第16話

 病院のロビーに野音さんと横並びに座る。緊張が体に満ちて、耳の内側がドクンドクンと言っている。すぐ隣の野音さんは見た感じは落ち着いていて、それは彼女がプロのピアニストだからこう言う場面に慣れているからなのかも知れないし、もっと単純に俺が彼女の分まで緊張を引き受けているだけなのかも知れない。

 俺達は患者としてここに居る訳ではないし、無論付き添いでもない。俺が再び精神科医として働くための面接を受けに来た訳でもない。俺達は、ある計画を実行するために、今ここに座ってそのときを待っている。


 曲の種探しの次のアイデアは電話相談の相談者の一言から生まれた。

「病院で、慰問って言うんですかね、フルート奏者の人が来てたんですよ」

 連鎖反応のように、俺が前に居た病院にピアノがあったことが思い出された。ロビーと呼ばれる、待ち合いであり会計待ち処方待ちをする場所の、端の方にでん、と置いてあった黒いグランドピアノ。

 これだ。

 あれを弾こう。

 下調べをしたら、仕込みさえちゃんとすれば問題なく決行出来そうだ。

 自分の思い付きときっと待ち受けている結果に夢中になって、早速野音さんに電話を掛ける。自分から彼女に電話をしたのはそれが初めてだったのに、そんなゼロから一のカウントも忘れて、コール音を鳴らした。

「一曲だけ病院のピアノで演奏をするんだ。いきなり行っていきなり弾くとか出来る?」

「全然問題ないわ。でもやるなら数曲は弾きたいわ」

「いや、ゲリラでやるんだよ。だから一曲」

 え、と野音さんが驚く。

「そんなことしていいの?」

「いいようにするのが俺の腕の見せ所だよ。一曲ならいける」

「分かったわ。どんな曲を弾くの?」

「長すぎず、五分くらいかな、知名度があって、悲しくなくて、激しすぎない。かつ、暗譜していて、野音さんが自信を持って自分を表現出来る曲」

「条件が多いわね。でもそれに当てはまるのはドビュッシーの『月の光』、ベートーベン『悲愴』の第二楽章、くらいがパッと出て来るわ。どっちもあんまり難易度は高くないけど聴き映えはかなりするわね」

「じゃあ、俺が好きってことで『月の光』でお願いしてもいい?」

「分かったわ。いつが本番なの?」

 俺はスケジュール帳を念のためチェックする。

「来週の水曜日が第一候補。その次の水曜日でも大丈夫」

「じゃあ、来週ね。五日もあれば十分よ」

「あと、スニーカーとかの走れる靴で来てね」

「どうして?」

「弾いたら走って逃げるからだよ」

「本当に大丈夫なの?」

「信じなさい、俺と俺の手腕を」

 電話を切ると、彼女に計画を伝えたそれだけで、胸が躍っているのが分かった。たったの五日で調整を済ませられると言うことにプロは凄いと思いながら、俺の言葉を信じて動いてくれる彼女に、信頼されているのだと喜びが跳ねた。何としても成功させなくてはならない。

 三日後彼女から電話が、通常の着信として、掛かって来た。やっぱりそんな危険なことは出来ないと言われるのかも知れないと覚悟して電話を取った。

「服装って、ドレスでもいいの?」

「走れれば問題ないよ」

「じゃあドレスにするわ」

 走れるらしい。何より、全くやることに疑いなく準備を進めてくれていることに安堵し喜ぶ反面、プレッシャーが重くなった。

 迎えた水曜日、十二時に最寄り駅に待ち合わせて、病院に入り、決行の十五分前にロビーのピアノの近くの席に並んで座った。


 そして今、俺は早鐘を打つ心臓を絶対に野音さんに悟られないように涼しい顔を作りながら周囲の様子を伺う。

 ロビーには患者やその家族が百人以上は居る。下調べ通りにスタッフは少なく、受け付け関連の人は閉じ込められているので問題ない。守衛が一人だけ立っている。

「ねえ、守衛さん居るわよ」

「大丈夫だから。ピアノに集中して」

 俺は微笑みかける。

「分かったわ。あなたがそう言うなら大丈夫ね。じゃあ、ちょっとこれから集中するから、開始の合図以外では放っておいて貰ってもいい?」

「もちろん」

 渡りに船だ。俺は全体像を把握しながら時計を気にし続ける。秒針が削っているのは未来ではなく俺の精神力のように思える。今のところは闖入者である俺達に気を留めている人は誰もいない。それはそうだ。雑多な人間が混在する場所なのだから。だから選んだのだから。守衛は相変わらず同じところに立っている。

 野音さんは目を瞑って集中している。どんなイメージを描いているのだろう。毎日やっていることで、多分余裕で弾けるような曲であっても、こうやってちゃんと備えると言うのは、これぞプロなのだろう、勝手に誇らしい。でもきっと今野音さんに流れている時間と俺に流れている時間は質も違えば速さも違うのだ。あと二分。たった百二十秒が永遠のように感じる。入って来たときよりもスタッフはさらに減り、と言うか今は居ない。いや、B棟の師長が来た。これはまずい。どうする。中止するか。いや、そのまま通過! コンビニに行くんだな。よし。場面は整った。そして丁度、時間だ。

「野音さん」

 野音は頷いて目を開け、すくっと立ち上がり、ピアノの脇に立つ。空色のドレス。深々と一礼する。どよめくロビー。野音はピアノにつく。

 彼女とピアノ間にだけある、始まりの緊張感。それを全て吸い込んだような、最初の音。

 優しく澄んだ、それでいて繊細さと底辺の力強さを併せ持った音。これだけで彼女の全てを肯定しそうになる。

 二音目、三音目にはロビーの雑音が全て消えた。これだけの人数が居るのに、誰一人言葉を発しないで全身を耳にして野音さんの奏でる音を捉えようと、そして酔いしれようとしている。いや、既に彼女の提供する音を介した甘美な時間にたゆたっている。優しい旋律の中にある、色気、大きく呼吸をするような音の流れ。低音に入れば強さこそ儚さだと知る。音の届く範囲だけ、野音さんの世界が展開されている。後藤田の件以来の彼女の出す音に、雨が降るようにこころの器が満たされてゆくことで、自分がそれを欲していたのだと分かる。

 自分のさっきまでの緊張すら忘れて聞き惚れていたら、あっという間の五分で、野音さんは立ち上がって一礼をする。

 万雷の拍手。と、同時に。

「お前達! 何をやっているんだ!」

 守衛がずんずんと向かって来る。

「こっち!」

 野音さんを先導して、すぐ近くの出口から走って逃げる。

「こら、お前達! 待ちなさい!」

 背後に守衛の声。

 野音さんの手を引く。

 走る。

 走る。敷地の外に出て、さらに走る。

 ドレスの女性を引っ張って走る自分の姿が一瞬浮かんだけど、そんなことより走る。

 大分来た。でもまだもう少し。

「がんばれ!」

「うん!」

 半分隣駅くらいまで走って、ここまで来たら絶対大丈夫だと決めていたポイントの公園に到着する。

 思いっ切り切れている息、肩でする呼吸。野音さんの顔を見る。

 満面の笑み。

「大成功ね!」

 俺も同じ顔になる。

「大成功!」

 右手と右手をガシッと掴み合い、そのままの格好で暫く居たら、二人ともに笑いが込み上げて来て、それは強烈な波になる。それぞれお腹を抱えて涙ちょちょぎらせながら、これでもかって笑う。公園中が二人の笑い声で満たされる。周囲に人が居るとか気付きもしない、ただただ笑う。

 笑いと笑いの間でやっと取れる呼吸を集めて野音さんが、それでも伝えたいのだろう、声を出す。

「やっちゃったわね! ゲリラ演奏」

 応じて俺も、半ば笑い声のまま。

「またの名を、弾き逃げ、だね」

 また笑いの波が来て、「弾き逃げって!」「だってそうじゃん!」声を掛け合いながら笑い転げる。

 笑っている最中は世界がここだけになる。二人で笑っているから、世界は二人で全部。

 笑う。

 まだ笑う。

 散々笑って、やっとそれが落ち着いて来る。まだ笑いの余韻の強いまま。

「弾いてる間、みんなしっかり聞いてくれていたみたい」

「そうだよ。素晴らしい演奏ってこれだよって思った」

「守衛さんも一曲待ってくれたのかな。まさか、聞き惚れて出動が遅れたとか?」

「きっとそうだよ」

 野音は、じ、と俺を見る。

「癖になりそう」

「一人でやっちゃダメだよ。結構じっくり作戦を練ってやったんだから」

「そっか。じゃあ、またいつか、春さん、やってね」

「考えとく」

「でも、春さんと居るようになってから、人生最高の笑いを更新し続けてるわ。弾き逃げなんて考えたこともなかった。視野がグッと広がったような気がする」

「ちょっと、悪い遊びを教えた気分だよ」

 笑いながら言うと、野音は一瞬きょとんとする。

「本当よ! でも素敵な遊び」

「まだまだこれからも素敵な遊びと出会えるよ」

 二人の呼吸が落ち着いて来た。一緒に乱した呼吸を一緒に整えると、どこかお互いの呼吸が混じり合っているような気がする。息が普通に戻ったからと言って今俺達が共有している興奮が醒める訳もなく、その力を借りたのだろう、俺は彼女を誘う。

「これから昼飯食べに行こうよ」

「うん。でも、私が行ったことのないようなところに連れてって」

 男女が二人居たらまずする食事を俺達はまだ共にしてない。でもそのための条件が難題だ。

「それって、高級方向? 世俗方向?」

「高いところに連れてけなんて言わないわ。じゃあ言い方変える。春さんの馴染みのところがいい」

 俺の馴染みは自炊カレーが一番だがそれは今日は切らしている。そうすると、中華料理屋しかない。親父さんに会わせるのか。これから? しかも下手すればシバイヌも居る。さらに野音さんはドレスだ。

「そんなに難しいこと、言った?」

「いや。油っぽくて小汚いから、ドレスが汚れるかもだけど、それでよければ」

「それなら大丈夫よ。走るって言ってたから、捨てるつもりで着て来たの」

「O K、じゃあ、タクシーで行こう。追っ手を振り切るためと、ドレスは目立つから」

 公園からタタタと出て、大通りでタクシーを捕まえる。行き先の御徒町を運転手に告げて、ここまで来れば本当に脱出成功だと胸を撫で下ろす。野音さんには秘密だが、守衛さんには実は十万円握らせていた。元々知り合いで、お金に弱く融通の効く男だったので、彼の面目を保ちつつ見逃せる範囲として一曲の時間を買ったのだ。だから彼は曲が終わってから声を出し、走らずに追っかけて来た。スタッフの数が少なくなり、かつあの場所に立つ守衛が彼一人になる五分間と言うことで、十二時半だった訳だ。とは言え病院という環境はどんな不測の事態が起きるとも限らないので、上手くいくかは賭けだった。そして俺は賭けに勝ったが、守衛も含めてあの時、場に居合わせていた人はむしろ、野音さんの曲を聞けてラッキーだったのだと思う。医療や相談のように、不幸やマイナスをゼロに近付けるような行為とは違う、そう言う生活の中の幸不幸とは別の次元でのゼロをプラスにする彼女の営みが、尊く、少し羨ましい。でも、別次元と言うことは、相談と並行してそう言うことをすることも可能なのかも知れない。

 二人とも窓の外を見ている。話したい気持ちは溢れるほどにあるけど、運転手の前では話せない。

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