第22話 闇の奥にあるもの

「刀は駄目って言ったでしょう。殿様ってやつらは、そろって耳が悪いのかしら。それとも根性が悪いの?」

 朱と思われる、やけにドスの効いた女の声が、好き勝手に響いた。「きっと悪いのは頭ね」

「あのクズはもとより、息子たちが死んだのも、揃いも揃って愚かでこっちの話を聞かなかったせいなのに。でも、あいつらを始末したのは良かったでしょ」と、あっさり義兄たちを殺したのを自白した。

「いいえ、あたしに恩を感じる必要はない。いずれ劣らぬクズ、クソにタンにヘソのゴマほども差はなかった。世のため人のため、地獄落ちを急かしただけ」

「これは三池典太ではない」虎之介が答えると、「うっ」という声がしてから、

「あら。ほんと」と返事があった。

「でも、見た目はかわいいのに、信じられないほど嫌な刀なのは変わりない。意地悪の禿かむろみたいだから、よけいに憎たらしいわ」


「ここにいたのだな」

「まあね」声は不承不承認めた。「来いと言ったのはこっちだし」

どうやら、最初の関門は突破できたようだ。

「しかしそれ、知ってる?けなげな女の念が光らせているのよ。たしかにあなたと奥方は、揃ってちょいと変わってる。あたしの見立てと違ったのは認めるわ」

「とにかく、おまえの言うとおり、参ったぞ」

「ほほ、正直なところ困ったわ、こんなに早くお越しになるなんて。暗くなるまで待ってほしかった。茶菓も酒肴も用意はまだよ」

 嘲るような笑い声が暗い穴の中に反響した。頭に聞こえるだけでなく、間違いなく、このどこかにいるらしい。

「酒はどうも苦手だ。飲むと苦しい」そう言いつつ、虎之介は周囲を見回し声の主を探した。どうやらこの穴は洞窟になっていて、まだ先があると思われた。

 普照らが調べた別の隠れ家は氷室を利用したものだったし、日の差しにくい、このような構造を朱は好むのかもしれない。


「やだ。殿さまって、まだ子供ね。なりは立派だけど、知恵が足りない。さあて、どうしようかな」朱の声は迷ってみせた。「いま殿様を殺めたてまつれば、この国はまた面倒なことになるわ。それも面白い気がしないでもない。面白くて、さぞ滋養が五臓に染み渡るでしょうね」

 また嬲ろうとしているのか。

 真喜を案じる焦りが、徐々に朱に対する怒りに変わりつつあった。

 彼は守り刀の柄を握りなおした。

 そのまま飛び込んで、みつけて、刺す。

 震えるほどの怒りが彼の五体を支配しようとしたそのとき、ずっと前にかけられた誰かの声が頭に浮かんだ。

「怒りに身を任せてはなりませぬ」


 歳をとった男のがらがら声だった。

 あれは、やわらの稽古であっただろうか。自分より小柄な相手に翻弄されて悔しがる虎之介に、

「最も手強い敵は、心の中にいるもの」と、説いたのだ。

「それも一人ではありませぬ」そう板倉は言った。「まずは恐れ。闘いの前は相手が強く大きく見えるもの。それすなわち身中の敵のため。そして怒り。怒ると力は湧き起っても、ために見えるべきものが見えなくなる。小さな相手を見下し、ひいては罠にかかります。奮起と怒りは違うと心得なさい。決して怒りに任せたまま闘いに挑んではなりません」

 まだ穴の中に朱らしき者のこう笑は響いていたが、虎之介はじっと我慢した。

 「さらに貪欲。相手を倒すことでなにかを得ようとするのは匹夫の勇にも劣る。欲に心が曇れば目の前しか見えず、機を失い、ひいては信を失う。あなたは雑兵ではないのです。常に広く、大きくものを見るようになさい」

 傅育係で師でもあった板倉は、少年の虎之介に繰り返し大人に対するような内容を噛み砕いて教えようとした。

 それも、当たりはひどく厳しく、彼の鼻っ柱は幾度も折られた。

 当時はどうにもうるさく感じ、彼の姿が目に入ると身がすくんだりしたものだった。ようやくこのごろになって、あれがいかに虎之介のためを思ってだったかが実感できる。

 彼のように知恵にも肉体にも恵まれた人間が、必要な時期に正しく撓められなければ、どれほど不遜になったことだろう。

(おちつけ)懸命に自分に言い聞かせた。(相手は人外であっても神仏ではない。弱みもある)

 

 それより、書院での騒ぎの際から感じていた、朱に対する違和感を、虎之介は慎重に見定めようとした。

 これほど恨みの感情を隠さないのに、なぜ遠回しに嬲るのか。どうしてさっさと殺そうとしないのか。

 三度の飯より嬲るのが好きなのは本当だとしても、朱自身にもなんらかの殺さない理由が、迷いなり弱みなりがあるのではないか。

 試してみよう。

 とにかく、もう少ししゃべろう。よし、一番気になることを、聞いてやれ。

「ひとつ聞きたい」虎之介は腹に力をいれて言葉をぶつけた。

「おぬし、義父上ちちうえによほどの恨みを抱いているようだが、それはおぬしのためだけの恨みか。誰かの恨みを晴らそうとしているのではないのか、我よりも大事な誰かの」

 三木之丞とはあえて口にしなかったが、自分を省みて虎之介は思っていた。

 これほどの怒りは、悲しみは、己のためだけでなく、誰か他の大切な存在のためではないのか。

 虎之介が、自分のことならあきらめても、真喜のためになら決してあきらめる気にならないのと同じように、朱にとっての三木乃丞は、己が命より大切な存在だったのではないか。

 そしてそれがわかれば、朱の正体となだめ方もわかるかもしれない……。

 

 少し間が空いて、舌打ちのような嫌な音がした。

 そして、「……この子、口の聞き方を知らないようね。せめてうたに託すとか、もっと雅に聞いたらどうお」

 虎之介は朱の怒りと動揺を感じた。

 声は言った。「そんなに知りたい?それがね、どっちともいえるの。でもとにかく、一番悪いのはあなたの奥方の父親と、ほかの三人」声がしばらく途切れた。

 暗闇を透かし見ながら様子を伺っているとふたたび、

「ねえ、ここがあたしの言った場所って、誰に聞いたの?」と声がした。

「入れ知恵された?あの宇田公かしら。忘れさせたつもりだったのになあ。あいつも歳をとったはずだから、そのせいかな。この前の朝、御殿にいたら面白かったのに。いっぺんに思い出して、心の臓がやぶれたりして」

 また声が途切れた。

 さっきの違和感についてまた考えた。一連のやりとりが芝居ではないとすれば、あいつがいま一番関心を持っているのは虎之介ではない。どこかに別に、朱の気を引くものがある。

 

 彼の脳裏に、ひとつの仮説が浮かんでいる。

 書院での騒ぎの際、常人とは異なる感覚を持つ朝倉は、朱について「囲碁でもさすように」こちらを見ていると喝破した。

 まさしく朱は棋士であり、盤上の駒を扱うようにこちらに干渉してくるが、差手はひとりだけ。

 あるいは、いままさに別の対局に夢中になっていて、虎之介の相手は片手間。


(そうか、あいつもひとりぼっちなんだ)彼は確信した。(少なくとも、すべてを託せるほどの副将はいない。いれば、おれをやすやす近づけたりはしない)

 謎めいているがゆえの恐怖が、霧が晴れるようにゆっくり薄らいでいく。

(朱は強力な呪いの力を持っている。それは離れた場所から人を嬲り死に至らしめる。実に危険で容易にはあらがえない。しかし)

 地面に身を低くして、虎之介は穴の先の気配をさぐろうとした。

(朱は同時に複数を相手にはできない。そして、誰かをいきなり呪い殺したりも難しい。口で言うほどあいつの術は万能ではなく、さまざまな制約がある。神や仏が罰を与えるのはわけが違うんだ。だからこそ、あらかじめ結縁という作業によって、手下という駒を増やしておく必要がある。大技を振るうには前もっての準備や誘導が欠かせないのだ)

 虎之介は熱の出た頬のように暖かくなった守り刀を、胸に押し当てた。

(そして、いまあいつは真喜のいる庭園に気を取られている。それはあいつにとってなにより楽しい時間であるとともに、適宜手下に指示し操る手間が欠かせないためでもある。この前に滅びた僧は知らぬが、今日あいつに従っている手下どもは、自ら考える能力が低く、ぜんぶを任せっきりにはできない)

「なぜしないのか」を考えるうち、じわじわ妖怪の限界が見えてきた気がする。

(あいつは、最初に大技を見せつけ、相手を怯えさせて己に従わせる。わざわざ城中で普照を殺し、正体を明かしたのも狙いは同じだ。しかし、そのための手間や犠牲はたくみに隠している。己を大きく見せるのがうまいのだ)

 

 いまもそうだ。さっさと襲ってくればいいのに、こない。

 いわば本丸に入り込まれたと同じ状況なのに、即座に反撃に出ないのは、できない理由があるからではないのか。

むろん、獲物を嬲るのが大好きな相手だ。こちらに期待を持たせてから、絶望させる手とも考えられる。

 三池典太だって、大げさに怖がるふりをしているだけかもしれない。あとでがっかりさせるために。

 しかし、かなり確実と思えるのは、朱ご自慢の呪術は強力無比の一方、少なくとも江戸と鵠山にいちどきに干渉できるほどに便利ではない。

(それに、あいつは)ついに虎之介は、堅い底を掘り当てたような気がした。

(動けないのかもしれない)

 

〈江戸・宇部家下屋敷庭園〉


 夕闇が樹々を覆い、庭園中に灯りが焚かれていた。

 ゆれる炎に照り映えて、みっしりと立つ紅葉が燃えているように見える。

「同じ赤でも少しづつ葉の濃さが違います。奥行きを感じて見飽きませんね」

「偶然なのか、わざとなのか。とにかく、手間ひまかけてるわねえ。姫さまのお屋敷とは一味違うなあ」

「ほほほ、当家は万事質朴な家風にございますから」

 見惚れる大勢に混じって、真喜とぎんたちもまた、樹を見上げていた。その視線の隅を厳しい顔つきをした一団の武士が足早に過ぎて行った。


「あの無粋なおっさんたち」油断なく四方に目を配るぎんが言った「噂に聞いたお忍びの御老中様ご一行かな。首が太くて強そうだから、用心棒かもね」

「今日は、人の少ない昼間においでと聞いていたのですが、違ったのですね」

「まあとにかく、正体の知れない奴がここにいるのは間違いない。なに考えているのかわからないから、にぎやかなところにい続けようよ。それで、人がぞろぞろ帰りだしたら、それに混じってとっととお屋敷に戻る。帰りが危ない気もするから、さっきのいかついおっさんたちを利用したいんだけど、あたしが術で騙せるのは、一度に一人きりだしなあ」

 うなずく真喜のもとへ、使いがきた。


「なに、まさか呼び出し?」袋の中から警戒心たっぷりで聞くぎんに、

「いいえ」と真喜は答えた。「あちらからきて下さるそうです。ここへ」

「なら、よかった。いいところだもの、ここ。滝もあってにぎやか」

「ええ。わたくしより、祖母の代わりに対しての挨拶ですから、すぐすみます」

 いま、真喜とぎんのいるのは滝の前だった。

 人の背丈の倍はある人工の滝をしつらえあって、川から引き込んだ水の落ちるのが、ほどよく突き出た紅葉の葉と重なって絵になる光景を作っている。

 さすがに水量は豊富といえなくとも、それなりの風情はある。庭園の目玉のひとつでもあって、人気がある。

 滝と泉水の周囲には、いまもあちこちの姫や奥方、そのお付きばかりでなく、老若を合わせると武士も結構な数がいて、思い思いにしゃべったり食べたりしている。短冊を出し、なにやら書き付けている宗匠風の老人もいる。あたりがこれほどにぎにぎしければ、人目につかずに危害を加えるのは無理と思われた。

「そういや、姫さまに目通りしたい醜男の用人ってのも、まだね」

「あるじの花岡様がお見えになるようですから、ご一緒ではないかしら」

「せめて主人がいい男だといいな。腹悪しくても顔がきれいならまだ許せる」


 

 さっきから、ごろごろとも鼻歌とも聞こえる音がずっと耳についている。朱はあきらかに虎之介の相手をしながら、なにかを遂行しようとしている。それも楽しそうに。最初に推理したとおり、朱は江戸で開かれている紅葉狩りへ、この洞窟の奥から干渉を図っている。

 しかしそれは、虎之介の相手をしながらだと、手際良くはいかない。少なくともあいつの好む「楽しみ」ではなくなる。

 さっきも感じたように、江戸にはこの前の円津のような、すっかり任せられる手下がいないのかもしれないし、単にあちらの紅葉狩りの方がずっと規模が大きいので、手が離せないだけかもしれない。案外と朱は孤独なのだ。

 とにかく、朱の正体と対峙しよう。

 こちらの読みを悟られないよう、慎重に別の質問をぶつけた。


「そうだ、思い出した。なぜ、宇田川は病にはかかっておらんのだ。憑かれてもいなければ、弱ってもいない。ということは、あやつを恨んではいないのか」

 しばらくして、

「ちゃんと頭の病にかかっているでしょう。愚か者ってことよ」と、声が返ってきた。

「あと、不養生。えらく太ってしまったそうじゃない。前は色の白いみめよき男だったのに」

「それは、そうだが」答えながら、虎之介は朱の台詞が伝聞だったのを聞き逃さなかった。

 ふたたび、喉を鳴らすような音がした。

 今度も朱はどこか上の空のように思える。家事をしながら子の声に応じる母親のようでもある。

「よし、と」含み笑いが聞こえた。「だんだん集まってきたわよう。細工は上々、仕上げをごらんってやつ」

「なにをしている」

「うふふ、もう少ししたら教えてあげる。そうそう、どうして宇田公をいじめなかったかよね。あいつ、見苦しいほど若殿にぺこぺこして、厳しいことも言わない。情けないやつと思ってたら、都筑座が焼けたあとすぐ、ひとりで線香を手向にきたの。泣いてたりして。それでよ」

 

「その慈悲の心を、ほかのまだ生きている相手にも見せてやってくれんか。いまごろきっと悔やんでいるはずだ。同じように許してやってはくれぬか」

「いやよ」今度はすぐ返事があった。「罪の重さが違う」

 また間が空いて、声がした。

「あら、もうこんな時刻。そろそろ逢魔が時ね、忙しくなるわ。そうよ、最後の生き残りは、花岡の殿様。あいつは最後にいち抜けたから、いままで生かしてやっていたの。でも、裏切ったのは同じ。いい歳をして、まだ隠居してないってのも気に食わない」

 ぎりりっと石をこするような音がした。

「あいつ、華やかなことが好きだった。ここに芝居小屋を建てようなんて話をばか殿に吹き込んだのも花岡よ。あのまま江戸にいれば、いまごろ。いえ、それより大坂にとどまっておれば、あんな奴らに会わずにすんだ」


 しばらく間があいた。

 奥に進もうとしている虎之介は、そのすきに刀の放つ光を使って道を探った。どう工事したのかはわからないが、背をかがめて通れるほどの大きさに土と岩がくり抜かれてある。少し先に長持のような箱が並べて置いてある。

 「そう、花岡ね。だから、大勢の客が見ている前でのたうちまわって死んでもらったら、さぞすっきりして滋養にもなると思うの。一番の悪役の娘がそれに花を添えるなんて、まさしく芝居みたいじゃない?」

 推測通りのようだった。

 突然、虎之介は闇の奥に駆け出した。かすかな吉備津丸の光を頼りに、朱を探す。

「ここか」立てて置いてある長持をかたっぱしから蹴倒す。なにもない。

 ひとつから痩せ細って干からびかけた男が転がり出た。

 死んでいると思った男は壁をつかんで立ち上がり、虎之介に襲い掛かった。

「はい、はずれ。それは、結縁のうまくいかなかったやつよ」

 とっさに男を蹴りとばして距離をとったが、あまり効いたようには思えない。当たり前のように立ち上がってくる。

 仕方なく首筋に手刀を叩きこんだ。肌が冷たく、跳ね返るような感触があった。

「へえ、あなた喧嘩は手慣れてるのね。意外だわ」

 男はいったんふらふらと倒れそうになって、またすぐもつれた足で突っ込んできた。体当たりを仕掛けてくる。

「それ、寒いとか痛いとか感じなくなってるの。捨てるに捨てられなくて困ってた、馬鹿だし。いつか使えるかもって我慢して置いといて、よかった」

 楽しそうな朱の声を尻目に、素手で相手をするのを諦め、虎之介は跳び下がって脇差を抜いた。しかし狭い洞窟のこと、

(しまった)

 背中が岩に当たって、暗闇に肝心の守り刀を取り落としてしまった。見る間に光が薄れていく。

 ほとんど視界が効かなくなって、すえた臭いだけがただよっている。 

「ああそうそう、忘れてた。ひとは夜目が効かないのよね」

 ごそごそと音がする。さっきの痩せた男以外に、なにか出てきたようだ。

 手探りで守り刀を探す。臭気と、なんとも言えないいやな気配が強まった。かさこそいう足音から、数の増えた敵が彼を取り囲みつつあると思われた。

(くそ、さっそく手詰まりか……)

 すると、

「とのっ、いずこにっ」大声がして、槍のように宙へと突き出された提灯が飛び込んできた。光が闇を照らし、穴の壁面が固められていて、細く長く奥まで続いているのがはっきりわかった。


「朝倉かっ、忠次郎かっ」虎之介が叫ぶと、声が叫び返した。

「深田新八にございますっ」

 だれだったかな。

 つい首をひねった虎之介の目の前に、高張提灯を担いだ若い男が転げそうになりながら現れた。

「ご、ご無事でなにより」と言いながら、深田はすでに涙ぐんでいる。

 彼は早口になって、先日殿に切腹から救っていただき、以後一命をもって御恩返しする機会を待っていた、今日はたまたま辻番の近くで姿をお見かけし、失礼とは思ったがあとをつけてきた、ここには人に言えないなにかを探しにこられたと想像するが、決して誰にも明かさないので、ご安心くださいませなどと口走った。「ともかく、助かったぞ」褒めるとさらに深田は勢いづき、提灯を洞窟のあちこちにぶつけつつ、「もののふの恩の返し方」について、憑かれたように喚き続ける。

「わかった、わかった」大切な提灯を倒されでもしたら元も子もない。「少し落ち着いて、やたらと動くな。とりあえずそのあたりを照らしておいてくれ」

「ははっ」

 

〈江戸・宇部家下屋敷庭園〉


 上等そうな衣装を身にまとい、風格ある顔をした幾人もの男たちが入れ替わりやってきた。それを真喜がすました顔のまま、そつなく応答している。

 相手の身分や褒めるべき勘所は、横にいる近習や老女らが先んじて教えてくれる、それさえ間違えなければ、答礼の数をこなすのは大して難しくは無いのだ、と彼女が言っていたのを、たもとの中に隠れながらぎんは思い出し、笑いを懸命にこらえた。

 男の声、女の声、真喜の声が交互に聞こえる。真喜がなにか言うたび、相手は大袈裟に反応し、勝手に話を進めてくれる。なるほど。

(けど、姫さま稼業ってのも、思うほど楽じゃ無いなあ)

 真喜がうごくたびにぎんも揺れた。外は肌寒くなってきたが、袋の中は彼女の体温が伝わって暖かい。

(これじゃ、眠たくなってくるね)

 男女の声が子守唄のように聞こえる。あやしい女を見て以来、ずっと緊張していたのが、ようやく緩みかけていた。

 すると、

(えっ)静電気に触れたようにぎんの背筋に衝撃が走り、眠気が吹っ飛んだ。

 気がつくと重苦しい気配がたちこめている。

 そっと袋から、そして真喜のたもとから顔を出す。

  

 目の前には重たげな男の衣装があった。気づかれないよう注意して顔を探す。年配と思われる男性の顎が目に入った。無礼講との建て前の催しではあるが、直に真喜と会話ができるのだから、相応な身分を持った人物なのだろう。

 しゃべっている相手が揺れると表情が確認できた。髪は黒の勝った灰色、体は中肉。やっと見えた顔はなかなかしぶい二枚目だった。おだやかになにかを話している。

(あら、いい男)

 しかし男の目に焦点をあてると、ぎんの体毛がちりちりと逆立った。

 品のいい衣装に身を包んだ年配の武士は、なにげなく会話をしているが、白目がやや赤く、やけに黒目が濡れ濡れしている。

 (喰われてもいないし、取り憑かれてもいないが)ぎんは忙しく判断を巡らせた。(すでに一服もられたって感じがしないでもない)

 決めたおいた通り真喜の腕を三回と二回、前足で叩いた。警戒信号である。

 しかしさすがのぎんも、少し離れた木陰に、すっかり黒目の広がった、主よりかなり見劣りする容姿の男がひそんでいるのまでは、気が及ばなかった。

 

 

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