしていたものらしく、それなのに思わず口を滑らせてしまうんじゃないかといつも心配していたらしい。


 そして今日、届いたばかりのバイクに乗って帰ってくる途中で事故に遭った。


「俺さ、あいつと一緒に風になるのが夢だったんだ。それがようやく叶うんだ。嬉しいよな」


 家を出るときに言い残した言葉が親父の最後の言葉になったという。


 しかし残されたのは、真新しいヘルメットと親父との思い出がたくさん詰まった一台のバイク。一緒に走るはずだった親父の姿はもうどこにもない。


 その日の夜、俺は初めて泣いた。


 ボロボロになったヘルメットを抱きしめながら。泣いた。


 それ以来、俺はこのバイクに乗っている。こうしていると親父と一緒に走っているような気分になるからだ。


 暗い夜道を、一筋のヘッドライトが闇を切り裂いていく。天文台の立つ山道をしばらく走ると、山の麓の方にポツポツと車のライトや街の明かりが見え出した。


 呉羽山くれはやまだ。


 呉羽山は山というほど大きくはなく、丘というには少し高い。そんな場所から見えるこの夜景が好きだった。もちろん、天文台で見る空に浮かぶ星のほうがロマンチックではあるけど、これはこれで地上に瞬く星という気がした。


 そのまま山を降りて街の灯りの一部に溶け込む。初夏の香りのする風が頬を撫でた。


 緩やかなワインディングロードを下ると、一軒の安アパートが見えてきた。


 築数十年、木造二階建てのボロアパートの二〇五号室が俺の部屋だった。


「あいつまた来てるのか」


 そう思ったのは家を出る前に消したはずの部屋の明かりがついていたからだ。こんなところに入る物好きな空き巣なんていないだろうし、そうなれば考えられるのは一人しかいない。


 アパートの適当な場所にバイクを停め、錆びて朽ち果てた階段を上がる。それにしても、いつかこの階段が崩れるんじゃないかと心配しそうになる。


 階段を登りきると一直線に伸びた薄暗い廊下を進む。その先一番奥にある部屋のドアには『宮野』と書かれた表札があった。つまりはここが二〇五号室だ。


 いつもなら鍵を開けてから入るのだけど、今日はそのまま入る。ただいまの言葉はナシだ。代わりに、


「真衣奈、お前また来てたのか?」


 そう言うと真衣奈は、


「あ、おかえり先輩。ていうか、帰ってきたらただいまって言うのが普通じゃない?」


 ごもっともな意見だと思う。


 しかし、一つだけ言わせて欲しい。いくらなんでも年頃のそれも高校の制服を着た女の子が一人、こんな時間にそれも大学生の男の部屋にいるほうがおかしいのだ。けれど真衣奈にそれを言うと決まって返ってくる言葉は、


「いいじゃない。先輩だし」


 この一言でいつも片付けられてしまう。言い返しても聞く耳を持たない真衣奈に、いつも俺が折れることでこの話はうやむやになってしまう。甘いのかもしれない。


 彼女の名前は椎名真衣奈しいなまいな。真衣奈のことは小さな頃からよく知っていた。今は死んでしまった親父の親友の子供ということもあってか、小さい頃は日が暮れるまで公園で遊んでいたり、時々互いの家に遊びに行っては夜遅くまで遊んだりと、いわゆる幼馴染の関係を過ごしていた。


 俺と真衣奈は年が二つ離れていて、物心つく前はお兄ちゃんと呼んで慕ってくれていた彼女も、高校に入る頃には呼び方が『先輩』に変わり、棒切れを振り回してお山の大将気取りだったおてんば娘も、今ではこちらがはっと驚くような美人へと成長していた。そのせいもあってか俺は真衣奈がここにくるのをあまりよく思っていなかった。


 やましい気持ちがあるわけじゃない。年頃の女の子が大学生の部屋に入り浸っているという事実が嫌だったのだ。


 それを知ってか知らずか、真衣奈はここに来るのをやめない。何かにつけては、


「先輩が心配だから」


 とか、


「どうせいつもコンビニの弁当ばかり食べてるんだから、たまにはちゃんとしたもの食べないとダメだよ」


 なんてお前は俺の母親か、と言いたくなるようなことを言ってくる。それでも真衣奈がここに来るのを黙認している俺はやっぱり甘いのかもしれない。


「で、今日はなんの用だ? 空き巣に入ってもめぼしいものなんかないぞ」


 俺は肩に担いていたカバンを下ろしながら釘を刺す。余計なものを見られたくないからだ。なのに返ってきた言葉は、


「こんな家に金目のものがあるなんて思ってないよ。それとも人に見つかったらまずいものでもどこかに隠してあるのかなぁ?」


 そう言って取り出したのは有名な映画タイトルのDVDケースだった。あの中身は確か……、


「……真衣奈、お前その中見たのか?」

「見てないけど先輩がどこになにを隠していたかぐらい予想つくよ。いいんじゃない? 先輩だって年頃の男子なんだし」


 ニンマリといやらしい笑みを向けてくる真衣奈に、両手を上げて降参のポーズをとることでこの話は終りとなった。


「あ、そうだ。先輩ご飯食べた?」

「バイト先から直で帰ってきたからまだだ」


 言いながらテーブルの上を見ると、真衣奈の参考書とならんで山盛りのそうめんが用意されていた。もちろん用意したのは真衣奈だ。ちゃっかり二人分用意されているところを見ると、最初からここに居座る気でいたらしい。


「さ、夕御飯食べよ。わたし先輩が帰ってくるのを待ってたからお腹すいちゃった」


 真衣奈が山盛りのそうめんに箸を突っ込むと、ごっそりとそうめんの山が崩れた。


「ん〜、おいしい!」


 リスのように頬をふくらませた真衣奈はご機嫌な様子。もたもたしていたら俺の分まで食べられてしまいそうな勢いだった。

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