第15話 理由は恨み

「だれがしゃべったのやら、普照さまの宿には老いも若きも男も女も、ひきもきらぬ有様で」

 忠次郎が上気した口ぶりで伝えるのを、

「おがんでもらいたいのかおがみたいのか、さだかではない模様ですが」と、小平太がひきとった。

「あの者の宿はどこだったかな」これは虎之介だ。

「先日から岩田屋の離れにおります」

 小平太の返事を聞き、居間に集まった床几役と兵部たち用人、そして先日から床几役以上に虎之介にぴったり張り付いている護衛の朝倉俊平までが、「ほおっ」と感心した顔を見せた。

 

 岩田屋は、城下町の年寄役を務める五大商人のうちの一軒である。

 財を成したのは先代からと新しいが、当主が目端のきく男とされていて、羽振りは最もよい。

 七、八年ほどまえに建てた離れは、規模こそ決して大きくはないものの、通された某名刹の住職がその豪奢ぶりに驚いて鼻血を出したとの逸話で知られていた。

 藩主の接待まで想定した部屋に、修験者を泊めているのは、よほど気に入ったか、今後の評判が上昇するのを先取りしたのかと、一同はそれぞれに腕を組んで考えた。


「普照さまもまんざらでもないご様子とか」また忠次が言った。

「寄進で寺ぐらいすぐ建つという声までございます。江戸に戻らずに、当分こちらに居をおかれるかもしれませんね」

「まあ、そうでしょうなあ」と用人衆の原田が感に堪えぬように言った。彼は普照の活躍を間近で目にし、ここにいる面々に伝える役割も果たした。

「まさしく鬼神のような働きでしたからな。人を貶すのが好きな番方の連中も、今度ばかりは認めざるを得ないでしょう」

「しかし、怪異がすべて解き明かされたわけではなかろう」

 兵部が言って、隅にいた町奉行の補佐役を務める唐井を見た。

「一味の残りもまだどこかにいるのではないのか」

「そこは抜かりないようです。あの虫丸とか申す男、少々締め上げましたところ、聞かぬことまでべらべら喋りまして」


 捕縛された虫丸によると先日、行列を壊滅させた犯人たちの行動については、円津という彼の雇い主である僧が指示していたのは間違いなく、「あんな怖い顔をして温泉にも行ったんだぜ。笑ったらえらく睨まれた」と言っていたという。また、少なくとも隠れ家がもう一軒あり、全容はわからないが、ほかに仲間もいたのは間違いないと言明しているという。

「それは、どこまで信じられるのだ」兵部はあくまで疑わしげだ。

「いままさに、裏を取っております。」

「隠れ家というのは、どこだ」虎之介の問いに唐井は口ごもった。

「軽々に人にしゃべるなと、その、お奉行が」

「御前であるぞ」兵部が青筋をたてて叱り、唐井が平伏した。

「それ、みな耳を塞げ」しかめ面をした兵部は、他の同席者に手で耳にふたをさせ、自分も塞いだので、「兵部、構わぬ」と虎之介が制した。

 

 唐井によると、城下町を過ぎたところにある丘陵に、古くは氷室にも使っていた小さな施設があって、そこが拠点の一つらしいという。

「早速人をやりましたが、なにも見つからずじまい。戻って虫丸を責めましたところ、役人づれがちゃらちゃら探したぐらいで見つかったら、隠れ家とはいえないだろうと憎まれ口を叩きました。そこで、次は人を集め普照どのにも同行をお願いする手はずにございます」

 

「そうか」特になにも言いはしなかったが、虎之介は不安な気がしてならなかった。虫丸という男が、嘘をついていないと保証はない。さらに、本人も知らないうちに、朱に操作されている可能性だってある。

(ほんとうに普照がそれほど有能なら、めでたしめでたしなのだが)

 久太の情報を信じるならば、先頃の僧は首魁の片腕ではあっても、本人とは考えにくい。朱と呼ばれる首魁は円津とは別者であり、術で姿を隠しつつ、どこかに潜んでまだこちらの様子を伺っている。

 久太は昨日も、ほんの短い間だけ庭園の方へとやってきた。虎之介から僧と普照の話を聞くと、「ほかにも当たってみるぜ」と言ってどこかへ去った。

 それ以来、虎之介は朱についてずっと考えていたが、部下たちに相談できないのがつらいところだった。 

(兵部にだけは、打ち明けるべきなのかな)


 そう考えていて、周りの家来たちがみな耳を塞いだままであるのに虎之介は気がついた。

「もう、よいぞ」

 耳から手を離すよう指示してから、

「そうだった、虫丸とやらは仲間の増やし方もしゃべったのだな」と聞いた。

「はい、結縁といいましたか、あれも嘘かまことかわかりかねますが、普照どのによると、十分あり得ることだと」と唐井が答えた。

「なんでも、死んだ僧なり、すでに結縁した者が、他人の身を爪かなにかで傷つければそれで儀式はすむのだそうです。すると、あとで獣の爪にかかったように熱が出て、二人に一人は死ぬ。残ったのが、言うことを聞くようになるのだとか」

 全員がそろって首をかしげた。

「わけがわからん」

「結縁の相手にも条件があって、役に恵まれぬとか家族が死んで借金が残ったとか、不満を溜めておるほど良いそうです。そういう拗ね者のうわさも集めさせられたりしたと、あの盗人はいいます」

「ますます、意味がわからん」

「しかも虫丸は盗人猛々しくも、『おれは結縁衆とは違う』などとわめきます。お奉行は罪を逃れたいのであろうと嗤い、普照殿はこれで合点がいった、あとは隠れ家をすべて破却し、残党を暴き立てれば、おのずと敵は力を失うだろうとのことでした」


「そういうものか」と、一度は口にした虎之介だったが、兵部が厳しい顔のままなのに気がつくと付け加えた。

「だが、まだ納得したわけではないぞ。虫丸とやらの言い草を信じるなら、あやつはただの雇われ者に過ぎぬ。ならば虫丸の知らぬ仲間や、あるいは首魁がいてもおかしくはない。杞憂かもしれぬが、やすやすと安心はできぬ」

「まさに、仰せのとおりにございます」我が意を得たりと兵部はあらためて話しはじめた。

「あやかし退治は大仕事であったかも知れませぬが、これですべてかたがついたと安心するのは、拙速に過ぎます。先に捕まえたあの盗賊には、ほかに仲間もいたようですし、当人もこれまでかなりの金を受け取っていたと認めています。一味の全容を知るには、まず金の動きを詳しく調べるべきではないでしょうか。思いますに、少なくとも死んだ僧とは別に、どこかに金主がいると考えるのが自然」

 なるほど、と虎之介は思った。たとえ妖術が使えようが、人を利用して悪事を働くには相当な金がいるはずだ。金の流れを追えば、朱に近づけるかも知れない。

「それに」さらに厳しい声を兵部は発した。「普照と申すあの修験者を信じすぎるのもまた、危うく思えてなりませぬ」


 その厳しい言い草に、他のものはたじろいだ。兵部は一同を見回すと、

「拙者、勝手ながら義兄にも頼み、少々普照について調べ申した」

 兵部の義兄は江戸留守居役を務めていて、虎之介も人柄は知っていた。義弟とは異なり、いかにも穏やかでよく気がつき、そつがない。

「たしかに、憑き物おろしに関しては京、江戸において評判なのは間違いなく、明信院さまの他にも武家、公家、商家と幅広く顔がきくのも嘘ではないようです。しかし」

「しかし」

「ぬけぬけと自流を興したと称しておりますが、調べによるとわずかの間に諸家にそれほど食い込んだのは、普照よりも師にあたる修験者の名声と人徳によるもの。すべておのれの手柄にするとは、いささか信のおけない男にも思えます」

「……榊様の方が死んだ坊主より恐ろしい」素早い仕事ぶりに、忠次郎がぼそっと漏らした。


 兵部は続けた。

「なお、その師匠こそ役行者の再来かと噂の大変な人物らしく、六十を過ぎてなお朝夕山野を駆け巡っているとか」

「六根清浄といって山にのぼる、あれみたいなものかな」こわばった雰囲気をなごませようと合いの手を入れたつもりだったが、だれも笑わなかった

「実はその師匠はいま、請われて藍美に留まっているそうです。おかげで地元の船乗りは舟幽霊やら海坊主にはすっかりご無沙汰だとか」

「なんだ、近いな」藍美は、隣国の北端に位置する土地の名だ。海に面していて、鵠山に出回る海産物には、ここから運ばれてくるものが多い。舟を上手に使えば、一日あれば十分たどり着くことができる。

「はい。普照が江戸から遠視したと称するのも、事実はこの国に近くにいた師から、なんらかの指示なり助言があったのではないかと。まあ、それはそれで不都合はないのですが」

「そんなにすごい師匠がいるなら、万が一長引いた場合はそちらに頼むのも手だな。普照の顔を潰すことになって、気にいらぬかも知れぬが、それほどの事態だとわたしは思う」

「はい」兵部はうなずいた。「言い訳はどうとでもつきます。勝手ながら拙者、すでに文は送りました。噂ほどの人物であれば、こちらに嘘がないのは見抜いてくれるかと存じます」


 そして、兵部は次の隠れ家捜索についてまた尋ね、唐井が予定の編成を説明した。

 一応は大成功となった前回の討伐隊に、鉄砲組を加える案と番方全体からあらためて参加者を募る案があり、すでに噂を耳にして志願者が続出しているのだという。

「まあ腕に覚えのあるのも多いでしょうから、行かせてやれば」と、稽古するわりに武技の身につかない忠次郎が言った。すると顔の痣が暗い色になってきた小平太が、「奴らの一番大切な役目は他にあるだろう」と、暗に虎之介の警護が手薄になるのを批判した。

 それを聞いて口を尖らせた忠次郎が「しかし、攻めてこそ勝てよう。武芸とはそういう時のために修行するものぞ。毎日無駄に棒切れを振り回しても仕方あるまい」

 またはじまったいつものやりとりを尻目に、朝倉俊平がひとり、なにごともないかのように穏やかな顔つきなのを見て、虎之介は思わず微笑んだ。


 剣術指南役の次男である朝倉は、まだ三十に間のある歳だったが、顔はそれよりさらに若々しい。体格もむしろ小柄なほどだが、まごうかたない天才剣士として武術を学ぶ者の間では畏敬の対象となっている。

 ふたりの口争いに興味を示さないのも当然のこと、腕前は彼らと段違いと言ってもまだ足りず、周辺諸国も含めて彼を打ち込める剣士はいないとされる。

 ある日など、彼をねたんだ番方のある組が一斉に襲ってきたのを、一人で返り討ちにしてしまった。動きは稲妻のようにとらえ難く、全員を叩きのめして汗ひとつかいていなかったという。

 

 先日の行列で起こった騒動以来、虎之介に少人数で用心棒役を務める奥詰を付けることになり、番方の諸隊の誰しもが自分たちから選ばれることを望んだが、

「朝倉の名を聞くと、そろって目を伏せたそうです」と、兵部がおかしそうに明かした。虎之介はそのこと思い出し、朝倉を頼もしく思いつつも、

(皆にはよけいな心配をかけているな。真喜にもだ)と心の中で考えた。


 先日の真喜からの手紙もまた、いつもと雰囲気が違った。

「先夜悪しき夢を見、目覚めてなお胸苦しく」といった真剣な様子で虎之介の安否を気遣っていた。彼女が夫に危機の迫った夢を見て飛び起きた夜というのは、ちょうど猫に案内されて山を下りた晩だった。

 朝まで一睡もできず、その代わり昼寝をしてしまったというのは、いつもの彼女らしかったが、こうも暗合が続くと、

 (不可思議な経験というのは、重なるのだろうか)などと、自分が別の世界に足を踏み込んでしまった気さえしていた。

 ただ、それでも妻との間に目に見えない絆が存在するように思えるのは、悪い感じはしない。

 広く、茫漠として、このごろは剣呑にも感じるこの世の中に、迷わず常に自分を気にかけてくれる人がいるのは、なにより嬉しかった。

 

 江戸を発つ前、最後に真喜と二人きりになったひとときを思い出した。

 前日まで、いろいろ騒がしく口出ししていた妻は、その時だけは不安げな顔をしてだまっていた。

 思わずその手を取った。真喜はしばらく俯いてなにも言わなかったが、

「うん」とうなずいて夫の手を握り返した。彼女の胸元からほのかに甘い香りがした。

 初めて会った時は線香みたいなにおいがしていたのに、このごろは甘く優しい真喜だけの香りがする。そのいい香りと柔らかな手の感触をうっとり思い出していた虎之介は、野太い男の声で現実に戻された。

 大番頭が報告にきていた。

 普照の進言もあって、今夜さっそく再捜索の実施を決めたという。

 虫丸の「円津たちは日が落ちると、とたんに動きが盛んになった。まるで飲み助みたいだった」との、いい加減な情報をあてにしてのことらしい。おまけに、

「恐れ多いとは存じまするが、願わくば」虎之介に出発を激励してほしいとの口上がついていた。


「内通者の恐れも皆無ではなく、城下にはおそらく間者ぐらい潜んでいるだろう。むしろ、夜に紛れひそかに立つべきでは?」と兵部が問うと、

 「我が通力を十全に働かせ目的を達成するには、追手すべてが心をひとつにする必要がある。それには」と、普照本人の希望であるのが明かされた。

 兵部がこめかみをぴくぴくさせはじめたので、虎之介は不安が高まるのを感じつつも、

「わかった。檄ぐらいたやすいことだ」と言った。

 そして、他のものには聞こえない囁き声で、急ぎ隣国にいる普照の師匠へわたりをつけるよう、かたわらの兵部に伝えた。

 兵部はめずらしくにやっと笑うと、すばやく席を外した。


 追手門には捜索隊と一緒に虎之介を待っていた普照がいて、藩主の姿を認めるや自信に満ちた顔を彼に向けた。そして、

「かならずや、この国に漂う怪しい気の元を見つけ、吹き払ってごらんにいれましょう」と請け合った。

(この前よりずいぶん言葉が軽くなっているな……)

 不安が高まるのを感じつつ、一行を見送った虎之介だったが、不幸にもそれは的中してしまった。


 早めに寝所に入った虎之介は、今夜もまた、なかなか寝つかれないでいた。

 いまだ互いに打ち解けられず、内心の把握できないでいる重臣たちとの関係は、(大人と子どもだからな、仕方ない)と割り切ることもできる。

 その一方、暖かい夜具の中にいても彼の気持ちを落ち着かなくさせているのが先日来続いている怪事件である。それは思ったよりもずっと根深く、黒幕だという朱という存在も、その正体はまだ解明できていない。ただ、強い悪意をこっちに抱いているのは間違いない。

 そして、彼の部下たちはいま、その捜索に向かっている。

(また、誰かが犠牲になるのではないだろうな)

 たくさんの不安がいっぺんに胸にのしかかり、子の刻あたりになってようやく、虎之介はうとうとしはじめた。


 いつのまにか彼は、どこかよくわからない場所を彷徨っていた。

 いや、夢の中の彼ははっきりと行き先を自覚しているようだ。

 暗い夜道をわずかな灯りを頼りに歩いていて、足下には落ち葉が土を覆い隠していた。

(どこの森だろう。この前、忠次郎らと歩き回ったところかな)

 思考力のとぼしい頭で彼は考えた。

 先日の山道にしては、土はやわらかく、ねばついている。

 見ると、足下は丈夫そうな草鞋を履いており、手には杖を持っている。歩いているのは自分とは違った別の男であるのを、虎之介はとくに不思議とは感じなかった。

 男はしっかりした足取りで坂道を進むと、蔦や木の葉で隠された黒い扉を見つけた。しばらく、様子を見ている。


 周りにはたくさんの人がいて、合図に応じて手に手に持った龕灯や松明に火を灯した。そして、扉を開いて暗い内側を灯りを突き出して、照らす。

 周囲の人びとはそろって腰が引けている。 

 男は、持ってこさせた鉄の枠を地面に下ろし、その中に火を起こした。虎之介は自分が目を借りている男が、真言らしきものをとなえはじめたのがわかった。

 もしかして、視線を借りているのは普照だろうか。


 しばらくして、黒いものが奥から飛び出してきた。

 人だ。三、四人はいた。

 炎に浮かび上がった顔はいずれも血の気が失せて白っぽく、全体に薄汚れている。長く同じ姿勢でいてこわばってしまったかのように、身体はぎくしゃくとしか動かない。

 そのため、威勢よく出てきたわりには、連中は棒を手にした捕り手にやすやす取り押さえられた。女はいないようだ。そろって男で、体には浴衣のように薄い衣装を身につけただけである。夏物のままなのだろうか。


 その間、虎之介はずっと自分の口からこぼれる呪文を呟いていた。飛び出してきた中に派手に暴れたのがいて、捕り手たちに棒で殴り倒された。

 ひとびとの興奮が伝わってくる。

 ふいに悲鳴が上がった。倒された体の男が突然、胸のあたりで激しく裂けたのだ。臓物や骨は見えても血はほとんどでない。


 ほかの汚れた男たちも次々と同じように体が裂けていったが、この前のように溶け崩れたのはいない。

 怯えた捕り手たちがこちらの顔を見ている。

 しかし、夢の中の彼はおごそかに、

「思うに、結縁のし損ないであろう。奴らが仲間を増やすのは、あまり歩留まりがよくないと見える。これらは、捨てるはずであったのを残していったのであろうか」と、聞いたようなことを言ってから、戸の奥に踏み入った。


 狭くいやなにおいのする中をゆったりと歩き回った。

 捕り手たちが照らすと、壁が浮かび上がった。人の背よりやや低いぐらいの高さに掘り上げてある洞窟の内部には、鉄によって補強した長持ち風の木箱があるだけで、とくに気を引くものはない。

 隠れ家のはずなのに、家具や什器もない。また、においも厠や肥だめの生々しいそれではなく、古くよどんだ、すえたようなにおいである。


 足下は暗いが、感触だけで土だろうと知れた。

 別のなにかが足に当たった。白っぽい。見ると人の手だった。

 思わず足をあげる。しかし、手は彼の足をおいかけてきた。腕や肩、そして頭が地面からついて出てきた。

 頭髪はない。それどころか、顔の左半分は肉がそげてしまっていて、骨が見えている。

 迷わず、手で持った杖をその目玉を突き刺した(こんな残酷な仕打ちができたのには自分で驚いた)が、禿頭は傾いただけで痛がるそぶりを見せない。

 禿頭の手が彼の足をつかんだ。

 すると、「そら。また会えた」と歌うような調子で言った。

 虎之介はそのままものすごい力で地面の中に引き摺り込まれていった。


 声にならない悲鳴をあげつつ引っ張られていくと、視界が黒から赤へと変化し、いつのまにか赤い海のような水底にいた。どこかでまた声がした。

「ぜひ一度、余人を交えずこころゆくまで話し合いたいものよ」

 一瞬ののち、虎之介は目を開けた。

 赤い海ではなく、薄暗い天井板が見えた。

 しばらくのあいだ、ぼんやりしていた。

 

 夢にしては生々しすぎた。やさしく禍々しく、男とも女ともつかない声も耳に残っている。

(まさか、朱かな……)

 不寝番がだれもこなかったのは、実際には悲鳴をあげなかったためのようだ。

 いや、まてよ。全員死んでしまったとか……。

 不吉な考えが浮かび、虎之介はそっと寝所の戸を開いた。


 朝倉が刀を引きつけ、居合腰になってこちらを見ていた。その向こうで床机役二人があわてた顔をしている。

「いかがされましたか」朝倉がささやいた。

「すまぬ。おかしな夢を見ただけだ」

「それはお気の毒に。ごゆっくりお休みを、まだ夜は長うございます」

「おぬしらにこそ休んでもらいたいが、そうはいかぬのかな」すまなそうな顔になった虎之介に、「いいえ、昼間適当に寝ております。ありていに申せば、いつもより多く」と、朝倉はにっこり笑った。


 布団に戻ったが、また寝付かれない。

 寝返りを繰り返すうち、どこからかつぶやくような声がした。

「若さま、眠れねえのかい」

「久太どうした、こんなところに。苦手ではないのか」

 いつもの張りのある口舌とは違い、久太は明らかに元気がない。

「なあに、たいしたこた、ない。それより、大事ないかい。気になってちょいとこっちまで見にきたのさ」

「それは、悪いことをしたなあ」


「殿、なにかございましたか」粥川又八の声がした。

「いや、独り言だ。寝付かれなくてな。すまない、気にするな」

「はっ、おやすみなさいませ」

 

 一段と声を潜めて久太が言った。「とのさまって家業も、めんどうだな。これじゃ好きにあくびもできねえし、屁もひれねえ」

「まあ、仕方ないさ」

「それがよ、姐御もずいぶん心配してなさるのさ。このごろ若さまが存分にお眠りになっていないと聞いて、朱の奴がまた悪さをしてやがるのではないかって。おいら、姉御の癪の方が怖いよ」

「たまどのは、そんなに怖いお方なのか。怒らせないようにしなくては」

「まあね。でもあいつ、朱のやつ、人の夢に出て見たくもない嫌なものを見せたりできるんだ。まあ、おいらたちの仲間にも、人にまぼろしを見せるのが得意なのがいるにはいるがね」

「ほう、そうか」

「朱の術はさ、手がこんでるらしいよ。あいつ相手をしつこく嬲るのが好きなんだって。夢に出るってことは、相手を休ませないってことだからな」


「ところでたまどのは、どなたからわたしの寝付きの悪さを聞いたのかな」

「さあね、なんせ顔の広いお方だから」あわてて久太は話を逸らした。

「けど、姐御が一声かければ、この国どころか日本中から腕自慢が馳せ参ずるぜ。『いざ鵠山』ってやつだ。あちこちから慕われているお方だからな。あの朱がさ、手間ひまかけて取っ憑いて回らないと手下が増えないってのは、徳がないってことなんだろうな。大違いだ」

「たまどのと朱は」思いついて虎之介が尋ねた。「生国が同じなのか?それとも先祖が同じ一族であったとか」

「まあ、おいらの知る限りじゃ、どっちかいえば後かな。聞いたところによると、姉御みたいなのは、長生きしたのがなるんだ」

「そうか、長老だったとはな。それにしては声が若い」

「これは言っとかなくちゃならないけど、姉御は見た目も若いよ。それでさ、朱みたいなのは恨みのせいでなるんだ。だれかにひどい目にあって、恨んで、恨み抜いて力を得た。だから根性が曲がっちまってる。けどよ、恨むのは勝手だが、ほかを巻き込んじゃいけねえよな」

「うーむ。苦労も度を過ぎると、心を磨かずに腐らせてしまうということかな。だが、わたしのような生まれだけで人にかしずかれる立場になった男には、あまり厳しいことはいいにくいな」

「そ、そうかい。おさむれえの事情はいまひとつ分からねえ。それより、ほんとに身体はなんともないのかい。あんまり顔色よくねえぜ」

 

 一瞬迷ってから、虎之介は伝えた。

「いまさっき夢を見ていた。男とも女ともつかぬ声に、ぜひ会いたいと言われた。声のしたのは、水底のようなところで、赤かった。あれが朱だろうか。会う日取りは、また知らせてくれるそうだ」

「おえっ。そうかい、わかったよ。さっそく姉御にご注進申し上げてくる。この久太にまかせてたもれ」

「たまどのには、心配をかけてすまないと伝えてくれ。それに、おぬしもあまり無理をしてくれるな」

「へへへっ、若さまこそあんまり気に病むなよ。あの馬鹿の思うツボさ。なあに、いつだっておいらたちがついてる。いざとなりゃあ、若さまの御家来衆よりも大勢が助っ人に駆けつけてくれるさ」

「それは、心強いな」軽い冗談のつもりで口にしたのに、ほんとうに涙ぐみそうになって困った。

「へっ。気にするな。おれたち仲間じゃねえか」

 こころなしか久太の声も湿っぽかった。

「やつの脅しなんて、いっしょに跳ね返そうぜ」

「そうだな」

「おいら、絶対に若さまを裏切ったりしないさ。安心しな」

「ああ、信じるよ」

「じゃあな、またくるぜ」

 かすかな声のあとは、なにも音がしなくなった。


 虎之介は、ついにこぼれてきた涙を手で拭ってから、またまぶたを閉じた。

「そうだ」

 今度は跳ね起きた。

「殿、いかがされましたか」不寝番から声がかかった。

「怨みだ。狙われた理由が、わかるかも知れない」




 

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