第5話 老人ともののけ

 歴代の藩主と家族、そしてその前に国を治めていた一族の墓参を済ませた虎之介主従は、今日の午後からわずかな供まわりを連れ、舟で雪花斎と号する老人の元へやってきた。

 昨夜は、奇妙な出来事によって寝不足となってしまったが、眠気は爽快な舟の旅ですっかり拭いさられた。

 ただ、これから会う老人のことに考えが及ぶと、とたんに憂鬱になる。

 老人は藩内でそれなりの存在感を持ち続けているそうだが、別に人柄や見識が尊敬されているわけではなく、むしろ曲者に属する。


 男たちが舟から荷を下ろす作業を虎之介は見ていた。つい、手伝いそうになって、兵部が厳しい目つきを向けているのに気づき、やめた。

 荷はいずれも雪花斎老人への土産だ。中身は珍味に類する食べ物や装身具、化粧道具である。量はしれていても、それぞれ結構な値がした。すべて老人自らの指定による。

 国入り後の訪問が正式に決まると、堂々雪花斎は江戸にまで土産の注文を伝えてきた。表向きは藩主の私的な訪問であるにもかかわらず、である。おなじく後日の表敬訪問が決まっている明信院からは、もちろんそんな注文はない。

 頼んだものは江戸でないと手に入らないと弁解がついていたが、普段は藩邸と取引のない店の商品もあり、わざわざ真喜が取り寄せてくれたりした。

 紅など、小さな容器に入っているだけなのに、その値を聞いて慎ましく育てられた虎之介は目を丸くした。まるでたかりではないか。破損した時のことを考え、守り刀や文箱など自分の荷物と一緒に運ばせたほどだった。


「しかし紅など、なににどう使うのだろう。年寄りの、それも男ではないか」

 虎之介がこぼすと、

「気に入った女には気前がいいと聞いております」同行の家老、鍋山が答えた。「あれはもう十五、六年ほど前になりますか。彼のお方から江戸で名の知れた錺師への注文がありました。これもまた信じがたい値でしたが、もちろんこちら持ちでしたな」

 頻繁ではないのがまだ救いだと鍋山は言った。機嫌を取りたい相手がいない期間は、なにも言ってこないのだそうだ。

「と、いうことは、いま相手がいるのか」

「そ、そういうことになりますな。そうですな。これは驚いた」

 たしか七十はとうに過ぎているはずである。


「そういえば」思いついて虎之介は尋ねてみた。「ご先代は、雪花斎さまのように女にお優しかったのか」

 側室は複数いたはずだが、大名のそれは女好きが理由とは限らない。

「だれかに紅を渡すようなこともされたのかな」

 真喜にせがまれ、故郷の木彫りの人形を取り寄せたことはあったが、化粧品を渡したことなどはなかった。一刀彫りの素朴な人形は、生国の高山地帯に出るという有名な妖怪を模したもので、大喜びはしてもらえた。

 旅立つ前、妻のために髪油の手配を頼んでおいたが、それぐらいしか経験はない。紅なんかいきなり渡したら、かえって嫌がられはしないだろうか。


「はて。ご先代については、そのような話は聞きません。ただ」

 昔、江戸勤務から戻った鍋山の父親が、当時はまだ若君だった先代の注文のついでに求めたと言って、姉たちにこまごまとした化粧道具を持ち帰ったのを思い出したという。

「むろん、先代の購われたのとは大違いの値のはらぬ品でしたが、姉たちが大切にしておりましたから、よく覚えております」

「そうか」なんとなく微笑ましくなって、虎之介はにっこりした。

「ごくお若いうちはそういった話があったようですが、なにせ昔の話、くわしくは存じません。申し訳ございませぬ」

 鍋山が親のあとを継いだ頃には、もうすっかり先代も落ち着いていて、艶めいた話などはなかったという。

「そんなものか」真喜の側近く仕える女たちからは、先代は娘にも側室たちにもいたって交わりの淡白な人物だったと聞いていた。病に倒れる前も、女に対し感情をあらわにするようなことはなかったようだし、ごく若いうちの一時的な出来事だったのかも知れない。

「それに比べると、雪花斎という人は老いてなお盛んだな」

 小さくため息をついた虎之介を、兵部が黙って見ていた。


「墓参は、もう済まされたとか」

 虎之介に上座をすすめると、快活な口調で雪花斎はいった。

 骨細の華奢な身体つきをした老人で、先先代の藩主の末弟にあたる。

 若い頃に他国で養子になったのち、なにがあったのかしばらくして国へ戻り、その後はずっと領内に居住している。

 藩主とその親族で形成される御一門では最高齢なのに血色はよく、毛のない頭はつやつやと輝いていた。見たところ、六十そこそこにしか見えない。

 主従が挨拶の遅れたのをくちぐちに詫びると、

「いやいや、喜んでおるのです。まず先祖への挨拶を忘れぬとは、若いのによくお気がつかれる。正直、亡くなられた孝正公もそのお子らも、そのあたりは今ひとつと感じておりました」

 同席の鍋山家老が、己が小言をいわれたように恐れ入った。

 道中の会話では雪花斎を良くいわなかったのに、本人を前にするとすっかり小さくなってしまっている。老人は、近隣諸国の藩主側近たちに顔が利くうえ、あちこちに間者を養っていると噂があった。それにしても態度の変化が激しい。弱みでも握られているのかも知れない。

 

 最近、脚がすっかり衰えたと愚痴る雪花斎の、口は実に達者であった。

 ひとつ相槌を打つだけで、上機嫌にぺらぺら喋り続け、話題もころころ変わった。

「この国の深山は、これからご覧になられるのでしょうな。江戸生まれの方にはさぞひなびて思えるやもしれませぬが、見るべきところもひとつふたつ。まもなく紅葉も見ごろ、この年寄りにお命じになれば、三味線の達者もすぐ手配いたしますぞ、むろん、見目もよきおなごにございます。なお、その折には駕篭をご用意いただけるとありがたい。それで鍋山どのは」

 雪花斎は家老の方をみて、殿様に政策の大方針をお伝え申したかと尋ねた。

 虎之介が自ら、執政たちからはすでに国政の概略については説明を受け、近く各奉行や各地の庄屋、主立った商人にも会う予定だと伝えると、雪花斎はその姿勢を前向きだと褒め、「いちいち口を出せば下は縮こまり、われ関せずが過ぎても国は乱れかねませぬ。よく分かったうえで知らぬ振りをするのがよい主君かと。いや、これぞ差し出口かもしれませんな」と、細くて長い首を見せて笑った。

 一時、歴代藩主の私的使者の立場にいたのは事実だが、自慢できるほど人の上に立った経験があるわけでなく、得手は酒と女性のからんだ付き合いだったとは聞いている。中途半端に悟ったような口舌に相対しているだけで虎之介は力が吸い取られてゆく気がした。

  

 雪花斎は、城から離れた田園地帯に庵と称するこじんまりした屋敷を構えていた。離れたといっても舟を使えばすぐ城下と往復できるし、少なくない雇い人を抱えて疎外感など少しもなさそうだ。兵部によると、彼が虎之介の後継選出に早いうちから賛意を示したのは、その前の候補であった先代藩主の息子たちが、そろって老人の領地収入の多さに批判的であったのが大きいということだった。


 それはともかく、少なくとも、女性はいまだに好きなようだ。

 一行を案内したのも、茶菓を運ぶのもすべて中年増ぐらいまでの若い女たちばかりで男の影がない。そのうえ女たちは、とても付近の農婦を雇ったようには見えない。力仕事はどうするのだろう、と疑問がわく。

 雪花斎が好きだというあられ菓子が出され、話題が具体的なものに変わった。

 虎之介のかしこまった態度が気に入ったのかさっそく、過去の執政たちの人物月旦とそれぞれの挿話 ―――― 失敗談が多かった ―――― を、おもしろおかしく話して聞かせた。かと思えば先代藩主への忌憚ない意見を開帳し、兵部らをはらはらさせたのち、

「江戸での話を少しお話し下され」とねだった。「いまどきの大名ぐらしは、世間でいうほど楽とは思えぬ。殿も、さぞめまぐるしい日々をお送りのことでしょう」

 それは、本当だった。藩主として初めて迎えた江戸での日々は、月二度の登城を筆頭に出入りや行事ばかりで暇に過ごした記憶はない。どこもかしこもはじめて出向く場所ばかりなうえ、ほとんどの場所で虎之介が最も若かった。

 おかげで時々腹を下した。

 そのあたりを正直に語ると、老人は片頬を吊り上げて笑い続けた、

 なにかがツボにはまったようだったが、わからなかった。そしてしばらく空に目を向け楽しげに思案すると、年寄りは小用が近くてかないませぬと自ら小休止を宣言し、坪庭に面した茶室に、虎之介だけをいざなった。

 ついにきたぞ、と虎之介は思った。

 

 茶室での老人は、茶どころかさっさと酒をあたためはじめた。女たちが酒肴を運んでくる。虎之介が戸惑っていると、「無理強いはしませぬが」と、杯を突き出した。兵部からはあらかじめ警告を受けていたので、唇だけをつけてすぐ戻した。

 雪花斎は気にする様子もなく、手酌でくいくい杯をあけながら、

「この老いぼれが申すことではござらぬが、いまの重職どもはそろって歳よりも老け込み、気力をなくしております。先代が愚図でまつりごとへの興味もなく、手入れを怠ったがために相違ありませぬ」

 まがりなりにも義父を愚図と評され、虎之介は目をぱちぱちとしばたかせた。

「すぐにとは申しませぬが、殿もいずれ思い切った井戸さらいをなさらぬとな。その時にこの年寄りがまだ生きておれば、なんなりとご相談を」老人はからからと笑った。それが聞かせたかったようだった。そして、「このたびのことでも家中をまとめられずおたおたしおって。変事にすばやく応じてこそ、ばか高い扶持の価値もある」

 扶持と聞き、経済的な不満でもあるのかな、と考えていた虎之介に、

「それどころか、幽霊だの血の跡が取れぬだのと世迷い言を真に受け、あたら由緒ある屋敷を捨て置く始末。草も刈らねば、噂も立つわ」と雪花斎は嘆いてみせた。

(ああ、あれか)と、合点がいった。 


 虎之介の前に後継候補だった五男は、国元に滞在中、屋敷内で謎の死を遂げた。

 唐突だったその死については、厳重な情報統制が敷かれたが、虎之介の耳にはおおよその状況が届いていた。うそかまことか五男の体は人の形を留めず、血泥となって畳の上に堆積していたのだという。急病とされたが医師は完全に間に合わず、原因はまったくわからなかった。

 以来、藩主の別邸だった屋敷はずっと放置されている。雪花斎はそこに移りたいとの希望を持っていたが、家老たちがいつまでも返事をよこさないのに焦れたようだ。

 遠回しに、前の主は尋常な死に様ではなかったらしいが構わないのかと確かめると、

「ははは、枯れても武士が死人の一人や二人、恐れていかがします。それに貴人は化けて出るもの」と変な胸の張り方をした。

「それにこの歳になると、あの世の方が親しく思えましてな。厠もすっかり近くなって、夜中に人魂が足もとを照らしてくれるとありがたい」

 さいわい、兵部と打ち合わせた雪花斎の要求予想に屋敷は入っていた。虎之介が早急な対処を約束すると、老人は手を叩いて喜んだ。そしてお返しに、

「このじじいのできることなら何なりと」申し付けてほしいといった。

 恩にきる必要はないとかぶりをふると、若いのに遠慮するな、早く取り返さないと先に死んでしまうぞと冗談をいい、ならば余人に聞けないことに答えるのはどうだ、と畳み掛け、虎之介の目をのぞき込んだ。

 老人のやけに赤い唇がうっすら笑っていた。

(そうか、こうやるのか)


 この老人にとっては、理解者のふりをして若造に近づき、情報をチラつかせ、相手に腹の中をぶちまけさせ、秘密を握って協力者にしたてあげるなど雑作もないのだろう。あるいは、雑作もない相手と見くびっているのか。

(なるほどな)虎之介は腹の中で納得した。

(国元が妖怪だらけなのは本当だ。あの太刀を持ってくればよかった)

「ならば、お教えくだされ」彼はなるべく自分がでくの坊に見えるよう注意を払って言った。

 歴史ある城の主によそ者の自分がなったことに不満を持つ者が国元に多いのは知っている。そして、三人の義兄たちについた人々にはそれぞれの考えがあり、その忠義心を疑う余地はない。できれば彼らとも融和したい。

 老人の目がきょろりと動いた。

 きっと、池に垂らした釣り糸が震えたぐらいには感じたのだろう。

 近習たちの情報では、今回の跡目騒動の当初、誰がどの候補についたかを雪花斎は熱心に調べていたという。おそらく、それを用いて対立を煽るとともに、自分はすべての派閥から一目置かれる藩主後見人の立場になりたかったのだろう。だが、虎之介の登場で頓挫したいま、新城主を手なづけにかかっている。

「それを、お知りになるには……」雪花斎の舌の頭が小さく唇からのぞいた。


 ああ、もういい。めんどうだ。本来ならもう少し腹を探る予定だったが、我慢も限界だった。だいたい、狭い茶室は大の苦手である。

 虎之介は無意識を装って老人の言葉を遮り、「この正光、ひとつ考えがござる」

 そしてわざと体の大きさが伝わるよう、姿勢を正して相手に被さるかのように近づき直した。雪花斎は体格雄大で無神経そうな相手が苦手だと聞いていた。

「ほっ、ほほう」軽くうろたえた相手にかまわず、

「皆に相撲でもとらせて、そこに飛び入りで加わろうと思うが、いかがでござろうか」と言った。「藩祖成正公は、ことのほか相撲を好まれたと聞いた」

 予想外の提案に、雪花斎はしばらく黙った。

「はだかで皆と神輿をかつぐのも一興ならんか」と追いかけて尋ねると、老人はしばし目を宙にさまよわせたのち、国人と分け隔てをしないのは良い、とつぶやいた。

「さようか。やわらも少々嗜んでおりますが、あれは勝ち負けで遺恨を抱きやすい」と虎之介がいかにも惜しそうに首を振っていると、ようやく、

「殿のお気持ち、先祖もさぞ喜んでおりましょう」と言った。「役に立てぬお詫びにもう少し、この年寄りの知る今日までの国元の様子をお聞かせいたしましょう」再度巻き直しを図ったようだった。だが、これ以上狭い茶室に閉じ込められるのはごめんだった。

 虎之介はすかさず、「それはありがたい。願わくば別室に移り、兵部にもお聞かせいただきたい。あれは、江戸と国を行ったり来たりで、この正光とともに知らぬ話も多い」

 一瞬、本気かを疑うような顔をした雪花斎は、若々しい主の笑顔をじいっと眺め、あきらめたように「ごずいに」と返事した。

 

 およそ二年半前、前鵠山藩主の孝正公は突如として奇病としかいいようのない状態に陥った。耳や口腔に腫物ができ、数日高熱を出してうわ言を続け、またけろりと治る。この繰り返しに、人柄はさておき身体だけは問題のなかった公も、だんだんと衰弱してきた。

 急ぎ嫡子を藩主に直すべく、諸手続きを進めようとした矢先、当の長男が急死した。脚気衝心とされるが、実際は突然に大声を出し続けたのち、ばったり倒れてそのままだったという。

 あわてて存命の息子のうち最高齢の三男を選び仕切り直しを図ったが、間もなく父親そっくりの病を発症し、こちらはすぐ死んでしまった。そこで、他家に養子に出す予定で一時国元にいた五男を江戸に送ろうとしたとたん、彼も死んでしまった。

 広い部屋に移動後、これらを短く説明した雪花斎は、どう見ても嬉しそうに声を潜め、

「風邪ひとつひかなかった先代が倒れ、今度は長子右京大夫さまがあっさり彼岸に去られた。するとうろたえた家中のものどもは、この年寄りのところにまで相談に参りました。よほど惑乱しておったのでしょう。まあ、たいていは青ざめてなにかのたたりと怯えているのと、頬を朱に染めこれを機会にご政道をただすべしと力む輩、青と赤のどちらかでありましたな」


 目立った問題はなかったがとりたてて美点もなかった長男の急死のあと、後継を選ぶにあたって意見が二つに割れた。

 家に残っていた息子二人のうち、三男は早くから学問を好み、一部に根強い支持者がいた。しかし身体が丈夫ではなかった。五男は大病もなく比較的弁も立った。国元で生まれたこともあり、国元に彼を押す声が強かった。長男死去の際も領内にいて、自然と支持者の声は大きくなった。

 幸か不幸か、鵠山ではこれまで騒動に発展したほどの跡目争いはなく、面白がった国元の一部で騒ぎが盛り上がってしまった。互いの支持者が相手方の悪口をつまみに酒を飲み合う間はまだよかったが、三男、五男と続けざまに正式のお披露目前に亡くなったことで事態はねじれた。

 五男など、不自然にも江戸に立つその日の朝に亡くなって、支持者にはけ口のない暗い感情が残った。雪花斎によると、熱心に五男を推したのは現状に不満のあった組頭の一部と中士以下が多かったという。

「亡くなられた克之進さまも、ひまにあかせては家臣どもの集まりに顔を出し、あてにならぬ約束をされたようでしてな。ちやほやされるのは楽しかろうが、度を過ぎてはいかん。罪なことをされたものよ」


 一方、本国の重臣らと江戸藩邸の面々にとっては、後継ぎが誰かより、幕閣にきざした藩への不信感の払拭こそ鞠躬の課題だった。国が存亡の危機にあることを理解した彼ら、特に江戸側では倒れた藩主の義母であり前藩主未亡人にあたる明信院の提案に飛びついた、というか、すがりついた。

 なにより彼女の公儀とのつながりが比類ないものだったからだ。

 

 部屋に通された兵部が虎之介の斜め後方に控えると、雪花斎は軽くうなずいただけで、ふたたび話しはじめた。しかし、目だけが時折、兵部を追う。

 兵部は内心、笑ってしまった。

(見せかけだけの大物じじいめ)

 雪花斎は、明信院について、「少々強引でも勘どころは違わずに押さえるお方よ」と誉めた。この男には根回しがあったのだな、と兵部は理解した。この男を黙り込ませるぐらい、院にはたやすいことだろう。


 雪花斎の訓戒はまだ続いていた。

 かかる幸運におごることなく、身を引き締めて大役を果たすように、などとてらいもなく話す雪花斎の顔を、だまって見つめていた兵部は、

(さすがの噂好きにも在府衆の気分までは伝わっていないのか)と、当時の江戸藩邸の空気を思い出していた。

 かわり者の姫の婿で終わるはずの虎之介を、あらためて藩主に直す案は、国元の一部に拙速との印象を与えた。しかしその一方、姫の許婚としてたびたび訪れていた彼を知る江戸屋敷のほとんどが、この案を歓迎した。

 実をいえば、そろって傲岸な男の実子たちに比べ、朗らかで心根の優しさや器量の大きさが自然と伝わる虎之介は、身分の上下を問わず好感を持たれていた。

 藩主が二度目の病に倒れた時点で、あの方が次の殿様になれば良いとささやく向きも、藩邸の中に少なくなかったのである。

 

 ただ、国元の後継競争に盛り上がっていた連中だけが、水を差されたと感じた。危機回避が最優先と頭でわかっても、突如あらわれた「余所者」への当惑と重大事に自分たちが関われなくなった喪失感は、はけ口のない怒りとなり、根深い不平不満が残った。

 状況は虎之介にも理解できた。

 家中の士分との正式な対面は、先日の登城後に広間などを使い数度に分けて行われた。

 居並ぶ家臣団はうやうやしく少年王に拝礼した。ただ、あらためて見ると、年配者が多い家老、中老、年寄衆、物頭などの上級武士団は主君への礼が極めて丁重であった。だが、それ以外の群臣の中には、どうせ互いの顔など判らない距離なのだからと、礼の合間にちらちらと値踏みするような気配がなくもなく、それを諌める雰囲気もどことはなしに薄かった。

 近くに控えていた兵部は、自分の額に太い青筋が浮いているのを自覚した。なにより、危機感が共有されていないのが問題だ。

 前に江戸屋敷において、新藩主として虎之介が仰ぎ見られた時の空気は、かなり違った。たとえ明信院という強力な援軍がいても、越えるべき障壁はいくつもあった。虎之介と江戸在の家臣団との間には、神経にこたえる幕府への手続きやら幕閣・有力大名への根回しを共に助け合って乗り越えてきた意識があり、中には正装した彼の伸びやかな姿に涙を浮かべる者すらいて、視線は遥かにあたたかく、好意と感謝にあふれていた。

 

 国元での様子は耳に入っているのか、雪花斎もまた、「ようやくかなったお国入りについて、まずは様子見だと申す不埒ものもごくわずかながら残っているとか」と認めた。さらに、おもむろに兵部の方を向き、「その者どもをいかに善導するかは、まさしくそなたの手腕にかかっている。期待しておりますぞ」としらじらしく誉めた。

 だが、そこまで言うならばと不平組の名を聞き出そうとすると、

「陋屋ずまいの年寄りには、若い奴らの名などとても覚えきれませぬ。歳を取るのはまこと、つらいのう」と口を閉じてしまった。

(兵部を呼んだので機嫌を損ねたかな)と、虎之介は内心反省し、

(どうせ詳しい名まで覚えきれなかったのだろう。はなから食い逃げするつもりだったな、このくそじじい)と、兵部は胸の内で毒づいた。

 

 時も過ぎ、そろそろ送り出したいそぶりを見せはじめた雪花斎に兵部は、

「おそれながら」と膝行し、後継候補に擬されて以来の虎之介の献身的な姿勢を伝えた。さらに大樹公へはじめてお目見えの際、異例にも四半刻近く親しく言葉を賜り、そのうえ初の国入りに合わせては、わざわざ景光の脇差や名馬、明信院への土産まで拝領したこと、そしてこれらは他国を驚かせるほどの好意の表明であり、まさしく天下晴れてのお墨付きだとして、定府家臣の小さな子供まで誇らしげに喋り合うほどだと熱弁を振るってから、持参した多数の土産を披露し、

「例の屋敷の件については、明後日に普請方から人をやります」と言い放った。雪花斎は兵部の剣幕を始終笑顔で受けていたが、内心どう考えたかはわからなかった。

(まあ、いい。ぼんやりとでも伝わるものがあればいい)と、兵部は黙った。


 見送りをうけて主従が城に着いた時には、外はすっかり暗くなっていた。

 小小姓たちに手伝わせ、着替えを済ませると、兵部が下城の挨拶に来た。

 彼は硬い顔で、先ほどは差し出がましいことをしたと謝った。雪花斎の思わせぶりな態度につい腹を立てたのだという。それを制して虎之介は、

「いや、そうでなない、助かったのだ」と言った。

「おれも、ついやってしまった。舐められてると、思ってしまった。もう少しあのお方の望む姿のふりをすればよかった」

 珍しく兵部が口元を緩ませた。

「いいえ、殿は御上手に振る舞われました。鍋山様によると、ご老体は殿のことを、『少々ものを単純にお考えの嫌いがおありだ。世の中はもう少し複雑であるから、おぬしらがしっかりとお育てせよ』などと申されたそうです」

「じゃあ、少しはうまくいったのかな」

「はい。それと殿に「一度会っておかれて損はない』という者の名をあげられたとか」

「ほう、するとわたしの知らない国元の事情を知っているという者だろうか」

「そのはずですが、いつものごとく肝心の理由はぼかし、名のみ伝えたそうです」

 老人が挙げたのは、墨田外記という名だった。

「墨田か。聞いたことがあるな」

 それは、前藩主に重用され権勢を振るいながら、その後罷免された元年寄衆の名だった。

「先に少し、こちらで様子を調べます。雪花斎様とそれほどつながりがあったとも聞きませぬし、引っ込んでからすっかり拗ね者になっているとの話もあります」

「そうか。たのむぞ」と言ってから虎之介は大声をあげた。「あっ、しまった」

「いかがなさいました」

「真喜からあずかった袱紗を渡してしまった」

 江戸から大切に運んできた紅は、船に乗る前に従者に渡したのだが、容器が割れないよう木箱を包んでいた布をそのままにしていた。普通の袱紗ではなく、真喜の亡母が家に伝わる衣装から仕立てたもので、ぽってりと厚みがある。いつもは守り刀を包んでいた。

「あれは大事なものなんだ。困ったな」

「あの、美しい布でございますか。わかりました、すぐ人をやって取り返して参ります。ご安心ください」

 珍しく兵部が笑顔でうなずいたので、虎之介も安心することができた。

「あの袱紗まで差し上げるなんて、いやだからな。あんな人に」

「はい。むろんです」

 二人は顔を見合わせて笑った。


「おこう、おこう」

 虎之介主従を見送ってすぐ、雪花斎老人は小舟に乗って、ひと息の距離にある一軒の家の前にあらわれ、戸を叩いた。

 供は連れずたった一人である。

「もう戻っているんだろう、おこう。そう意地悪するものではない」

 我慢しきれなくなったように老人は、勝手知った様子で戸を開いた。そして一気に土間へと入り込んだ。

 片手には荷物を包んだ風呂敷をぶら下げている。さっき、虎之介主従が渡したばかりの土産を、もうこの家へと持ってきたのだ。

 家といっても敷地はそこそこに大きい一方、建屋は小さい。あがればすぐ居室だ。


 この家は以前、雪花斎とも交流のあったある富農の隠居が住んでいた。その死によって一時空き家になっていたのを、半年ばかり前から縁者だという女が暮らしはじめたのである。

 日をおかずして雪花斎は、「こう」と名乗ったその女と親しみ、いつしか夜毎入り浸るようになった。

 きっかけは、ささいなことだった。引っ越してまもない女が足をくじいたと難儀していたところに、たまたま雪花斎が通り合わせたのだ。

 後日、礼を言いに訪れた女は、雪花斎のことを前から知っていたと明かし、富農の隠居からは将来あの家に住んだ場合、「もし困ったときは頼りなさい」と聞かされていたと言った。


 こうの年齢は三十前後、色が浅黒く小柄な女だった。普段は表情に乏しいが、ときおり少女めいた笑顔を浮かべた。意外に骨格はしっかりしていて、着物の下は、驚かされるほど肉付きがいい。そして、近くに寄ると首筋になんとも言えない色気を感じた。

 自他とともに認める女好きながら、肉体的な交渉はしばらく途絶えていた老人だったが、彼女にあって歳と我を忘れた。それ以来、せっせと通い詰めている。

「おこう、そこか、そこだな。今日はいい知らせがあるぞ」

 こうはいた。いらっしゃいと言ったようだが、はっきり聞き取れない。さらに夜も浅いのにもう床を敷いていて、そこに横たわっていた。雪花斎は面に血を昇らせてにじり寄ったが、膏薬らしい匂いに気がついた

「どうしたのだ、おこう」

「もうしわけございません」いつも鼻にかかって、濡れたように精気のあるこうの声が、今夜はとてもかすれていた。


「風邪でも引いたか、それとも腹痛か」

 女はくらがりにいて灯りもなく、表情がわからない。

「昨晩、ちょっと」

 なまなましい感情をあらわにして、雪花斎は言った。

「昨晩。昨晩お前は、家にいなかったではないか。知っておるぞ。里へ戻ったのかと思ったが、いったいどこへ行っていたというのだ」

「仕方なきことは誰にもあります。大恩ある方の命なら、従わざるを得ませぬ。たとえ貴方さまにも、どうにもできぬこと」

 芝居とは思えぬひどいがらがら声に、雪花斎はうろたえた。

「すまぬ、おこう。そんなつもりだったのではない。おまえが心配でならんのだ、わかってくれ」

 暗がりの中から、女はようやく説明をはじめた。

「わたくしにとって、主筋ともいうべきさる方のために、とある寺に出向いておりました。ことづてのためです。ところが」

「ところが?」

「なんと申しましょうか、相手から思わぬ扱いをうけました」

「なに、それはけしからん」老人は憤った。「わしがなんとかしてやろう。聞いてはおろうが、わしはただの年寄りではない。それに、さきほどまで……」

「さきほど?」

「そうだ」雪花斎は細長い首を自慢げに伸ばした。

「わしもさきほどまで、さるお方とお会いしておった。あまりはっきりは言えんが、身分のある方だ。しかし、若輩でもある。そしていまではすっかりわしを信頼しておる。そうだ、おこう」

 雪花斎はうれしげに報告した。

「これを伝えにきた。お前が以前、褒めておったあの屋敷。まもなく無事、わしのものになる。と、いうことは、一緒に住めるということだな、誰に遠慮なく」


 こうは黙っていた。

「どうした」

「それが、せっかくの嬉しいお話にも素直によろこべませぬ」女はみじろぎした。「貴方様がいらっしゃってから、なにやらますます傷が痛う」

 こうの声はいまや、若い女というより獣のそれのようにときどき荒い息遣いや歯軋りまでまじっていたが、興奮している雪花斎は気にしなかった。

「どうれ、みせてみよ」

 笑みを含んだ老人の声は、露骨に肉欲をのぞかせていた。

「けがか。傷薬なら、すぐに、ほれ」

 畳にひざをついて、雪花斎はおんなのいる暗がりに寄った。おぼろげに、顔の半面に湿布を貼ったこうの顔が見えた。

「おこう」

 しかし女は、吠えるような悲鳴をほとばしらせた。

「どうした、い、医者を呼ぼう」

 雪花斎がうろたえて、風呂敷包みを持ったままの両手を差し出した。

「ぎゃあっ」

 さらに激しい咆哮をあげるとこうはあばれ、雪花斎の手から風呂敷が飛んだ。ひよわな彼のからだも、後ろに倒れ込んだ。

 しばらくの間、おののいていた女は、

「く、ち、おしや」と言ってあとずさりした。そして部屋の隅でしばらく身悶えしていたようだったが、ふと静かになった。


「これ、おこうや、どうしたんだ、乱暴な」

 ようやく立ち上がった雪花斎は、こうの倒れ込んだあたりに手探りで近づき、やっと女の袖に触れた。その中に、布や肌とは別のなにかがあった。

 「これはなんだ」雪花斎はげびた笑みを浮かべた。「お、おまえがこんなに毛深いとは、いつの間に。しかしわたしは、きらいではない。ちょっとまて、見せてくれお前を」

 蟹が泡をふくように口でつぶやきながら、彼はいったん下がった。そして油芯をみつけて提灯用の火種を取り出し、月明かりを利用して火をつけた。

 「怪我か。もしや火傷をしたのかい、かわいそうにねえ」

  そこまで言って雪花斎は、息を飲んで棒立ちになった。

 「こ、これは」

  乱れた布団の上に倒れていたのは、女ではなく長さ四尺は超える大きな獣だった。しかし、見る間にそれはらはらと崩れて原型をなくし、あとには茶色い毛だけが堆積した。

 「なんで、これが、なんでだ」腰が抜けたように老人は座り込んだ。毛の山の横に、彼の持ち込んだ風呂敷が転がっていた。

 開いた風呂敷からは、紅の入った小さな木箱が転げ出ていた。そのそばに厚みのある絹布が落ちている。

「悪かったおこう、どこへ行った……」

 老人は暗闇を相手に、くどくどとかき口説き続けた。

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