第10話 スペクトル

 日影玲とのデートらしい初めてのデートを終えて一ヶ月が経過した。

 六月に入り、梅雨前線が日本列島に向かって北上を始めていた。

 玲との関係は変わらず、あれから何度かデートらしいことをした。相互理解は深まったものの、恋人として次の段階に進むことはなかった。私は特にそうしたペースについては気にしていなかったし、彼女も焦れているわけではなさそうだった。互いに付き合うということに慣れていなかったし、交際自体が順調であった為、それはあまり重要なことのように思えなかった。

 数学科では、徐々に講義についていけない者が現れ始めていた。特に解析の講義では目に見えて受講者数が減り、講義中に自習室で復習を繰り返している学生が増加した。解析の単位を落とせば留年の確率が急激に高まるために、私は念入りに予習と復習を行っていたが、それでも理解できているかは怪しかった。

 解析以外でも幾何の講義が難関で、多くの学生は丸暗記という方法で対応し、私もその例に漏れることなく理解を放り投げていた。

 数学科の学生は基本的に就職などを考えずに数学が好きだという理由でここに集まっているはずだったが、その殆どが一年のうちから講義についていけなくなる、という奇妙な現象が起きていた。同じ数学でも高校数学と方向性があまりにも違いすぎるせいだった。厳密性や考え方が一から違ったのだ。

 全ての講義を終えた後、私は玲と離れてイラストサークルの部室に向かった。この頃、玲はイラストサークルを頻繁に休むようになっていた。元々絵に興味がなく、他のサークルメンバーもよく休む為、このまま徐々に休む回数も増えるのだろう。

 部室のドアを開けると、秋月さんと谷口部長がいた。秋月さんはスケッチブックに下絵を描いていて、谷口部長はファッション誌を読んでいた。

「キミも真面目だねえ」

 谷口部長が本から顔を上げて、どこか呆れたように言う。

「部長も毎日いるじゃないですか」

「まあ、単位大体取ってるし」

 谷口部長はそう言って、ファッション誌に視線を落とす。その間、秋月さんは私達に注意を向けることなく、スケッチブックにペンを走らせ続けていた。

 私は秋月さんの絵をちらっと見てから、すぐにカレンダーを開いて、その数字に重なって見える色合いを見つめ、その規則性を探した。

 私は基本的に数字の色をモデルに、それをプロットしていく。モデルとなる数字はなんでもいい。適当な数列の色合いに何かを感じたら、何も考えずにプロットし、また別の数列を探す。そういう作業を繰り返し、絵になりそうなものを見つけるとそこで初めて絵を描き始める。

 部室には暫く沈黙が落ち、たまに秋月さんが下絵を破いて捨てる音だけが木霊した。

 私はカレンダーのパターンを確認し終えると、適当に幾何の教科書を開いて、その中で使えそうなものがないかをじっくりと探した。丸暗記したものの、中身についてはあまり自信がない幾何の教科書と睨み合いながら、たまに出てくる色を見つけては、それをプロットしていった。

「ねえ」

 不意に、低い声がした。平坦な、どこか不気味な声だった。

 顔をあげると、秋月さんが目の前に立っていた。彼女の長い髪の毛の間から、深海を連想させるような暗い瞳が私を真っ直ぐ捉えていた。

「あなた、共感覚を持っているんでしょう?」

「……はい。数字に色が重なって見えます」

 内心、戸惑っていた。秋月さんとまともに話したことはこれまで一度もなかった。

「どうやって、色が見えるの?」

 彼女の暗い瞳が私を捉えて離さない。

「えっと、数字ごとに色が違います。パターンによっても変わって、グラデーションがかかったり……」

「そうじゃなくて」

 私の言葉を、秋月さんの暗い声が引き裂く。

「色は、物体から乖離しているでしょう。色は相互の関係に於いて初めて認識されるものであって、単独で存在しうるものではないでしょう。その色は、あなたの環世界で創造されたものであったとしても、環境の影響を受けるの?」

「……あの、おっしゃってる意味が……」

 私は思わず、否定の言葉を口にした。それを契機に、彼女の唇が機械的に開閉を始める。

「光があるでしょう。太陽が放つ太陽光があるでしょう。青空で拡散されたスカイライトがあるでしょう。反射光があるでしょう。色は光なのだから、私達は物体の真の色ではなく、相互に関係した光をそのまま色として認識するでしょう。曇天ではこのスカイライトが更に拡散するでしょう。室内では光源があるでしょう。白熱灯と蛍光灯のスペクトルパワーの分布は全く異なって色を変化させるでしょう。夜ならどうかしら。ネオン、水銀灯、アーク灯、LEDライト、メタルハロイドランプ、ナトリウム灯。全てスペクトルが異なるでしょう。こうした光があれば影と陰ができるでしょう。最暗部は、オクルージョンシャドウは? 大気が存在する以上、その影には拡散した光が入り込むでしょう。雨ではどうかしら。光が屈折して分解されるでしょう。あなたの共感覚上の色にこれらは反映されて映るのかしら? それとも、一切の影響を受けず、色空間上に絶対座標を持って全ての影響を与えても動じないの?」

 一切の熱量を持たず、彼女は機械的に口を開閉させて問う。

 人形のように整った顔。それを隠すような黒髪。その間から覗く暗い瞳。

 それが不気味で、私は思わず彼女から距離をとるように仰け反った。

「……影はありません。光の影響をそのまま受けて暗いところだと暗く見えます。細かい影響は、その、わかりません」

「そう。あなたも逃げられないんだ」

 秋月さんは独り言のようにそう言った。

「え?」

 私が聞き返した時、既に彼女の視線は私から外れ、部室のドアへ向けられていた。

「秋月?」

 谷口部長の声。それを無視するように、秋月さんはふらふらと部室から出て行く。

 ドアの閉まる音。

 後には私と谷口部長、そして秋月さんの捨てた大量の下絵が残された。

「スイッチ入っちゃった」

 部室に残った奇妙な空気を払拭するように、秋月さんが茶化すように言う。

「スイッチ?」

「なんかたまにブツブツ言い出すんだよね。なんか壁にぶつかってるのかなあ。まあ、私みたいな凡人には理解できないけど」

 谷口部長はそう言って、何事もなかったように本に視線を落とす。いつの間にか谷口部長の手にはファッション誌ではなく漫画が握られていた。

 私は秋月さんの出ていったドアに視線を移すと、どうしてもある疑問が胸の奥から沸き起こり、谷口部長にぶつけた。

「……あまり他人のことについてこんなこと言うのも変ですけど……なんで秋月さんって美大に行かなかったんでしょうか。才能もあって、あれだけ熱意もあって……」

 谷口部長は漫画から目を離さず、軽い口調で答える。

「あー、長瀬くんは秋月の学科知らないんだっけ?」

「あー、そういえば知らないですね」

「理学部だよ。物理。現象をきっちり理解したいんだってさ。さっき言ってた光だってそう。描く世界を完全に把握したい。そう言ってたよ」

「描く世界を、把握したい……」

「そう。真面目っていうかさー、なんか危ういよね。完璧主義っていうの、あれ? 一回転んだらさ、ね」

 谷口部長はそれから漫画を閉じて立ち上がった。

「あー、私もう帰るわ。戸締まりだけよろしく」

 そう言って、谷口部長が去っていく。私は気のない言葉を返して、谷口部長が残した言葉を反芻した。

「一回転んだら……」

 一体、どうなるのだろう。

 人生を賭けて全力で取り組んできた事に失敗した時、人はどうなってしまうのだろう。

 私は思わず、自分の右肘を見た。

 故障して、挫折した野球。

「そんなんじゃないだろ」

 自然と、呟きが零れた。

 それからどうしようもなくイライラして、全てがどうでもよくなって、私は逃げるように目を閉じた。

 瞼の裏に、一瞬だけ球場の景色が広がった。

 あと少しで掴めそうになって掴めなかったものが、そこにあった。

 外から梅雨前線の到来を知らせるように、雨音がする。

 記憶から蘇った幻は、雨に押し流されるようにして一瞬で掻き消されていった。

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