書物屋お了

上月くるを

第1話 小林一茶の場合

 目 次

 

 プロローグ

第1話 小林一茶の場合

第2話 葛飾北斎の場合

第3話 鈴木牧之の場合

 エピローグ

 

 

 

 プロローグ

 

 お了が経営する書物屋「信濃屋」は、浅草の伝法院通りにあった。

 書肆、書林、書房、物之本屋、書物屋など思い思いの看板を掲げて本を扱う店は、従来、京や大坂に圧倒的に多かったが、享保六年(一七二一)、八代将軍吉宗が大岡越前守忠相(ただすけ)に命じて「諸商人諸職人組合仲間相定候付」を発布し、本のみならず各種業界の組織化を奨励して以来、江戸でも講(組合)に加盟して新刊古書を商う店が急速に増えた。

 そのうちで「信濃屋」は中堅どころといったところ。

 近ごろ雨後の筍のごとく現われた大衆本専門の地本(じほん)問屋(といや)、浄瑠璃本屋、草双紙屋、草紙屋のたぐいとは明確に一線を画す店構えや品揃えと、それに伴う客質のよさが、

「商いは儲かればいいってもんじゃないんだよ。かりにも書物屋の看板を掲げるからには、人様のお役に立ち、さらには江戸の文化を牽引するぐらいの気構えがなけりゃあねえ」

 お了のひそかに誇りとするところである。

 通りから店を見ると、向かって左に出し箱(看板)が置かれ、肉太の字で、

 ――信濃屋。

 と大書されており、その下に小さめに「儒書 仏書 和本 唐本」とある。

 たとえば『詩作指南』『四書大全説約合参正解』『唐詩選掌(しょう)故(こ)』『連珠(れんじゅ)詩格』『西谷(にしだに)名目(みょうもく)』など、寺子屋でひととおりの読み書きを習っただけの客には手を出しにくい書物がそれだが、二階の蔵にこうした稀少な本を揃えておくと、さりげなく店格が上がるのだ。

 出し箱と反対側、向かって右手に設けられた小窓には、通行人が紙屑を投げ入れていく。たとえ「信濃屋」の顧客でなくても、反故紙は余さず再生紙として使用するのが、松平定信が音頭取りとなった寛政の改革以来の習わしになっている。

 売れ筋の書名を目立たせるための掛看板も大事で、目下の売り出し中は『江戸名所図会』。地方へのお土産として人気が高い。

 店の出入り口付近には手頃な価格の本を並べておくが、まちがっても地本問屋のように、斜めにした戸板に煽情的な表紙をずらりと並べて客の興味をそそる「出し本」のような品のない真似はしない。

 もちろん、仮名草子、浮世草子、黄表紙(きびょうし)、人情本、洒落本、読本(よみほん)などの町版(まちばん)(書物屋が出版した本)や、武(ぶ)鑑(かん)(武家の人名録)、切絵図(住宅地図)、細見(さいけん)(遊郭案内)、歌舞伎役者の評判記、まして占い、暦、おみくじ、呪(まじな)いなど、書物とは名づけがたいものはもとより、もっといかがわしいワジルシ(艶本)など置こうはずもない。

「うちなんかの品揃えはあんた、そう大したもんじゃないよ。『書籍(しょじょ)目録(もくろく)』(新刊書総合目録)に載っている数千点のうち二割から三割ってえところかね。ま、その分、絶版品切の古書や私家版、写本(印刷されていない本)など、このあたしの目利きで補ってはいるがねえ」

 いささかの自慢もかいま見えるお了の口癖である。

 奥まった場所には帳面類を吊るし、そこから先へは客を入れない暗黙の帳場の囲いとし、店主のお了は金庫の番を兼ねて、たいていそこに座っている。

 一般客の応接は手代や番頭が行うので、ひと頃まで浅草一の器量よしと評判だったお了は、愛嬌のある片えくぼのおかげで若く見える童顔をほころぼせるのが仕事のようなもの。めったにないが、全数百巻もある『大般若経』を一括で購入してくれるなど、とっておきの上客の場合は丁重に二階の座敷に通し、酒や料理で女主人自らがもてなす。

 もっとも、こうした上客は自ら金を払ったり、購入した本を持ち帰るような下賤なことはしない。あとでこちらの番頭が届けるか、先方の使用人が取りに来るかした書物の集金に、後日あらためて出向くなど、通常の商いよりひと手間もふた手間も手数が多くかかるが、

「なあに、その分お代金に上乗せさせてもらうのさ」

 お了は澄ましている。

 そして、これはお了としてはいささか不本意なのだが、となりには控え目に「薬」の看板も掲げている。

 どういうわけか、書物を買いに来た客はついでに薬も購入するのが古くからの習わしになっており、とくに季節の変わり目に体調をくずしがちの女性客に漢方を処方した「血巡散」がよく売れた。正直なところ、薬の売上も店の経営にかなり貢献してくれているから文句は言えない。

 本業の話にもどると、「信濃屋」に限らず書物屋では、出版(版元)から問屋(取次)、小売、古書まで書物に関する商いを一手に行っている。小売は店売だけでなく、風呂敷に入れた本を背負って家庭を訪問販売する行商や貸本屋をつかい、浅草はもちろん、大川(隅田川)を渡った本所界隈にまで得意客を広げていた。




 第1話 小林一茶の場合

 

 

 浅草寺の五重塔の下の大銀杏が、まばゆいばかりの金色に染まっている。

 ただいま現在は、ただ一枚の葉も散らさず、完全無欠な静寂を保っている。

 だが、気まぐれな風がひと吹きすれば、止め処のない落下が始まるだろう。

 ――なにもかも変わっていく。なにひとつ変わらないものはないのだ。

 石畳に湿った草履の音を立てながら、お了はいつになく愁いを深めていた。

 重い足取りで店にもどると、目ざとく見つけた番頭の茂兵衛が声をかけてくる。

「おや、お早いお帰りで。いかがでしたか? 世利会(せりかい・古書商いの会)のほうは」

 気働きがいいというか目端が利くというか、こういうところがお了の癇に障る。

「べつに。いつものとおりだったよ」

 素っ気なく言い捨てておいて、着物の裾を蹴り上げながら帳場へ上がった。

 ――べつに。

 どころか、本当のところは腹が立って仕方がなかったのだ。

 今日の寄り合いでは、新しい世話役(代表)を選ぶことになっていた。

 べつに……それこそべつに、世話役なんぞになりたかったわけではない。

 わけではないが、店の家格や業績、それに主の五十二歳という年齢からして、

 ――今年こそ信濃屋の番。

 そう心づもりし、潔く引き受けようと覚悟を決めて出かけて行ったのだ。

 ところが、世利親(各本屋の店主)の面子が揃うやいなや、ろくに討議もしないうちに、お了からすれば息子のような若い男が新たな世話役に選出されていた。

 信濃屋よりずっと格下。

 扱っている本の質も低いし、商い歴も浅い、大川向こうの地本問屋の二代目だ。

 思わせぶりな視線の絡み合い。

 漏れ聞こえてくる含み笑い。

 あちこちで始まる咳払い。

 異様な雰囲気は、事前に仲間内で下話がなされていた事実を物語っていた。

 二十人余りの世利親の中の、大年増とはいえ紅一点、お了ひとりが置いてけぼりだった。

「どなたさんもご異論はございませんね?」

 現世話役の腰巾着と言われる中年男のばかっ丁寧な念押しに、

「もちろん、ようござんすとも」

 商売で鍛えられたピッカピカの笑顔で応じながら、

 ――こんな屈辱を受けるのも、こちらが女で、しかも田舎出だからだ。

 お了は内心で血が出るほど強く唇を噛みしめていた。

 理不尽きわまりない針のむしろに我慢がならず、急な所用を口実に、途中で抜け出てきたことを、店の者、とりわけ番頭の茂兵衛には知られたくなかった。

「女将さんの思い過ごしですよ。もしかりにそうだったとしても、『世間さまへの聞こえがいいだけで一銭の得にもならない世話役なんぞまっぴらごめん、こっちのほうから願い下げですよ』と、お得意の啖呵を切ってやればよかったんですよ」

 ゆで卵のようにのっぺりした顔で、へらっと言うにちがいない。

 長年の相棒でありながら、茂兵衛という男の正体はいまひとつわからなかった。

 ゆくえ知れずの夫がまだ元気に店を切り盛りしていたころからの最古参だから、つい遠慮して小言も言えずにいるが、とくに近ごろは、賭場や岡場所にひんぱんに出入りしているようだし、高利貸とのわるいうわさも耳に入ってくる。

 底光りする細い目の底で、なにを考えているか知れたものではない。

 ――いつ寝首をかかれるか。

 お了は半ば本気で思っている。

 そんなお了の気持ちを知ってか知らずか、いつもの位置に薄い膝を揃えて座った茂兵衛は、商売物の紙のようにぺらぺらと軽い口調で顧客の相手をしていた。


 

 

 

 日が西に傾くと風が立ち、藍木綿の一枚布の日覆いをかすかに撓ませた。

 ――あたしが帰ったあと、あの連中は茶店へでも繰り出したにちがいない。

 奥歯を噛んだとき、ふらりと店に入ってきたのは中肉中背の中年男だった。

「おや、一茶ちゃん! お帰り」

 ついいましがたの鬱屈を忘れたかのように、お了は屈託のない声をあげる。

「お内儀さん、お久しぶりです」

 先年の大火で亭主の清吉が行方知れずになってから、早や五年が経過していた。

 なのに、

 ――お内儀さん。

 いまだに主婦のように呼ばれるのは合点がゆかない。

 本来なら、もっとも身近にいる番頭の茂兵衛あたりが、

「みんな、そろそろ旦那さまとお呼びしようじゃないか」

 率先して提唱してくれてもよさそうなものだが、日頃は人一倍気がまわる男が、この点に限っては意地わるく知らんぷりを決めこんでいるので、店の者も外の者も右へ倣っているようだ。

「どうだった? 田舎は」

「ええ、まあ……」

「その様子では、首尾は上々とはいかなかったようだね」

「はい、ご拝察のとおり、なかなか難儀なことでした」

 男は干からびた大豆のような顔をしかめた。

「またいやな思いをしてきたんだね。ほら、なんてったっけ、あんたの句」

 

 ――故郷や寄るもさはるも茨の花

 

 いまから六年前、たまたま帰省中に老父を病気で亡くした一茶は、たったひとりの身内を失った深い悲しみのうちに葬儀を済ませると、末期の床で父が遺した遺言にしたがい、九歳年下の弟の専六(反りの合わない継母・はつの子)に、遺産相続の分担要求を申し出た。

 行き倒れや行方知らずになった漂泊俳人の先輩たちの末路を見てきた一茶としては、ここ一番、一歩も譲れない要求だったが、案の定というべきか、弟と継母は、いきなり土足で座敷に侵入されたように憤激し、一茶の非を近隣に触れ回った。


 ――長男のくせに勝手に家を出て行き(事実と異なる)、何十年も他郷に遊んで故郷を顧みなかったのに、いまになって財産分与とは厚かましいにもほどがある。

 

 当然ながら、村中がこぞって弟の側についた。

 なぜなら、跡取りの専六の怒りはすなわち自分たちのものであったから。

 かたや、コツコツと堅実一辺倒で父祖伝来の田畑や墓を守ってきた百姓。

 かたや、俳諧という手慰みで、チャラチャラ身過ぎ世過ぎをしてきた男。

 堅気と遊び人。

 はなから人間の出来がちがうのだ。

「あんな野郎にビタ一文でも分けてやるこたあねえ」

「まったくだ。逆にこっちがもらいてえくれえだよ」

「そんなことを許しちゃあ、家や墓を守ってきたおれたちの苦労が報われねえ」

 いまだに無筆の少なくない村人の視線には、ひとかけらの遠慮もなかった。

 

 ――秋寒むや行く先々は人の家

 

 地方の素封家に寄宿させてもらい、土地の粋人を集めて句座を開き、本来は尊称でありながら憐れみと侮蔑の証しでもある「宗匠」と呼ばれる細い綱を渡ってきた一茶である。

 多少のことには動じない図太い神経で、平気な顔を装ってきたつもりだった。

 だが、俳句といういたって繊細な感覚を求められる世界の崖っぷちを歩く身にとって、それは相反する営み以外のなにものでもなかったことは言うまでもない。

 傷つかないふりをして、人一倍深く傷ついて生きてきたのだ。

 老境を目前に、どんな悪口を浴びせられようとも、どうしても獲得しておかねばならない父の遺産だった。


 ――そんなわけで交渉は決裂し、逃げるようにして江戸へ帰ったものの、やはりこのまま引っ込んではいられないから、重い腰をあげ、再交渉のために帰省する。


 お了は江戸を発つ前の一茶からそう聞かされていた。

 なけなしの金をはたいてのやむを得ない帰省である。

 旅籠に泊まる路銀など、どこをどう押しても出てこないだろう。

 いくら生まれ育った家とはいえ、熾烈な争いの真っ最中の相手と、同じ屋根の下に起居するのはどういうものか……と案じていたのだが、やっぱり。

 「かわいそうに、またしても手ひどい甚振りを受けてきたんだね」

 お了は歳のわりに若々しく意思的な黒い瞳に力をこめた。

 ――とっとと消え失せろ。

 ――二度と帰ってくるな。

 有言無言の非難にまみれ、それゆえに、いっそう肩をそびやかせて故郷をあとにしてきた一茶も、姉とも慕うお了の前では、少年のように素直になれるらしい。

 色褪せた藍木綿の肩をふるわせると、浅黒い顔にだらだらと涙をこぼし始めた。

 ――くくくく。

 声を忍ばせた嗚咽はやがて、

 ――うわあん、うわあん。

 子どものような手放しに変わった。

 番頭や手代や客が奇異の目を向けてきたが、お了は黙って泣かせておいた。

 裸一貫で世を渡ってきた男の悲しみを、すべて吐き出させてやりたかった。

 相手が話したくなるまでなにも聞かない。

 途中で口をはさまず、ただひたすら聞く。

 差し出がましいことはいっさい言わない。

 そんなお了が承知している一茶の境涯は、断片的で曖昧模糊としていた。

 おそらく、一茶本人も認めたくない日かげの季節を重ねてきたのだろう。

 けれども、それがどうしたというのだろう。

 人にはだれしも秘しておきたい過去がある。

 ――げんに、このあたしにしてからが……。

 ゆえに、お了は六歳年下の同郷の俳人を丸ごと受け入れていた。

 一茶だけではない。

 商売上の顧客ではない、ただ店主のお了と話すためだけに集まってくる(番頭の茂兵衛にはいやな顔をされるが)もの書きや画家、芸能で生きる人たちなど、世間から爪弾きされがちな少数派のために、お了は信濃屋を解放していた。


「気が済んだかい? さあ、喉を潤しなよ」

 泣くだけ泣いた一茶の前に、お了は鉄瓶の湯冷ましを出してやる。

 分厚い湯飲みを両手で押しいただくようにした一茶は、やがて、

「お内儀さん、今日はひとつ、おいらの話を聞いてやってくれますか?」

 意を決したように口調をあらためた。

「いいともさ。好きなだけお話しよ」

 お了は餅のように白い頬を、ゆったりとゆるめた。


  

  

 小林一茶は宝暦十三年(一七六三)五月五日、信濃国は北国街道柏原宿の中農の家に、父・弥五兵衛、母・くにの長男として生まれた。

 本名は小林弥太郎。家族としては、ほかに祖母のかながいた。

 小林家は戦国時代の末期、近隣あるいは越後から移住してきた旧家で、兄弟間で遺産を均分するうちに親族が増え、最有力の中村家に次いで村の重職を占める名家になっていた。

 一茶の曽祖父・弥兵衛は小林一族の本家の分家だった。

 弥兵衛が亡くなると、息子の弥五右衛門とその弟の弥五兵衛(一茶の祖父)は、従来の慣習にしたがって耕地を均等に分割し、弟の弥五兵衛は分家となった。

 その弥五兵衛が早逝すると、幼い弥五兵衛(同名・一茶の父)が跡を継いだ。

 本家の叔父・弥五右衛門の後見を受けて成人した弥五兵衛は、弥五右衛門叔父の仲介により、村役人をつとめてきた有力者・宮沢氏のむすめ・くにと結婚した。

 後年、小林一族の大本の本家は絶家となったため、弥五兵衛の長男・弥五右衛門の家系が本家となり、一茶が成人してからの家長は弥市がつとめていた。

 明和二年(一七六五)八月十七日、一茶が三歳のとき生母のくにが亡くなった。

 以後、一茶は不憫がる祖母・かなの手でたいせつに育てられた。

 五年後、一茶が八歳のとき、近隣の村から継母・はつが嫁いで来た。

 それからさらに二年後、一茶が十歳のときに、弟の専六が誕生した。

 先妻の子である一茶に対する継母・はつの言動は、お世辞にも親切とは言いがたかったが、なにかにつけ辛く当たられがちな一茶を、祖母のかなが庇ってくれた。

 だが、一茶が十四歳のとき、唯一の頼りだった祖母が亡くなると、継母の仕打ちはいっそうはげしくなり、我慢の限界に達した一茶は、重篤な病の床に伏した。

 いたって気性の激しい妻。

 頑迷な沈黙で応ずる息子。

 険悪な関係を案じた父は、苦慮の末、一茶を江戸へ奉公に出すことにした。

「厄介おじ」と呼ばれた貧農の次男三男坊ならいざ知らず、食べるに困るわけでもない中の上の農家の、しかも長男を手放すのは、村内でも異例中の異例だったが、一触即発の事態に至ったいまは、もはや人の目など気にしていられなかった。

 ――しばらく時間を置けば、互いに冷静になるだろう。

 気質が荒々しい後妻に気兼ねしながら、先妻の忘れ形見の弥太郎(一茶)をこよなく愛しむ弥五兵衛としては、無力な自分を責めながらの苦渋の決断だった。

 

 以下は、一茶の語りに任せよう。

  

 

 

 村を出たのは安永六年(一七七七)、十五歳の春でした。

 よほどの放蕩者でない限り跡取りと決まっている長男を、江戸へ奉公に出す。

 父が前代未聞の決断に至った経緯を、かいつまんでお話させていただきます。


 こんなことを申すといささか自慢めきますが、おいらの生家は東西の文化や物が行き交う北国街道の要と言われる柏原宿の中でも、とくべつな場所にありました。

 ――伝馬土手。

 お内儀さんには釈迦に説法かもしれませんが、辛抱してお聞きくださいまし。


 佐渡金山で掘り出された金銀の運搬やご朱印状の発送、加賀百万石さまをはじめとするお大名さま方が参勤交代をなさるときの人や馬の手配など、重い賦役を担うその代償として地子(地代)をご免除いただく家、それが伝馬でございます。

 その伝馬を仰せつかる十数軒を取り囲むように、宿場の中心にどっしり築かれたのが伝馬土手でございまして、新しく外部から参入して来た者は、たとえどんなに財力があろうとも、土手の内に居を構えることは許されません。

 おいらのおとっつあんは村でも評判の実直な働き者でしたから、伝馬をつとめる百姓のかたわら、飼い馬を使って街道を往来する運送業も営んでおりました。

 さようでございますね、江戸で申せば、表通りの大店とまではまいりませんが、かといって、どぶ臭い裏小路のしがない裏店というわけでもない、いってみれば、大店の暖簾の両側に軒を並べる、中堅どころのお店といったところでしょうか。


 ところで、お内儀さん。

 地方からの出稼ぎはゆえなく蔑まれ、とりわけ数が多い信濃や奥羽の出身者は、

 ――椋鳥。

 と揶揄されますが、なに、そういう連中にしても、元は出稼ぎ人でございます。

 これまたお内儀さんに申し上げるのは口幅ったいですが、ご堪忍くださいまし。


 いまを去る二百余年前、策略家の秀吉に命じられた東照大権現さま(家康)が、茫々と芒が生い茂る武蔵国の低湿地の平山城にすぎなかった千代田城(江戸城)に入り、利根川や神田川を治め、海を埋め立てて巨大な城下を築かれた。

 以来、江戸に全国各地から出稼ぎ人が押し寄せるようになったのですから、生え抜きの武蔵っ子(むろん、江戸っ子ではなく)は、ほんのひと握りのはず。

 ――ちゃきちゃきの江戸っ子。

 なんぞ、おいらに言わせれば、ちゃんちゃらおかしいわけでございます。

 ちなみに、おいらが江戸へ発った直後、人口増に音を上げたご公儀から、

 ――向後、地方の百姓はみだりに江戸へ奉公に出て来てはならぬ。 

 とのお達しがあったようですが、おいらにはあずかり知らぬことでして。


 話があちこちして恐縮ですが、根無し草の多い江戸では想像もつかないほど落ち着いた生家の暮らしぶりについては、おおかたご理解いただけたことと思います。


 で、奉公の話にもどりますと――


 いくら子どもでも、おとっつあんの苦悶は手に取るようにわかりました。なんとか丸くおさめようと、あれこれ骨を折ってくれたこともよく承知しております。

 けれども、そこはそれ、なさぬ仲のむずかしさでしょうか。

 いったん縺れた糸を解すことは容易ではなかったようです。

 まあ、あれでございます。

 この歳になってみれば、おいらにも人情の機微というものが多少はわかります。

 歌舞伎では勧善懲悪を謳いますが、だれが善人でだれが悪人ということもない。

 ――ひとりの人間の中に、やさしい部分と冷酷な部分が同居している。

 それが人間というものの、うそ偽りのないすがたでございましょう。


 新しいおっかさんは、たしかに気性の荒っぽい人でした。

 それはもう、稀に見ると言いきってしまっていいほどの。

 でも、継母は継母なりに、志を抱いて嫁いできたのではないでしょうか。

 妻を亡くした男と、その幼い忘れ形見のために、よい後添いになろうと。

 しかし、現実がそれを許さなかったのかもしれません。

 ――死に別れには添うな。

 格言どおり、おとっつあんは早逝したおっかさんを忘れられなかったでしょう。

 お嬢さん育ちの嫁の気質を気に入っていた祖母にしても同じだったと思います。

 新しい構成による新しい暮らしが始まっても、相変わらず朝な夕な仏壇の亡き人に手を合わせる家風の中で、継母は継母なりに、自分のかか座をつくることに懸命だったのではないでしょうか。

 一日も早くとの勇み足が、いささか出しゃばりに映ったとしても……。


 生母の面影も知らぬまま物心ついたおいらは、不憫がる祖母に甘やかされて大甘のばあさん子になっており、自分から進んで継母に馴染もうとはしませんでした。

 ――弥太郎ちゃん、おいで。

 両手を広げて呼びかけても、暗い目をして祖母の背に隠れてばかりのおいらは、継母からすれば、さぞかし可愛げのない子どもだったことでしょう。

「弥太郎のおっかさんはなあ、そりゃあ気立てのいい、やさしい娘だったが、今度の嫁のがさつさ加減ときたら話にもならぬ。どう見てもうちの家風には合わぬが、当のおとっつあんがあのとおりなのが、なんとも歯がゆいわい。のう、弥太郎や」

 幼いおいらを膝にのせ、低い声でつぶやきつづけた祖母の呪詛の言葉。

 あるいはあれも、生来のおいらの偏屈に拍車をかけたかもしれません。



 

 それぞれの思惑を秘めた一家五人のうち、だれかがちょっと押したり引いたりしたらたちまち崩れ去る。そんな危うい生活がまがりなりにも営まれていきました。


 その均衡がつと崩れたのは、おいらが十四歳の春――

 母が逝ってから十年余り、一心に面倒を見てくれた祖母がみまかったのです。

 家のために努めても努めても認めてもらえず、それどころか癇性だの性悪だのと言われつづけ、いつまでも先妻と比較される継母の忍耐も限界だったのでしょう。

 祖母という大きな後ろ盾を失った身からすれば、まるで手ぐすね引いてそのときを待っていたかのように、継母からおいらへの露骨な甚振りが始まりました。

「おお、やだやだ。そのぐちゃぐちゃした物の食い方、どうにかならんのかねえ。こっちの飯まで不味くなるんだよ」

「掛け布団は四隅をきちんと合わせて畳むんだって、何度言わせたらわかるのさ。乱れていたら気持ちがわるいだろう」

「掛け湯もせずに風呂に飛びこむんじゃないよ。湯が汚れて、あとの者が迷惑するだろうが」

 一から十まで小うるさくネチネチと言われ、

「こんな行儀知らずに育てちまった、かかさや婆さの顔が見てみたいもんだよ」

 最後には決まって嫌味を言われるのも堪りませんでした。


 何事もきっちり完璧に片付けねば気の済まない継母(厄介なことに、人にもそれを求めずにいられないのです)と、祖母に甘やかされて育ったせいか、いえいえ、そうではなく、おそらく持って生まれた気質だったのでしょう、根っからいい加減にできているおいらでは、もともとの相性がわるかったのです。

 吹きつける雨風から身を挺して守ってくれた祖母を失い丸裸になったおいらに、小言だけでなく、手や足や物が、ときには石まで飛んでくるようになりました。

 そのおいらはといえば、どんなに折檻されても泣きもあやまりもしませんでしたから、子どもらしくない頑迷さが、継母の怒りをさらに煽る、そんな具合でした。

 おとっつあんが家にいるときは、まだいいのです。

 野良や運送稼ぎに出かけるのを見計らうようにして継母の甚振りが始まります。チクチクした棘のような小言に端を発し、やがて叩く、蹴る。虫の居所がわるく、痣ができるほど打擲するときは、着物に隠れる部分を周到に狙ってきます。

 継母は、継母自身にも止めようがない闇にずぶずぶと浸かっているようでした。寝ても覚めてもひとつ屋根の下で、陰湿きわまりない諍いが繰り広げられました。

 

 そんなおいらを、さらに悩ませたのが、腹違いの弟の専六です。

 わずか五つや六つの子に罪のあろうはずもございません。ですが、子どもは大人の鏡と申します。叱られたり詰られたり叩かれたり蹴られたりしっぱなしで、ただの一度として褒められたことも労わられたこともない、歳の離れた兄を、いつしか虫けらのように見下すようになっていったとしても無理はなかったでしょう。

「兄やんの役立たず」

 どうかすると弟は、飯茶碗ほどの小さな顔をおいらの前に突き出し、分厚い唇をひん曲げて、勝ち誇ったように言い放つのです。その憎々しさといったら! 

 ひとりも味方のいないおいらにとって、継母と弟は一対の敵でした。


 窮鼠のように追い詰められたおいらは、とうとう体調を崩してしまいました。

 呼吸の仕方を忘れてしまったかのように胸が苦しくなり、そのうえ激しい動悸がして、立っても座っても寝てもいられません。まさに七転八倒の苦しみでした。

 おとっつあんが心配して村の医者を呼んでくれましたが、

「さて、どうしたものか、脈にも心の臓にも障りはないようじゃ」

 首をかしげるばかりで、気休め程度の薬を処方して早々に帰って行きました。

 飯ばかりか水も喉を通らず、一時は骨と皮ばかりに衰弱してしまったのですが、床についたばかりに極端な我慢を強いられない時間がなによりの薬になったのでしょう、少しずつ快方に向かってきていたおいらの枕元で、ある夜、おとっつあんが遠慮がちに言いました。

「弥太郎、すまねえがおまえ、しばらく江戸へ奉公に行ってくれねえか」

 ギョッとはしましたが、どこか諦めていたのでしょう、さほど驚きはしませんでした。薄い布団の汚れた襟もとに顎を埋め、おいらは黙ってうなずきました。

 そして、つとめて淡々と思いました。

 ――おとっつあんはおいらを見捨てるつもりなんだ。おいらに引導をわたして、継母と弟と実の親子三人、水入らずで暮らすつもりなんだ。

 もしや涙がこぼれたりせぬかと危ぶみましたが、妙に清々した気持ちでした。

 朝な夕なの地獄の責め苦から逃れられるなら、江戸へだってどこへだって行ってやる。この家より居心地のわるいところなんぞ、そうそうあるものではあるまい。

 そう思えばむしろ、おいらの気持ちは久しぶりに解き放たれる思いでした。

 なんの因果か、家族の邪魔になる星の下に生まれついたおいらがいなくなれば、おとっつあんも新しいおっかさんも弟の専六も、よその家のように笑って暮らせるだろう。それならそれでいい、おいらはひとりで生きていってやる。

 うわさに聞く華やかな江戸というまちに、本当は鬼が棲むのか邪が棲むのか知りませんでしたが、なあに、住めば都という。行きさえすればなんとかなるだろう。

 雪兎のように白々とした気持ちで、煤けた天井を見つめていました。



 

 おとっつあんが村の衆を通じて紹介してもらった最初の奉公先は、谷中の書家の家でしたが、やれ庭掃除だ、薪割りだ、奥さまやお嬢さまのお遣いだと、朝から晩まで休みなくこき使われるのがいやで、ものの一か月もしないうちに逃げ出しちまいました。

 おとっつあんの義理が立たなくなることなど、これっぽっちも考えやしません。だれの世話にもならず、てめえひとりの力で生きているつもりだったんですから、そのあたりは、てんで子どもだったんですね。

 張り紙を見て奉公した魚屋は、手や顔が鱗だらけになるのがいや、材木問屋は指に棘が刺さる重労働が辛い、古着屋は湿った脂くささに我慢がならない、下駄屋や瓦職人は兄弟子たちの新米いびりに音を上げる……といった具合で、ただの一軒として長続きしませんでした。


 それからはわが身ひとつを食わせるための綱渡りがつづきました。

 雑穀問屋、麦飯屋、煮豆屋、呉服屋、足袋屋、袋物屋、建具屋、手間大工、鳶や左官の見習い、棒手振りの蜆売り、時節ものの絵馬売り、冷水売り、暦売り、細見売り、大道芸の見習いから焚き木集め、馬糞拾い、とうとう最後には落ちるところまで落ちて物乞いもどきまで、それこそ手当たり次第でした。

 ――年寄り子は三文安いとはよく言ったもんさ。

 野良仕事にしても家の手伝いにしても、きちんと最後までやり遂げたことがないおいらに柏原の継母が投げつけたように、結局はおいらという半人前の男の辛抱が足りなかったのでしょうね。


 絵に描いたようなその日暮らしで、故郷のことなど思い出すひまもありませんでしたが、それでも、ひしゃげた長屋の軒先で雨宿りしているときなど、ふと、

「水や食い物に気をつけろ。生き馬の目を抜くとはいえ、わるい人ばかりじゃあるめえ。せいぜい愛想よくして、みなさんに可愛がってもらうんだぞ。落ち着いたら一日も早く帰って元気な顔を見せておくれ。いいな、弥太郎」

 くどくど念を押すおとっつあんの掠れ声がよみがえることもありました。柏原のとなりの牟礼宿まで送ってくれたとき、おとっつあんの頬には、だらだらと止め処なく光るものが伝っていました。父親が泣くのをはじめて見ました。

 けれども、だからといって、里心がついたわけではありません。

 幼いころからの倣い性で捩れに捩れたおいらの目には、邪魔者がいなくなった家の囲炉裏端の様子がはっきりと見えていました。本来なら、どっかりとそこにいてしかるべき長男のおいらを、あいつらは、おとっつあんを含めたあいつらは、無情にも追い出しにかかったのです。 

 おいらにとっての故郷は懐かしいものではありませんでした。むしろ、どす黒い恨みのかたまりであり、いつか見返してやる憎悪の対象でしかありませんでした。


 それはともかく、正直なところ、

 ――こんなはずではなかった。

 世間知らずのおいらの実感でした。

 故郷ではだれかれのせいにして済ませていたことが、江戸ではことごとくてめえに返ってまいります。空きっ腹を抱え当て所なくうろつかなければならないのも、野良犬と一緒に荒れ寺の縁の下で寝る羽目に陥るのも、とことん食い詰めて、路傍の筵で憐みを乞わなければならないのも、なにもかもてめえひとりの所業のなせること。どん底に落ちた人間の惨めさ加減を骨の髄まで思い知らされました。

 いやあ、あのころのおいらをお内儀さんに見られなくて、ほんとによかった。


 でも、お内儀さん、そう笑わずに聞いてやっておくんなさい。まさかと思われるでしょうが、そんなおいらにも慕い慕われるひとができたんでございますよ。

 おいら、ごらんのとおりの風采ですから、女には縁がないものと諦めていたんですが、銭のあるときに行く一膳飯屋に、ちょっと感じのいい女中がおりましてね。

 ――お夏。

 それがそのむすめの名で、房総出身、おいらより三つ下の、まだおぼこでした。

 そのお夏ちゃんがどういうものか妙においらを気にかけてくれましてね、場違いなおいらがおずおずと暖簾をくぐると、目ざとく見つけて急須の茶葉を入れ替えてくれたり、内緒で新香をひとかけ、おまけしてくれたりするんです。

 いえいえ、とりわけ別嬪とかなんとかいうんじゃあないんですが、まめまめしく客の注文を聞いたり、赤い鼻緒の下駄ばきで丸盆にのせた飯を懸命に運んだりする所作のひとつひとつが、いかにも子ども子どもした初々しさでしてね。

 とりわけ、おいらの席の横を通るときは、ぼってりしたまぶたの縁をぽっと薄紅に染めてはにかむ、それこそ咲きぞめの桃の花のように可憐なむすめでしたよ。

 いやあ、喉が渇きますなあ。こういう話は、自分で言いながら照れますねえ。


 でも、ある日を境に、ぷっつりすがたが見えなくなってしまったのです。親しくしていた女中仲間にかげで訊くと、労咳を患い実家へ帰されたということでした。

 どれほどおいらが気落ちしたか、お察しいただけますか、お内儀さん。

 取り立てて約束したわけではありませんが、

 ――ゆくゆくはお夏ちゃんと所帯を持とう。

 ひそかにそんな夢まで見ていたのですから。


 天明二年(一七八二)六月二日、おいらが二十歳を迎えたばかりの初夏、房総の生家でお夏ちゃんがひっそり息を引き取ったことを、だいぶあとで知りました。

 そのとき以来、お夏ちゃんはおいらの胸の中に生きていてくれます。ええ、いま現在も。そして、ことあるごとに一緒に笑ったり泣いたりしてくれています。 

 こんな戯言、白髪に歯欠けの中年やもめ男の言うことではないことはとくと承知しておりますが、お内儀さんならわかってくださいますよね、おいらの気持ち。

 そうそう、たしか一昨年でしたか、房総方面へ俳諧の旅をしたとき、お夏ちゃんの生まれ育った浦賀は専福寺の「香誉夏月寿信女」の墓に詣で、お夏ちゃんが好きだった真っ赤な虞美人草の花を手向けてまいりました。

 まあ、あの当時の懐かしい思い出といえば、それくらいなものです。

 

 

 さて、いよいよ俳諧との関わりの発端をお話することになりますが、恥を忍んで申せば、これまた人様に堂々とはお話できないような事情がございまして……。

 ――三笠付(みかさづけ)。

 ざっくり申せば俳諧博打でございます。

 前もって提示された上五に中七、下五をつづけ、五文とか十文の付け銭を添えて投句する。互選で順位が決まり、運よく最高点の勝句を獲得すると、おいらごときには滅多にお目にかかれない一両、二両といった賞金をせしめることができる。

 すれっからしの(人のことは言えませんが)日雇い仲間に、

「おもしれえとこがあるんだよ。たまげるなよ、遊んで稼げるんだぜ」

 魚を釣るような目で誘われたおいらの気持ちがふっと動いたのは、幼いころから故郷の柏原で俳諧を聞きかじっていたからだったかもしれません。


 ありていに申せば、こういった次第でございます。

 北信濃を通る北国街道には、北から野尻、柏原、古間の三宿が並んでいますが、おかしなもので、三つの宿場にはそれぞれの色が明確につけられておりました。

 北の野尻は商人が草鞋を脱ぐところ、南の古間は渡世人のたまり場、その真ん中に位置する柏原は、全国各地からの文人墨客が足を止める宿場という具合です。

 ですから、柏原に諸国行脚の俳諧師が立ち寄りますと、

 ――さあさあ、ようこそ。

 とばかりに大歓迎して、本陣の中村家に泊まってもらいます。 

 宿場の子どもたちに寺子屋も開いていた中村家では、主人自らが長逗留を勧め、東西文化の話を聞いたり、近隣の風流人を集めて句会を開いたりするのです。

 おいらが江戸へ出て来る二年ほど前も、長月庵若翁という俳諧師が滞留しておりまして、たびたび句会を開いたり、歌仙を巻いたりしたことを覚えています。

 おいらのおとっつあんも連衆(れんじゅ)に誘われたようで、夕方、野良仕事を早めに切りあげ、小ざっぱりとした身なりで、いそいそと出かけて行きました。

 おいら自身は俳諧を見たことも聞いたこともありませんでしたが、おとっつあんや朋輩衆の様子から、百姓や運送の賃稼ぎとはまったく異質の娑婆があることを、門前の小僧的になんとなくわかっていたのだと思います。


 そんな下地とも言えないような下地がありましたので、

 ――どれ、三笠付とはどんなものか、ことのついでに見ておいてやろう。

 ぐらいの軽い気持ちで賭場を覗いてみたのです。

 そうしますと、驚いたのなんのって。

 おいらとしてはとくだんの苦労もせず、何気なくさらっと、もっと言っちまえば適当におちゃらけて詠んだ句(もどき)に、どんどん点が入るではありませんか。

 そのおもしろさに釣られて、最初に誘ったやつが呆れるほどせっせと足を運び、はじめて最高点の勝句に入ったときのうれしさといったらなかったですね。

 集まりの日時や場所は書き物にせずに口から口へと伝え、賭場では声が外へ漏れないよう用心し合うのが暗黙の約束になっていることからも知れるとおり、三笠付は元禄の大むかしから天下のご法度です。見つかったら手がうしろに回ることは、おいらも承知していました。

 ですが、お内儀さん。裏小路に吹き寄せられた濡れ落葉みてえだったおいらが、ほんの少し頭をつかうだけで人様から驚きの目を瞠られ、そのうえにあぶく銭まで稼げるんですから、これはもうこたえられませんや。百姓や奉公、日雇い稼ぎなど地道な労働しか知らなかった身には、まさに目から鱗だったわけです。

 汗水たらして働くことが馬鹿らしくなったおいらは、こんなことではいけない、お天道さまに顔向けできないと戒めながらも、三笠付の底知れぬ闇に、ずぶずぶと踏みこんでいきました。

 

 そんなある夜、賭場からの帰り道、うしろから男に声をかけられました。

 勝句で大枚をせしめた晩でしたから、おいらはギクッと足を止めました。

 着流しの男が先ほどの点者(てんじゃ)とわかり、さらに身構えました。

 果たして、男は「おたく、はじめてではありますまい?」と問うのです。

 ――さて来なすった、いちゃもんをつける気だな。

 すり減った雪駄の母指球に力を入れて押し黙っていると、

「いや、そうじゃない、博打じゃなくて俳諧のことですよ」

 男は緊張をほぐすように言い直しました。

「俳諧の経験がおありと睨んだが、どうです、ちがいますか?」

「いえ、まったくありません」

 正直に答えると、

「それはすごい。まったくの初心者なのにあれほど肩の力の抜けた、いわゆる俳味のある中七、下五を付けられるとは。おたく、この道に才がありそうですな」

 面と向かって褒められたことがないおいらは、首筋にかっと血を上らせました。おそらく日に焼けた顔も赤くなったはずですが、闇夜に隠されたのは幸いでした。


 男はついと傍に寄ると、重大な秘密を打ち明けるように耳元に囁きました。

「さっきの上句ね、あれ、じつは葛飾派の歌仙から、ちょいと拝借したんですよ」

「葛飾派、ですか?」

 かつしかはってなんだろう。

 聞いたこともない名前です。

「江戸の俳諧を牛耳っているつもりの結社の呼称ですよ。揃いも揃ってこちこちの石頭で、武士以外は入れぬと威張りくさっておるが、なに、実態は妙な誇りだけは高くても、例の高楊枝すれすれの、半分あっち側へ足を踏み入れかけた亡霊どもの集団ですがね」

 ぺっと吐き捨てた男は、ふふんと皮肉げに鼻を鳴らしました。

「その本家本元の結社さまの、旧態依然としたご大層な付句より、ずぶの素人同然のおたくの付句の方が数段よかったんですよ。こえ見えてあたしは一応宗匠と呼ばれる身、てめえの句はさておき、批評眼にはいささかの自信があります。いやあ、おかげで今夜は久しぶりに胸が空く思いをさせてもらいましたよ」

 そこまで持ち上げられたおいらは、うれしいよりも呆れました。

 ――この男、なにか下心があるのでは?

 どこまでも疑い深いおいらに、長身を夜風に任せながら男は言うのです。

「どうですか、ちょっとうちへ寄って行きませんか。なに、すぐそこですよ。なにもないが、白湯など進ぜましょう」

 いわゆる腐れ縁というやつでしょうか。それが生涯の友であり、俳諧行脚の縄張(しま)や旦那衆を争う句敵ともなった武家崩れの俳人、露光との出会いでした。

 


 

 家とは名ばかり、荒れ寺の裏の雑木林をくぐり、蜘蛛の巣だらけの藪をくぐり、じめじめした湿地に生え出た茸のような裏長屋に連れて行かれたおいらは、結局、その晩、屋台の酒代と岡場所代をたかられることになりました。

 あとから思えば、三笠付の点者をつとめながらひそかに参加者を観察し、これはと思った者に狙いを定め、帰り道で言い寄っていたにちがいありません。

 お内儀さんの前ですが、おいらにとって岡場所はまだ二度目でした。

 奉公先の兄弟子に誘われて初めて白粉の匂いを嗅いだとき、相撲取りのように太った年増女に露骨に邪険にされて以来、女にはすっかり気後れしていたのです。

 でも、ふところには勝句の賞金が入っていますし、底なしのんべえの露光と引っかけた酒の勢いにも助けられ、えいやっとばかりの繰り出しとなったわけでして。


 え、お夏ちゃんのことですか?

 もちろん、それもありました。

 惚れて惚れて、所帯を持とうとまで考えていた女です。

 一膳飯屋の通りすがりにさりげなく手を触れ合うぐらいのことはありましたが、それ以上のことはありませんでしたので、別れの言葉もなく、とつぜん目の前からいなくなられたおいらとしては、気に入りのおもちゃを奪われた子どものように、宙ぶらりんで、じりじりした、なんともやるせない心持ちだったのです。

 それと岡場所とどういう関係があるのか、ですか?

 いや、まいったなあ。年下のおいらがこんなことを言うのも気が退けますがね、お内儀さん。そういうふうに生まれついているんですよ、野郎というものは。


 そういうわけで、ご公儀ご法度の三笠付点者の露光とつながりができましてね。田舎出の風来坊のおいらからすれば、それまで自分にはまったく縁がないと思っていた俳諧という文芸が、先方の方から、のこのこ近づいて来てくれたというしだいでして。

 それにしても、運というものはどこに転がっているかわからないものですねえ。遊び仲間に三笠付に誘われなかったら、何度も勝句を取らなかったら、点者の露光にたかられなかったら、俳諧師のおいらは生まれていなかったわけですから。

 まあ、あれです、転がって来た運がよかったかどうかは別問題ですがね。

 

 骨の髄まで染みついた貧乏暮らしに、お武家の、元御家人の矜持まで吸い取られちまったような露光でしたが、根はいいやつですから……あるいは、これも勘ぐってみれば、口入れ屋のように仲介料を取っていたのかもしれませんが、相変わらず職の定まらないおいらに、下総の奉公口を紹介してくれることになったのです。

 馬橋(現在の松戸市)の大川という油問屋です。

 その大店の店主が立砂と号する俳人と聞き、おいらの気持ちが動きました。

 これまでのように、ただ食うための奉公勤めとちがい、住み込みで働きながら、おりおりに店主から俳諧を教えてもらえるという、なんともありがたい話です。

 ――ゆくゆくは俳諧でひとり立ちするぞ。

 そんな野望もふつふつと湧いてきました。

 宗匠と煽てられながらも、太鼓持ちよろしく金持ちの旦那衆に取り入らねば明日の米にもありつけない俳諧師の実態を、露光の生活を通して知ってはいましたが、

 ――おいらなら、もっと上手くやる。

 なぜか、そんな自信もありました。

「わかっていると思うが、俳人といってもあの人の場合、所詮は旦那芸だからね。あっしのように生涯を賭けた者とは、俳諧への向き合い方がちがう。作句にも自ずからそれが出て、緊張感のない甘ったるい句しかできないんだよ、あの人には」

 溜まりにたまった鬱屈が、つい頭をもたげるのでしょう。露光は自分で奉公口を紹介しておきながら、その口でめちゃめちゃに酷評するのです。

 ――そんなふうに妬みを撒き散らすのは見苦しいよ、露光さん。

 おいらは肚の中でつぶやきました。

 俳諧の旅に出る露光に連れられて馬橋へ着いたのは、二十歳の秋のことです。


 

 

 それから五年間、おいらは油屋の手代として真面目に働きました。

 ええ、どこでも腰の据わらなかったおいらとしては、江戸へ出てからはじめてのことですが、それというのも、馬橋には俳諧という蜜があったからでしょうな。


 油屋の店主の立砂は、大店の旦那とは思えないほど謙虚で実直な人物で、時間を見つけては俳諧を教えてくれ、おりおりに催す句会にも出席させて勉強させてくれました。そのうえ、師匠の今日庵森田元夢に弟子入りまで頼んでくれたのです。

 当時はさほどの恩義を感じませんでしたが、いまから思えば、立砂、いや、旦那さまこそ、おいらに俳諧の道筋をつけてくださった恩人でした。

 共通する俳諧趣味の手代に、ことのほか目をかけてくださった旦那さまは、ゆくゆくは気立てのいいむすめと所帯を持たせ、さらには番頭にも引き立ててやろう、そんなふうに考えていてくださったと思います。


 ところが、おいらの中には、またしても虫が動き出していたのです。

 それも厄介なことに、このたびは仕事替えの虫ではなく、俳諧の虫。

 馬橋へ来る前に卵から孵った虫は、ときを経て籠に収まりきれないほど成長し、自由な空へ解き放たれたがって、しきりにバタバタともがき始めていたのです。

 ――お暇をいただきたいのです。

 とつぜんの申し出に、旦那さまは団栗のような目をさらに丸くされ、

「なにか不満でもあるのか? 国に事情ができたのか? あるいは別の理由が?」

 立てつづきに訊かれました。

「おいら、俳諧師になりてえんです」

 青ざめていた旦那さまの頬が、さっと朱に染まりました。

「弥太郎。おまえ、自分がなにを話しているのか、わかっているのか?」

 掠れ声を絞り出すと、懐手のままむっつりと黙りこんでしまわれました。

 旦那さまとしては、おそらく、

 ――恩をあだで返すのか、弥太郎。

 そんなお心持ちだったのでしょう。

 番頭さん、手代や丁稚、女中など、お店の人たちの手前もあったと思います。

 それみたことか。どこの馬の骨とも知れぬ風来坊を拾ってきて、分不相応な俳諧を教えようなど、とんでもない酔狂を思いつかれるからこういうことになるのだ。

 うなだれるおいらの耳にも、そんな声が聞こえてきそうでした。

 けれども、おいらとしては、ここが一番のがんばりどころです。

 いまさらですが、思い起こせば、十五歳で故郷を追われてから、うかうか十年を費やしてしまいました。男として立つにはいささか遅きに失する三十歳まで、あとたった五年しかありません。そう思うと、おちおち寝てもいられません。

 ――行動を起こさねばならぬ。

 かたく心に決めておりました。


 困った旦那さまは江戸の元夢師匠に相談されたようです。

 文字どおり苦虫を噛みつぶしてやって来られた元夢師匠は、実の祖父のように懇々と、切々と、不肖の新弟子の考え違いを糺そうとしてくださいました。

「よいか、弥太郎。俳諧というものは、しっかりした生業のある者だけに許される趣味なのだぞ。その俳諧一本で食っていこうというからには、末路は路傍に死するを覚悟せねばならぬ。あたしはおまえにそんな思いをさせたくないのだ」

 おいらは黙って自分の膝を見つめていました。

「な、わるいことは言わない。このまま油屋で働きながら、いままでどおり俳諧を楽しみなさい。もう少し腕を上げたら、点者にも取り立ててやろうじゃないか」

 俳諧一本の露光の貧乏をつぶさに見てきたおいらには、旦那さまや元夢師匠のおっしゃることが痛いほどわかりました。若造のおいらの気を引いてまで、身内のように案じてくださるお気持ちがありがたくもありました。


 でも、だからといって、馬橋の油屋の使用人で終わる気にはなれません。

 ――露光は露光さ。おいらにはもっと才があるかもしれないじゃないか。

 うつむく胸の内で、不遜なことを考えていました。

 旦那さまや元夢師匠が催される句会で、しばしば高得点を獲得して兄弟子たちを羨望させていたおいらは、ちょいと頭を捻って気の利いた言葉を添えさえすれば、つぎからつぎへとおもしろいように湧き出て来る俳諧を、軽く見ていたのです。

 ですから、

「はっきり言っておくがな、おまえ程度の句なら世に掃いて捨てるほどある。俳諧一本で食っていく水準にはほど遠いのだ。現実がわかっているのか? 弥太郎」

 元夢師匠の率直な苦言も、まるっきり馬耳東風でした。

 それどころか、

 ――馬橋の田舎住まい、しかも仕事が終わってからの片手間だから「この程度」なのだ。お暇をもらって江戸に帰り、一日たっぷり俳諧三昧の暮らしになったら、江戸中の俳諧師どもの度肝を抜くような名句名吟を、いくらでも捻り出してやる。いまに見ておれ。

 本気でそう思っていました。


 どう説得しても梃子でも動かないおいらに音を上げた元夢師匠は、江戸の俳諧に隠然たる力をもつという、夏目成美こと、蔵前礼差(幕府から旗本や御家人に支給される米の仲介)井筒屋店主の八郎右衛門を紹介してくださることになりました。

 いよいよお暇をいただくとき、

「弥太郎。江戸で立ち行かなくなったら、いつでもここへ戻って来ていいんだよ」

 旦那さまはそう言って、給金のほかに過分な餞別まで持たせてくださいました。

 お内儀さん、まことにもって、おいらは不忠義者です。



10

 

 夏目成美は、すらっと上背のある粋人でした。

 風采があがらない田舎者のおいらとは対極の。

 一見簡素な、けれど端々まで目の行き届いた閑雅な造りの座敷に、上等な絹物を無造作に着こなし、額の広い、骨格のはっきりした顔に、才知とはこういうものかと感得させられるような切れ長の双眸を光らせ、ゆったりと座っていました。

 若くして痛風を患い、足が少し不自由なことさえ、成美という完全無欠な人物を引き立てる、微細な筆致で描かれた背景の影の役割を果たしているようでした。

 ――銭、地位、才。

 すべてを独り占めすることを許された人の鷹揚な雰囲気に圧倒されたおいらに、成美はほんの一瞬、裏小路の日かげに棲みつく蟋蟀(こおろぎ)を観察するような視線を投げてよこしましたが、その目をすぐに、となりの元夢にもどしました。

「ほう、俳諧師を目指したいと」

 いいともわるいとも取れそうな言い方です。

「まだ海のものとも山のものとも知れませんが、妙に向学心だけは旺盛でしてね、人生は一度きりだから、どうせなら好きな俳諧一本でやってみたいと、分不相応なことを言い出しまして。どうも、近ごろの若い者ときましたら無鉄砲でしてねえ」

 恐縮した元夢は、頭のうしろを掻いてみせます。

「立砂とふたりで何度も止めたんですが、こう見えてこの男、なかなかの頑固者でして、言い出したら聞きません。仕方なく、というしだいです。なにしろ馬橋から出て来たばかりですし、まことにご厄介ですが、江戸の、いや全国の俳諧の諸事情に精通されている成美さんには、いろいろとご教示いただければありがたいと」

 自ずから言い訳めく元夢に、軽くうなずき返した成美は、

「向学心けっこう。吸収の速い若いうちに、たんと勉強することです。さいわい、わたしのところには俳諧その他の書物がたくさんあるから、いつでも来て、好きなだけ読んでいかれるがいい」

 やさしいというわけではなく、かといって冷たいというのでもない、なんと申しましょうか、感情のうかがえない平らな目を、真っ直ぐおいらに向けてきました。

 ――どうやら第一の関は突破したぞ!

 おいらは心底からほっとしました。


 馬橋から江戸の成美邸への道すがら、元夢が語ってくれたところによりますと、十六歳で家業の蔵前礼差井筒屋を継いだ成美は、持ち前の商才を遺憾なく発揮してたちまち店を大きくし、三十四歳のとき、いったん弟に家督を譲ったそうです。

 ところが、その弟が急逝したので、ふたたび商売にもどり、四十歳に手が届こうという現在も、豪商の大旦那として多忙な日々を送っているということでした。

 趣味人の成美は若いうちから、蔵前の店に隣接する広大な屋敷とは別に、俳諧や諸学に浸る時間を過ごすための別宅を、北本所の東江寺の境内に設えていました。

 表向きの貌を蔵前とすれば、もうひとつの貌が北本所というところでしょうか。

 宿なしのおいらからすれば、うらやましいを通り越し、呆れたような境涯です。


 多田薬師として知られる東江寺は千坪に余る寺域をもつ古刹で、遠くからも黒々としたかたまりが際立つ多田の森の一画に、大檀家の成美の邸があるのですから、同じく寺の境内といっても、小便くさい貧乏長屋住まいの露光とは比較にもなりません。柴垣に囲まれた閑雅な邸には、何人もの使用人が雇われているようでした。

 ――大旦那とはこういう人をいうのだ。

 罰当たりにもおいらの脳裡には、ややもすれば着物の裾に油染みなどをこさえ、自ら先頭に立って立ち働いていた、油問屋のあるじの立砂のすがたがありました。

 ひと口に旦那衆といっても、成美と立砂では、まるっきり月とすっぽんです。

 ――なんてったって銭のある人には適わない。

 この娑婆を動かしているのは、こういうひと握りの、ほんものの旦那衆だ。

 選ばれた旦那衆に贔屓にしてもらえるかどうかが、今後の成功の鍵になる。

 きらびやかな俳諧師としてのし上がるためには、

 ――まずは目の前の成美に認めてもらわねばならない。

 元夢の横で畏まったおいらは、肚の中で抜け目ない計算を働かせていたのです。


 

11

 

 つぎに元夢が連れて行ってくれたのは、葛飾派の宗家、溝口素丸邸でした。

 ご公儀の御書院番をつとめた五百石の旗本で、南割下水脇の長崎町に住んでいるので、俳句仲間の内では「割下水」で通っているそうです。地名を冠した呼び方に多少の揶揄が含まれていることを、おいらはあとになって知ることになりました。

 はい、さようでございます。葛飾派といえば露光。

 三笠付で勝句を取ったとき、伝統ある葛飾派より、素人のおいらの付句のほうがよかったと褒められたことを、おいらは忘れていませんでした。ですから、目の前で厳めしげに肩をそびやかせている渋面の老人を、素直に敬う気にはなれません。

 ――うるさがた。

 ひと口に申せばそんな感じの老人です。

 露光とおいらの仔細を知らない元夢は、竹阿という葛飾派の俳諧師が何年も旅に出ていて空家になっている、根岸の二六庵に住まわせてやってほしいこと、折りを見て弟子入りさせてやってほしいこと、このふたつを素丸に頼んでくれました。

 老人はもったいぶった様子で渋々と承諾してみせましたが、生意気にもおいらの本音を申せば、住まいはともかく弟子入りの件はあまり気乗りしなかったのです。

 すでに素丸の弟子の元夢に入門しており、いわば孫弟子に当たるのですから、

 ――いまさら。

 という気もありました。

 それに、そう申してはなんですが、年輩の武家が大半を占める葛飾派の句風は、古くさくて新鮮みや面白みがなく、おいらには合わないような気がしたのです。

 さっき会ってきた成美だって師を持たず、独学で俳諧を学んだといいます。

 ――ならば、おいらだって。

 そんな気持ちもありました。


 まあ、これもひとつの運と申しますか、夏目成美という、とてつもなく魅力的な人物に会った直後に、武家の象徴の裃をことさらに突っ張らせながら、むかし流の型にはまった俳句づくりから一歩も抜け出せない、いや、むしろそれを唯一の誇りとしているような素丸に出会った。この順番がいけなかったのかもしれませんね。

 ――おいらなど、まだまだ。

 田舎者らしく朴訥に畏まって頭を掻いてみせ、弟子入りの件はなんとなく曖昧にぼかしたまま、空家の二六庵に住まう許可だけは、しっかりといただきました。

 十五歳で故郷を出て早や十年、頼る人とていない江戸を渡り歩くあいだに、人様の心の襞にするっと入りこむ術を、いつの間にか身につけていたんでしょうな。

 いやあ、お恥ずかしい限りです。

 え、その率直さがいいところ? 

 人知れぬご苦労をたんとなさって、酸いも甘いも嚙み分けたお内儀さんにそう言っていただけると、なんかこう、おいら羽が生えたような心持ちになります。

 

 ともあれ、こうして俳諧師への第一歩が始まりました。

 馬橋の旦那さまのお心づかいを少しでも長持ちさせられるように、成美邸に書物を借りに行くときは、なるべく昼飯や夕餉の時間に合わせるようにしました。

 厚かましいと思われないか心配にならなかったか、ですか?

 いやあ、お内儀さん。これから俳諧師として立とうというんですよ、そんなことにいちいち遠慮しているようでは、おちおち俳諧行脚の旅にも出られません。

 露光なんかよりもっと大口の旦那衆を獲得するのがおいらの野望ですから、まずは手始めの成美邸へ、そうしてもらって当然という顔つきで、飄々と出かけて行くわけです。

 最初に受けた印象どおり、成美は細かいことには拘らない大旦那中の大旦那で、おいらが足しげく訪ねて行っても、そのつど使用人に言いつけて飯を出してくれ、ときには自分も同じ膳を囲んで俳諧や諸学の話をしてくれました。それどころか、おいらを格下扱いせずに「あなた」と呼んでくださる。あれには感激しました。


 生まれてはじめてその日の米に困らない(きわめて質素にすれば、の話ですが)優雅な勉強三昧の日々を送りながら、おいらは希望に満ちあふれていました。

 成美が惜しげもなく貸してくれる書物を貪り読み、これはと思う本は手帳に丹念に書写し、作句に励み、元夢や成美が催す折々の句会にも進んで出席しました。

 その際、これまで菊明、菊明坊一茶と名乗っていた俳号が、覚えづらい、印象に残らないという句友の助言にしたがい、圯橋(いきょう)、一茶に改めました。

 なによりうれしかったのは、馬橋での約束を守り、元夢が句会の執筆においらを選んでくれたことです。執筆といえば、宗匠に次ぐ大役、いわば宗匠補佐です。

 ――手応えあり!

 二六庵に帰ったおいらは、擦りきれた畳に大の字になって快哉を叫びました。


 手紙を書こうと思い立ったのは、破れ障子に射す西日を眺めていたときでした。

 日雇いを転々としていたときも、馬橋で奉公していたときも、一度としてそんな気が起きたことはなかったのに、にわかに書きたくてたまらなくなったのです。

 長い孤独で、おいらは思い知っていました。

 ――人間、苦しさにはひとりで耐えられる。

 だが、うれしいときに一緒になって喜んでくれる身内がどうしても必要なんだ。

 おとっつあんはともかく、愚図なおいらと反りが合わず、年がら年中諍いばかりしていた継母も、おいらの幸運を喜んでくれるだろうか、それも手放しで……。

 それはわかりませんが、この世においらの身内は、柏原のあの三人だけです。

 ――あれから十年も経っているんだ。

 継母だって気性は荒いが、根っからの悪人ではないんだから、過去のいきさつはいきさつとして、死んだおっかさんやばあちゃんの分まで喜んでくれるだろう。

 都合よく考えることにしました。



12

 

 長いこと音沙汰がなかった露光が、ふいに二六庵を訪ねて来ました。

 例の貧乏長屋に帰ってみたら、見知らぬ他人が住んでいたというのです。

 そのころ、馬橋から江戸へ舞いもどって一年になるおいらは、弟子入りのことは保留にしたまま、葛飾派を率いる素丸の句会で認められるようになっていました。

 ――あんな古くさい宗匠のところは、とてもとても。

 当初は激しく忌避してみたものの、貪るように諸学を学び、古今の俳諧を徹底的に研究し、これはと思った句の一節をなぞらえるなど、思いつく限りの努力をしてみても、成美のように粋で洒脱な句はどうしても生まれてきません。見かけ同様に泥くさい句風が、謹厳実直居士ばかりの葛飾派に歓迎されたのかもしれません。

 ふふふ、それがおいらの現実でした。

 大いに腐ったり、ときには少しばかり悦に入ったりしているときに、思わぬ朗報が飛びこんできました。元夢師匠が編纂中の『俳諧千題集』なる句集に、おいらの二句を掲載してくれるというのです。

 ――よおし! 芽が出てきたぞ。

 おいらの中にかすかな、けれども手応えのある自信が生まれました。

 ――句会で認められ、句集に選ばれ、一歩ずつ俳諧師への道を進んで行く。

 ひと筋の道のはるか彼方にぽつんと灯っている一点の灯りが、歩を進めるごとに明るさを増し、やがては、まばゆいばかりに煌びやかな燈明に変容するだろう。

 野望に逸るおいらの内で、五臓六腑がしきりに凱歌をあげていました。


 けれども一方には、立砂からもらった選別もいよいよ食いつくし、以前のように日雇いをして糊口を凌がなければ生きていかれない、きびしい現実がありました。

 先ほどの強がりに矛盾するようですが、いくら厚かましいおいらとしても、三度三度、成美邸の馳走になるわけにはいきません。使用人の手前もありますしね。

 あるとも見えない一本の細い糸に辛うじて縋りつく身、いたって太っ腹な反面、生まれついてのお大尽ならではの、いきなり袈裟懸けに刀を振り下ろすような冷淡さを持ち合わせている成美に、もしも愛想を尽かされたら、それっきりです。

 日雇いで赤黒く灼けた手を曝して成美と向き合い、呑気に俳諧の話をするのは、屈辱と反発と居直りの混じり合う、なんとも複雑な心持ちでしたよ、お内儀さん。


 そんなときでした、句会の集まりで興味深い話を耳にしたのは。

 誇り高い葛飾派の連中は間違っても下賤な言い方はしませんが、

 ――奥州行脚に食いっぱぐれなし。

 平たく言えば、こういうことです。

 往古からの俳諧師諸兄がこぞってそうしてきたように、芭蕉の事蹟を訪ね歩けばどこへ行っても大事にしてもらえる。奥州だけで一生食っている強者もいるとか。

 さっそく成美に相談すると、

「それはいい。ぜひ行ってらっしゃい。きっと今後の糧になりますよ。俳諧をするなら、やはり芭蕉です。おうらやましい。わたしも一緒に行きたいくらいですよ」

 一も二もなく賛成してくれたうえ、期待以上の餞別をはずんでくれました。

 もちろん、それを大いに当てにしての相談ですし、こちらからなにもお願いせずとも、阿吽の呼吸ですべてを了解してくれる器量こそが大旦那のあかしです。

 あり余る富に囲まれている成美にとって、おいらに飯を奢ったり餞別を弾んだりしたからって、爪の先ほども痛むところはないでしょう。まあ、せいぜい怜悧な目の底に沈潜させた憐憫や侮蔑を悟られぬようにするのに気を遣うぐらいのもので。

 お内儀さん。おいらはね、

 ――施す側と施される側は五分五分。

 かねてより、そう思っています。

 だって、そうじゃありませんか。

 他人に銭や物を施す側は、卑屈にお礼を言われ、なんともいい気持ちになれる。

 かたや施される側は、優越感をくすぐるという対価以上の代償を支払っている。

 ですから、持つ側が施してやるのではなく、持たざる側が、

 ――施させてやっている。

 そう言い替えたほうが、むしろ、真実に近いと思うんです。

 え、それぞ俳諧師の真骨頂?

 いやあ面目ない、恐縮至極です。 

 何事も斜に見るくせのついた、ひねくれ一茶の戯言とお聞き流しくださいまし。


 まあ、それはともかく、白湯を出しながら、そんな話を露光に披露すると、

「ふん。あんたも一丁前になってきたじゃないか。これからが勝負だな。だがな、これだけは言っておく。おれの二の舞だけは踏むなよ。気楽そうに見えて、これでなかなか気骨の折れる業だからな。せいぜい野垂れ死にせぬようにすることじゃ」

 泊まっていけと言うのも聞かず、皮肉な言葉を残して去って行きました。

 振り返らない背中が少し傾いでいるのが、いつまでも脳裡に残りました。

 


13

 

 大坂で竹阿が死んだと聞いた瞬間、おいらの胸に不安がよぎりました。

 ――二六庵を出なければいけないのか?

 さっそく素丸宗匠にお伺いを立てますと、その心配は無用とのことでした。

 ほっと安堵したのもつかの間、宗匠はもっと痛いところを突いてきました。

「それはそうと、そなた、近ごろ、二六庵の弟子を名乗って歩いておるそうだな。これで俳諧の娑婆はぞんがい狭いからのう、あちこちでうわさを耳にしておるぞ」

 あいたたた、と思いました。

 ――会ったこともない俳諧師の弟子を名乗る。

 なんと厚かましいことかとお思いでしょうね、お内儀さん。 

 こんなことを申し上げると弁解めきますがね、よせばいいのに成美を真似て独学を志した結果、銭もないのに後ろ盾を持たぬ、一匹狼の道を歩まねばならなかったおいらは、自分と自分の句に、箔をつけたかったのですよね、有体に申せば。

 それなら素丸に入門すればいい、ですか?

 ですよね。ですが、そのときのおいらは、

 ――葛飾派ごときの器に収まるおいらじゃない。

 なんて本気で思っていたのですから、なんとも生意気な小僧でした。

 

 話をもどします。

 これまでのつきあいのお情けで二六庵には置いてやる。

 だが、勝手に弟子を名乗るような不届き者は信用ならん。

 ゆえに、今後いっさい葛飾派の句会への出入りを禁ずる。

 そう申し渡されることを覚悟して、おいらは素丸老人の前に畏まりました。

 が、意外にも老人は、歯のない口を湯に溶けた餅のようにゆるゆると広げ、

「まあ、いいさ。面識がなかったとはいえ、自分が亡きあと、ひとりぐらい弟子を名乗る者がいてくれたほうが、彼岸の住人となった竹阿もうれしいだろうよ」

 珍しく洒落たことを言うので、おいらは呆気にとられました。

 堅物の素丸にも、いわゆる俳諧味があったのかと可笑しくもありました。

 なにはともあれ、物置き同然のわび住まいとはいえ、雨露を凌ぐたったひとつの拠り所である二六庵に住みつづける許可を得たうえ、瓢箪から駒よろしく、竹阿の弟子の名乗りまで追認されたことは、おいらにとっては思いがけない僥倖でした。


 ああ、そう言えば……。

 場合が場合だけに、いかにも弁解がましいので、素丸には伝えませんでしたが、旅先の竹阿から、一度だけ手紙をもらったことがあるんですよね、おいら。

 ――二六庵に残してきたものを始末してほしい。

 まことにもって味もそっけもない、ひどく短い文面でしたがね。

  

 それからしばらくして、その素丸宗匠から思いがけない朗報を告げられました。

「つぎの句会で、そなたを執筆役に推そうと考えておる」

 伝統ある葛飾派の先達、其日庵二世長谷川馬光が没して五十年目に当たる今年、房州鋸山日本寺境内に記念の句碑を建立するが、同時に五十回忌法要、記念句会、合同句集の板行などの諸行事を大々的に予定している。

 その節目の年の大役に、おいらを推薦してくれるというのです。

 宗匠の推薦に異を唱える者はおりませんから、執筆役は本決まりも同然です。

 ――ついにツキがまわってきたぞ!

 「いえいえ、わたしなどはまだまだ」

 手をひらひらさせながら、おいらは肚の中で快哉を叫んでいました。


 その翌月、おいらは正式に其日庵溝口素丸宗匠に入門しました。

 そういうことには至って厳格な宗匠ですから、その日暮らしのおいらにとっては目の玉が飛び出るような束脩(そくしゅう)をひねり出すため、日雇いにいっそう精を出さねばなりませんでしたが、せっかく執筆役を仰せつかった葛飾派でさらにのし上がるために、そのくらいはやむを得ないと割り切るようにしていました。

 ええ、そうです。

 いくら句を作っても、いっこうに報われなかった時代、

 ――ふん、葛飾派ごときが。

 口を極めて非難していたことは、都合よく忘れていました。

 おいらというのはそういう人間なんですよね、お内儀さん。


 ただ、いざ入門してみると、思った以上に縛りが多くて閉口しました。

 頻繁な句会に出席するため、ときに日雇い稼ぎを控えねばなりません。米が底をつき、やむを得ず欠席すると、素丸宗匠からあからさまに不愛想にされるのです。

 いまさらですが、お内儀さん。

 和算とちがい、俳諧には唯一無二の答えがあるわけではありません。

 たとえ互選で高得点を得ても、最終的な判断は宗匠の胸先三寸に委ねられます。弟子入りを保留にしたまま葛飾派の外側をうろうろしていたときにはわかりませんでしたが、正式に入門してから、峻厳な事実を、ぴしっと思い知らされました。

 

 一方、おいらは夏目成美のもとにも相変わらず通って教えを請うていました。

 ただ、句会に出るためのやむを得ない事情で、以前にもまして頻繁に飯を馳走になっていたある日、こちらの会釈にすうっと目を反らし、黙って奥へ引っ込まれて以来、なるべく飯どきを避けて訪問するようにしていましたが……。

 

 ところで、吉凶はあざなえる縄のごとしとか。

 顔も知らない竹阿の死は、おいらに思いもよらない幸運を運んでくれました。

 先ほど少しお話しました、

 ――二六庵に残してきたもの。

 まさにそのことです。

 葛飾派の二六庵を名乗った竹阿ですが、本拠の江戸にはほとんど帰らず、生涯の大半を旅に明け暮れたそうです。大坂、京都、四国の讃岐、伊予、さらには九州が竹阿のおもな縄張(しま)で、西国各地の高名な俳友たちと親密な交流を重ねたということでした。

 ある日の句会でそんなことを耳にしたおいらは、旅先の竹阿から処分を頼まれたものの、面倒で押入に突っ込んだままになっている書付のことを思い出しました。


 飛ぶようにして二六庵に帰り、夢中で書付を引っ張り出してみますと、たいへんな数の俳友たちの名前と居所が、びっしりと書き込まれているではありませんか。

 ――これぞお宝だ! 

 竹阿の弟子を名乗って訪ねてまわれば、ゆうに三年は食っていけるだろう。

 墨染の衣に破れ笠を手にした、おのれの旅姿がありありと思い浮かびます。

 ――はっはっはつはっ。

 肚の底から笑いが込み上げてきました。

 いまは葛飾派の規律に縛られ、日銭稼ぎもままならない情けないおいらですが、この貴重な書付さえあれば、なんやかやとかまびすしい江戸を遠く離れた空の下、のびのびと俳諧にいそしみ、おのれの道を思うままに生きていかれるでしょう。

 見知らぬ異文化圏の俳人たちとの交流は、より高みの俳諧師を、つまりは高名を目指すおいらに、必ずや新たな活路を切り開いてくれるにちがいありません。

 ――葛飾派よ、おさらばだ。はっはっはつはっ。

 米びつの底ばかり気にしていたぼろ家に、ふたたび乾いた笑いが響きました。


 

14

 

 馬橋の油屋に立砂を訪ねたのは、寛政三年(一七九一)の春のことでした。

 お世話になりながら身勝手をお許しくださった旦那さまに、ひとかどの俳諧師になったおいらを見てもらいたい。伝統ある葛飾派の執筆役を仰せつかり、名のある句集にも掲載されるようになった、二六庵竹阿の弟子としてのおいらを……。

 それは表向きのことで、お察しのとおり、本当の目的は銭集めにありました。

 ――柏原のおとっつあんに、西国行脚の路銀を工面してもらおう。

 押入の竹阿の書付にお宝を発見したとき、おいらはすぐそう思いつきました。

 ああいう事情で、おいらをひとり江戸へ追いやったおとっつあんだ。

 いやとは言うまい。

 罵り、殴り、蹴り、虐げ尽くした継母にも、むろん文句は言わせない。

 ひとりぼっちで放り出された江戸で舐めた辛酸を思えば(まあ、こういうときはてめえの移り気は都合よく棚に上げて置くわけですがね)、かたいっぽうは実の、もうかたいっぽうは赤の他人の二親のせいで、さんざんな苦労をさせられた来し方十五年を思えば、西国行脚の路銀ぐらい、なんだ。安いものじゃないか。

 ――それだけのことをしてもらっていい理由が、おいらにはある。

 いったん思いつくと、寝ても覚めてもそのことばかり考えていました。

 

 五年ぶりに訪ねて来たかつての使用人を、相変わらず人の好さそうな丸い笑顔で迎えてくださった旦那さまは、生意気にもいっぱしの俳諧師を気取るおいらを、

「大したもんだよ、弥太郎。いや、一茶さん。わたしとしても鼻が高いよ」

 一点の曇りもない目をやさしくやわらげ、手放しで喜んでくださいました。

 葛飾派の句会でも成美の前でも決して気を抜かず、肩ひじ張って来たおいらは、この人の偽りのない温かさにあらためて打たれ、物見高い使用人がいなければ、

 ――旦那さま!

 うっかり泣き縋っているところでした。

 ただ、句会を開きたいという申し出は、やんわり断られてしまいました。

 驚いたことには、つい最近、露光がまわって来たばかりだというのです。

 もっとも露光の得意先は下総、常陸、上総方面が主体ですから、馬橋に来たからといって意外ではないのですが、自分のことばかり考え、なにがなんでもと句会を当てにしていたおいらとしては、いきなり出鼻を挫かれた思いでした。

 でも、気の毒がった旦那さまは、相当な額の餞別をはずんでくださいましたし、幸い馬橋の先に予定していた地域では露光と重なることもありませんでしたので、それぞれの土地の句会のあがりで、帰郷の路銀をこしらえることができました。

  

 こうして布川、常陸田川、下総の新川、竜台を経て、ふたたび布川へともどったおいらが、いったん江戸へ帰って旅支度を整えてから信濃の柏原へ向かったのは、春もたけなわの四月十日のことです。

 故郷へ錦を飾るというほどではありませんが、なにもわからない子どものころに出たきりの故郷に、じつに十五年ぶりに江戸の俳諧師としてもどって行くのです。

 ――鬼が出るか蛇が出るか。

 拭いがたい懸念をよそに、還暦を迎えたおとっつあん、五十歳に近い継母とも、むかしの軋轢などなかったかのように、屈託のない笑顔で迎えてくれました。

「よく帰ったなあ。疲れただろう。腹も空いていよう。さあさあ、あがれや」

 おとっつあんが面映ゆそうなのは当然としても、あれほど虐げた継母まで、

「ふんとによくがんばったなあ。さすがは弥太郎。見上げたもんだわい」

 三白眼をすくい上げ、お愛想めいたことまで言うのです。

 一方、見映えのしないおいらとちがい、がっちりした体格で、顔立ちもすっきり垢ぬけしている弟の専六も、清潔そうな歯並びを惜しげもなく見せてくれました。

 何度かの手紙に、旦那衆のふところを当てにする浮草稼業のことなどおくびにも出さず、江戸の風流界でも重きを置かれる、いっぱしの俳諧師になったと吹聴しておいたので、家族みんなで気を遣ってくれていたのでしょう。

 ほうほう、そりゃあすごいと感心してくれる肚の底には、

 ――家を出て行った人間。うちには関係のない人間。

 つまりは、いっときの「お客さま」という、暗黙の了解があったのでしょうね。おいらの顔色をうかがう、おとっつあんはともかく、少なくとも継母と弟には。

 勧められるまま、足湯をつかって旅支度を解き、

 ――おっかさん、ばあちゃん、ただいま帰りました。

 仏壇に報告すると、堪えていた涙がわっと噴き出しました。


 あれもやりたい、これもやりたい。

 あそこへも、ここへも行きたい。

 もっともっと上を目指して有名になりたい。

 四六時中そればかり念じていたおいらとしては、いずれは江戸を引き払って田舎へ帰ろうなどという気持ちは、そのときはこれっぽっちも起こりませんでした。

 むしろ、江戸の華やぎを知らない、田舎百姓の境遇を憐れんだくらいです。

 ただ、田畑に腰を据えた三人の生活をつぶさに知るにつけ、確信しました。

 ――ここにおいらの居場所はない。

 いまはまだいいが、弟が嫁をもらい、子どもが生まれれば、気安く生家の敷居をまたぐこともできなくなるだろう。さびしいが、口惜しいが、それが現実だ。

 ――おっかさんやばあちゃんの位牌もある家なのに。

 そのことを思うと、なんとも釈然としませんでしたが……。

 

 一方、生家に滞在したひと月の内に二回、本陣の旦那さまの斡旋で、村の趣味人を集めて句会を開いたのは、格段の心算があってのことではありませんでした。 

 ――江戸帰りの俳人一茶。

 この名前を広げておけば、いずれ江戸で一門を立てるときに役立つだろう。

 それぐらいの軽い気持ちだったのですが、思いがけぬ手応えがありました。

 むかし、本陣に逗留した長月庵若翁に入門して平湖を名乗っていた与右エ門は、近隣でも大きな造り酒屋のあるじですが、ある日、その平湖が訪ねて来て、

「息子の二竹をあなたに入門させたいのですが、どうかよしなに」

 丁寧に頭を下げてくれたうえ、このたびの句会に出席していた可候という男も、ひどく熱心に弟子入りを希望しているというのです。


 二件の朗報を同時に聞かされたおいらの至福は、自分でも意外なほどでした。

 それが実現すれば、生まれ故郷ではじめての弟子を持つことになります。

 ――柏原に弟子がいるとなれば、身内の見方も変わるだろう。

 そんな思いがよぎったのは、帰省の当初は下にも置かれなかった生家での待遇が日ごとに変容を遂げてきていることを、朝な夕なに痛いほど感じていたからです。

 まあ、あれですよね。

 小林家という碁盤からとうのむかしに叩き出したと思っていた碁石が、むっくり起き上がり、碁盤の縁に足をかけてよじ登ろうとしている。早いうちに叩き落としておかねば、今後、どういう反逆に打って出られるやらわかったものじゃない。

 ひとつ屋根の下に暮らすうちにわかってきたのですが、うしろめたさを逆恨みにすり替えていた継母の肚の内としては、そんなところだったのかもしれません。

 そのあかしに、おいらが弟子の話をすると、すうっと顔を横にそむけました。

  

 

15

 

 そろそろ潮時と思ったある夜、思いきっておとっつあんに切り出しました。

「おいらこれから、亡き二六庵竹阿師匠の供養を兼ね、西国行脚に出かけるつもりなんだ。ついては、少しばかり路銀を工面してもらえるとありがたいんだがな」

 箸を止めたおとっつあんは、しばらく躊躇った末、

「そんねには出せねえが、少しばかりなら、なあ?」

 囲炉裏の向かいに座る継母に同意を求めました。

「それみたことか、言ったこっちゃねえ。どうせそんなことだろうと思ってたよ」

 太い大根を輪切りにするように、すぱっと言い放った継母は、

「あれだろ? 弥太郎。端からたかるつもりで、うちへ帰って来たんだろ?」

 歳を取っても、人の性格というものは変わらないのでしょうね。

 上から押しつけるような物言いに、幼いおいら、どれだけ泣かされたことか。

 悔しいことに継母の指摘が図星(こういうことには勘の冴える女ですからねえ)だったこともあり、おいらは思わず大声で怒鳴り返していました。

「かあさん、そんな言い方はないだろう! おいらはな、かりにもこのおいらは、このうちの長男だぞ。長男が帰って来て、どこがわるい!」

 かりにも、と腰の引けた言い方をしたことを悔やみましたが、あとの祭りです。

 ぷいっと露骨に顔をそむけ、男のような所作で立ち上がった継母は、どすどすと音を立てて土間へ降りると、ことさら騒々しく茶碗を洗い始めました。

 おいらの対面に座った弟は、身じろぎもせずに囲炉裏の灰を見つめています。

 沈黙を破り、おとっつあんが、

「今度だけだぞ、弥太郎」

 低い声で、ぼそっと言いました。

「いいな、二度はねえぞ」

 念を押され、これがおいらを捨てた親の言うことかと情けなくなりました。

 

 あくる朝、ふたりきりになったとき、

「おまえ、いつまでうちにいるつもりだい? かあさんが気にしていてな」

 おとっつあんが言いにくそうに訊ねてきました。

 そう訊くようにそそのかした継母も弟も、早くから野良へ出かけたようです。

 囀りもにぎやかな春の朝なのに、手足の指の先が、しんと冷たくなりました。

 ――さっさと早く出て行けというのか。

 おとっつあんがぼそぼそ話してくれたところによれば、おいらが江戸へ出てからの十年に、生家が所有する田畑は祖父から受け継いだときの倍近くに増えており、その手柄のほとんどは、継母と弟の専六の野良稼ぎによるものだというのです。


 ――なるほどね。

 おいらは思いました。

 愚図だの鈍間だのとおいらを罵った継母は、たしかに人一倍の働き者でした。

 なんでも一番でないと気が済まない勝気も、朝星夕星に拍車をかけたはずです。

 人目も憚らぬ獅子奮迅の働きぶりを財産倍増というかたちにしてみせた継母に、おとっつあんはもちろん村の衆も驚異の目を瞠り、一目も二目も置くようになったとしても当然のなりゆきだったでしょう。

 ――ああ、それで。

 どこからともなく放たれてくる視線の理由がわかりました。

 句会に集まる一部の人を除く大半の村の衆は、昼日中、ぞろっとした着流しでちゃらちゃら農道を歩いている江戸帰りの弥太郎を、お天道さまに顔向けできない日かげの暮らしをしている、胡散くさい渡世人と思ったのでしょう。

 

 ――ここはおいらの居る場所ではない。

 切ない思いが、ずしんと胸に落ちます。

 鼻の奥のほうが、つんと熱くなります。

 母なし子の僻みが頭をもたげてきます。

 ――おいらだって、好きで俳諧師になったわけじゃないやい!

 明るい日が射しこむ縁先に走り出て、思いきり叫んでやりたくなりました。

 その日暮らしの放浪時代から、一応の俳諧師になった今日まで、人様から受ける冷遇や冷たい視線には慣れているつもりでした。なにかことがあるたびにいちいち傷つかなくて済むように、てめえにも、とくと言い聞かせてきたつもりです。

 でもね、お内儀さん。

 江戸という得体の知れないまちを漂う根なし草の、たったひとつの拠り所である故郷にまで疎まれている自分を認めっちまうことは、絶対的な味方になってくれるてめえの家族がいない、この先も持てる当てがないおいらにとっては、なかなかに勇気がいることだったんですよね。



16

 

 柏原から江戸へ帰ったおいらは、まず京を目指しました。

 信仰深いおとっつあんに頼まれた浄土宗本願寺への代参を済ませると、後生大事に持参した竹阿の書付を頼りに、三都随一の規模を誇る大坂の飛脚問屋のあるじ、大江丸こと大和屋善兵衛のもとを訪ねました。

 書付の効力がいかなるものか、おいらとしてはかなり緊張していましたが、予想に違わず大江丸は大いに歓迎してくれ、自分の屋敷を本拠として、俳諧の筵を自在に広げられるように、上方各地の高名な俳人をつぎつぎに紹介してくれました。


 ――二六庵竹阿の直弟子。

 この効果は絶大で、どこへ行っても喜んで迎えてもらいました。

 成美にせよ、葛飾派にせよ、江戸の俳諧しか知らないおいらの目に、旧来の型にとらわれず、自由闊達に詠む上方の俳人たちの句風は、とても新鮮に映りました。

 ――こんなに楽しいものだったのか、俳諧とは。

 冗談好きな人たちが、ついでのように詠んだ句の洒脱といったらどうでしょう。

 葛飾派はもちろん、あんなに憧れていた成美の句さえも色褪せて見えるのです。

 ――なにをどう詠んでもいいのだ。

 当初の戸惑いはどこへやら、江戸の俳諧にどっぷり浸かっていたおいらは、規範や縛りから解き放たれてこそ羽ばたけるてめえに、あらためて気づかされました。

 

 秋、四国へ渡りました。

 まず訪ねたのは、讃岐観音寺専念寺の五梅和尚です。

 書付の添え書きによれば、数ある門人中、もっとも竹阿に近かった人のようですから、ここでも直弟子を名乗ると、当然のように大いに歓迎してくれました。

 竹阿もそうしていたというので、この専念寺を拠点にして、四国各地、さらには九州へと俳諧行脚の旅を広げていきました。

 訪ねる先はいくらでもありましたが、いつもうまくいくとは限りません。

 日暮れ近くたどり着いた海辺の寺で、竹阿の時代とは代替わりしていた住職から門前払いを食わされ、野宿寸前のところを土地の庄屋に助けられる……そんな苦い経験も一再ならず。飯どきに行って妻女からいやな顔をされることもありました。

「いやいや、どうかお気になさらず。宿の当てはいくらでもありますゆえ」

 強がりを言って踵を返す。

 その惨めさといったらありませんでしたよ、お内儀さん。


 

17

 

 とはいえ、この旅で、たしかな収穫がふたつありました。

 ひとつは、てめえの中にひそむ題詠の才に気づいたことです。

 葛飾派の句会でも、その場で出された題で当意即妙に詠む機会はありましたが、さしたる面白みを見い出せずにいました。どっちかといえば苦手なくらいで。

 ですが、西国での句会で気づいたのです。

 ――意外といけるんじゃないか? おいら。

 思い返せば、私語などとんでもない、うっかりくさめもできない葛飾派の窮屈な雰囲気が、気楽に題詠を楽しむ気持ちにさせてくれなかったのでしょうね。

 ところが、どうでしょう。

 西国では、つぎからつぎへと蝗のように句が飛び出てくるではありませんか。

 おいらの中に産みつけられた卵から、白や黄色の蝶が無限に飛び立っていく。

 ――ひらひら、ひらひら。

 軽やかな羽音まで聞こえてきそうです。

 ――どんどん詠めるぞ、いくらでも詠めるぞ。

 頭と言わず、胸と言わず、手足と言わず、身体中から俳句が湧いてくるぞ。

 そんな体験ははじめてでしたから、おいらは素直に仏の導きを思いました。

 三笠付から始めた俳諧は、生きる標(しるべ)そのものになっていたのです。

 

 もうひとつの収穫は、二冊の句集の板行です。

 贔屓の旦那衆が大口の出資を申し出てくださったので、寛政七年(一七九五)に一冊目の『旅拾遺』を京の書店菊舎太兵衛から、三年後に二冊目の『さらば笠』をやはり京の書肆勝田吉兵衛から出してもらいました。

 ご同業ですから、お内儀さんは両板行元をご存知でしょうね?

 上方とは世利会がちがうからご面識はないが、名前だけはお聞きになっている?

 まあ、いずこの娑婆もそんなものでしょうなあ。


 ともあれ、総勢二百人にのぼる上方の高名な俳人たちが一堂に会したのです。  てめえで言うのもなんですが、二冊並べたところはなかなかの圧巻でしたよ。

 そりゃあ、みなさん大いに喜んでくださいましてね。句を掲載した旦那衆が競うようにして買ってくださったので、おかげさまで収支もとんとんになりました。

 はじめて句集を編纂したおいらとしても、

 ――ようし、ついにここまで来たか!

 まことに感慨深いものがありました。

 

 そうこうするうちにも、俳諧師としては月並みな言い方ではなはだ恐縮ですが、歳月は矢のごとく飛びすさりました。

 つごう六年にわたる西国行脚の集大成としての二冊の句集を手土産に、意気揚々と江戸へもどって来たとき、おいらは三十六歳の厄年を迎えていました。

 ですが、なつかしい古巣には、思いがけない試練が待っていたのです。

 錚々たる俳人を一堂に会した、現在の上方を代表する句集だ。

 ――江戸でも相当な話題になるだろう。

 気負いこんだ目算は、ものの見事にはずされっちまいました。

 とっておきの縮緬の風呂敷に大切に包み、いそいそ謹呈に伺った夏目成美からも葛飾派からも、周辺のどなたからも、はかばかしい反応が得られなかったのです。

 いや、それは正確な言い方ではありません。

 ――黙殺。

 はっきり言ってしまえば、そういうことです。

 当のおいらを前にしながら、その場の話題にものぼらせてもらえません。

 なにが、どういけないんだ。

 ――ひょっとしたら嫉妬か? 

 そこまで思い詰めましたが、そういうことでもなさそうです。

 同様な屈辱を重ねるうちに、おぼろげにわかってきたのは、

 おいらにとってはわが子同然、唯一無二の至宝であっても、

 ――山とある句集のひとつに過ぎない。

 まことに峻厳なる、そして当たり前の事実でした。

 肩すかしを食らった格好のおいらの落胆は、ひととおりではありませんでした。

 こうしてお話できるようになったのも、ここ最近のことなんです。


 え、板行なんて、たいていそんなもの、ですか?

 ふうむ。まあ、考えてみれば、そう言うおいらにしてからが、こちらから望んでもいないのに先方から勝手に贈られた句集は、一度ぐらいお義理にぺらぺら繰ってみたりしますが、すぐに飽きて、その辺にうっちゃっておいたりしますからねえ。

 ――自分の編著はとくべつ。

 そう思うほうが虫がいいのかもしれませんね。

 

 

18

 

 話が前後しますが、その前に、予想もしなかった出来事が起きていました。

 西国の旅から二六庵に帰ってみたら、見知らぬ夫婦者が住んでいたのです。

 上方にいるあいだに素丸宗匠が亡くなり、加藤野逸が跡目を継いでいることも、江戸へもどってみてはじめて知りました。

 横柄で押しが強かった素丸宗匠とは逆に、温和だけが取り柄のような野逸宗匠に、早く夫婦者を立ち退かせるように催促しても、いっこうに埒があきません。

 「まあまあ、少し待てば、そのうちに出て行くだろう」

 頼りない返事ばかりでしたので、仕方なく、おいらはまた旅に出ました。

 近間の馬橋、流山、布川、田川を巡り、故郷の柏原へも足をのばし、秋になってから江戸へもどりましたが、二六庵の夫婦者は、以前として腰を据えたままです。

「どういうことですか? わたしとしてもこれ以上は待てませんよ」

 曖昧な野逸に膝を進めると、ようやく本当の理由を明かしてくれました。

 葛飾派に古くからいる口うるさい連中が、おいらが竹阿の直弟子を名乗っていることを取り沙汰して、二六庵に住むのも怪しからんと言っているというのです。


 ――そういうことだったのか。

 ようやく得心がいきました。

 かつての句会で、こてんぱんに酷評した、底意地のわるい顔がよぎりました。

 おいらを疎み、おいらの活動を面白く思わない人間が、たしかにいるのです。

 披露した二冊の句集をことさらに無視されたわけも、その辺にあるようです。

 ――なんとまあ器の小さいことよ。

 江戸のちっぽけな結社で威張りくさっている連中に対し、おいらには、広い娑婆を見て来たのだ、優れた俳人たちと交流してきたのだという自負がありました。

 あんな連中に頭を下げてまで、あばら家にしがみつくつもりはありません。

 葛飾派とは金輪際、きれいさっぱりとおさらばだ。

 引導を渡される前に、こっちから出て行ってやる。

 てめえらは、死ぬまで井の中の蛙でいるがいいさ。

 おりからの時雨に肩を窄めて木賃宿へ急ぎながら、おいらは花札の猪鹿蝶を置くように訣別の言葉を並べてみましたが、もうひとつ丹田に力が入りません。


 おいらを縛っている不安の正体は、

 ――では、どこへ行けばいいのか。

 まさにそのことでした。

 俳諧師として上を目指すと気負いこんでみても、これといった手立てが見つかりません。ほかの結社に入るにしても、どこが向いているのか見当もつきません。

 ――あいつは飯をたかりに来る。

 例の会釈無視の一件以来、そう思われないように、一定の距離を保っている夏目成美は、こちらから教えを請えば、相変わらず卒なく遇してはくれるでしょう。

 でも、自分以外には興味のない人ですから、俳壇の一匹狼としての道を示唆してくれるわけではありません。せいぜい句の添削をしてもらうのが関の山でしょう。

 男ひとりの住まいぐらい、なんとでもなります。

 問題は、今後の行き先を示してくれる標でした。



19

 

 いまをときめく医師で俳人の、

 ――鈴木道彦。

 人となりの一端をつぶさに話してくれたのは、縄張(しま)のひとつ、上総からもどって来たばかりの露光でした。

 お内儀さんもご承知と思いますが、現代の江戸俳諧の二大勢力は、天明期の人気を二分した雪中庵大島蓼太、そして春秋庵加舎白雄(かやしらお)の系統です。

 それに比べれば、些末の葛飾派など物の数にも入りません。

 まぎれこんだ句会の末席でこっそり観察していたという露光によれば、

「やっこさん、いかにも宗匠然として陣取っていやがってね、われ先に句を見せに来る弟子たちの添削を、鼻先であしらうようにさばいていたぜ。いやあ、聞きしにまさる人気ぶりでねえ、あの体格にあのご面相だ、まるで歌舞伎役者だったぜ」

 ということでした。

 面識はないものの、夏目成美の勧めで『さらば笠』に一句をもらったことがあるおいらとしては、間近に聞く道彦の名声ぶりに、平静ではいられませんでした。

 たしか先方のほうが五つ六つ年上だったはずですが、東方がのんびり西国各地を歩いているあいだに、相手は江戸の一大結社の巨匠にのし上がっていたのです。

 結社を率いるどころか、江戸では孤立し、辛うじて故郷の柏原に弟子らしきものがふたりいるきりのおいらです。この大差はどこから生じたのでしょうねえ。

 つい先年まで、ほとんど同列に立っていたふたりが、ですよ、お内儀さん。


 ――しまった、遅れを取った。

 おいらは率直に後悔しました。

 やはり江戸を六年も留守にしたのはまずかった。

 そこにいない者は、日々、忘れられていく運命にあるのだ。

 でも、ひねくれ性が身に着いたおいらは、すぐにこうも思い直しました。

 金銀の豪奢な縫取りを纏い、肉づきのいい頬を光らせていたという道彦に対し、相変わらず食うや食わずで、米びつの底を気にする、あばら家暮らしのおいら。

 それというのも、あいつは江戸の武家育ちで、おいらは出稼ぎの田舎者だから。

 そうとでも思わなければ、沸々と湧き起こる妬心に苛まれ、夜も眠れません。

 

 医師がなんだ。

 金持ちがなんだ。

 巨匠がなんだ。

 ――だが、俳諧では負けんぞ。

 それだけがおいらの支えでした。

 これを言うと、負け惜しみに聞こえるかもしれませんが、実際の話、つくる本人と同様に、上辺だけ煌びやかに飾った道彦の句には、俳句にとってなにより大事な心あるいは志といったものがありません。だから、読み手の胸に響かないのです。

 ――ふうん、で、それがどうしたって? 

 そう問いたくなるような、浅い句ばかりなんですよ。

 たしかにある種の技に長けていることは認めますが、

 ――どんなもんだい、おれの腕前は。

 と言わんばかりに大向こうの受けを狙った、外連味たっぷりの句なんですよね。


 

20

 

 おれはごめんこうむるが、将来のあるおまえさんは会っておいたほうがいいぞ。

 意外に後進思いの露光の勧めに素直にしたがい、道彦との対面が適いました。

 仲介役の成美に指定された茶屋に行ってみますと、ほかにもうひとり、一瓢(いっぴょう)こと谷中本行寺の日桓(にっかん)上人が同席していました。

 まだ三十歳そこそこですが、太った身体に丸い顔をてらてら光らせ、傲岸な態度を隠そうともせぬ道彦とは対照的に、やわらかな笑顔が印象的な青年美僧でした。


 おいら、会う前から、どうもいやな感じがしていたんですがね、実際に対面してみますと、案の定またはそれ以上と申しますか、露光から聞いていたのよりはるかにアクの強い、似ても焼いても食えない男だったんですよ、道彦というのは。

 初対面のおいらに対し、いきなりなんて言ったと思います? お内儀さん。

「あんたが一茶さん? あんたねえ、六年も上方でなにをしていたんです?」

 と、こうですよ。

 非礼にもほどがあるでしょう。

 成美が取り成してくれなかったら、席を立つところでしたよ、おいら。

 ところが、道彦ときたら、こちらの気持ちなどまったく斟酌せずに、

「あたしに言わせればね、せっかくの持ち物を上方へ捨てに行ったようなものだ。あたしの句も入れてもらった『さらば笠』にしたって、上方はともかく、江戸では通用しませんよ。わざわざ編むだけ無駄だったんですよ、あの程度のものは」

 泥団子を叩きつけるように、ぴしゃっと決めつけてくるのです。

「というのもね、あんたが葛飾派の執筆をつとめ始めたころは、あたしとしては、かなり注目していたんですよ。句もいいし、これはうかうかしていられないとね」

 つぎになにを言い出すつもりか、おいらは思わず拳に力を入れました。

「ところがなにをどう思ったものか、とつぜん西国へ行ってしまった。そして六年ですよ、六年。そのあいだに、江戸の俳諧も変わるとは思わなかったんですか?」

 痛いところを突かれ、おいらとしては、ぐうの音も出ませんでした。

「あのまま葛飾派に残っていたら、いまごろ押しも押されもせぬ重鎮になっていただろうに、いささか読み違えましたな、潮目というやつをね。わっはっはつはっ」


 言うだけ言うと、道彦は冷めた茶を一気に飲み干しました。

「さあてと、あたしはつぎの用がありますので、これで帰らせてもらいますよ」

 重そうな身体をよっこらしょとばかりに持ち上げると、

「わるく思いなさんなよ。肚に一物も二物もないのが、このあたしですからな」

 自分褒めを置き土産に、さっさと帰って行きました。

 

 残された三人に気まずい沈黙が流れました。

 苦さを救ってくれたのは年若の一瓢でした。

「いやあ、たいへんな方ですねえ」

「まあねえ、あれくらいの押しがないと、大結社の総領はつとまらないでしょう」

 どこの派にも属すつもりがない成美は、冷めた感懐を口にします。

「あれはあれでしょうか、初対面の一茶さんをひとまず叩いておこうと、そういうことなのでしょうか」

 言い淀みながら、一瓢はどこまでもおいらに気を遣ってくれます。

「あの人にとっては居合い抜きみたいなものなのでしょう。どっちが先に抜くか」

 さらっと言い放った成美は、あらためておいらに目を向け、

「あまり気にしなさんな。あの人はね、ああいう人なんです。自分の相手ではないと見てとると口を閉ざしているが、互角か、それ以上と見た相手には、ここ一番の気合で機先を制する。逆に言えば、あなたという存在が怖いんですよ、あの人は」

 妙な励まし方をしてくれました。

 けれども、ここまで強烈な人物に会ったことがないおいらの中に、笊に丸まっていた蛸からいきなり墨を飛ばされたような、なんとも不快な後味が残りました。



21

 

 こうして鈴木道彦という人間が、否応なくおいらの中に住み着いちまったという次第なんです。

 ずっと一緒に泣いたり笑ったりしてくれているお夏ちゃんとは別のかたちでね。

 これはおいらの僻みと思ってもらってもいいんですがね、お内儀さん。

 いわゆる公家顔とでもいうんでしょうか、細い筆で眉の一本一本まで描いたような顔立ちの道彦は、それを裏切るような堂々たる体躯のうえ、天性の美声の持ち主でもあったんですよ。そう、野郎のおいらまで耳の奥の繊毛をねぶられるような。

 お聞きのとおり訛声のおいらは確信しましたね、

 ――やっぱり本当だったんだな、あのうわさは。


 いえね、与太話が好きな句仲間から聞いていたんですよ。いつも大勢の女たちに囲まれている道彦には、若いのから大年増までの女弟子や、華道や茶道、謡の師匠たちとの艶聞が絶えないってね。富も名誉も才もすべてをあわせ持つ成美ですが、そこにさらに艶を加えたのがやっこさんですからねえ、敵いやしませんよ。

 あれでございましょう、お内儀さん。女は男の低い声に惹かれるとか。

 やっぱり? ほほう、お内儀さんにしてもね。さようでございますか。

 ちなみに、成美の声は男としては相当に甲高いほうですからね、申しちゃあなんですが、女には好かれません。あれなら、おいらのほうがましというものですよ。

 いや、まいったなあ。そんなに笑わないでくださいよ。

 これでもおいらとしては真剣なんですから。

 だって、そうでしょう。あちらさんが持っているもののなにひとつ、おいらは持ち合わせていないんですよ。なんともかんとも忌々しいったらありゃしませんよ。

 それもあって、おいら、あの男が苦手なんですよね。

 ついでに申せば、あの男が捻り出す気取った句もね。


 しつこいようですがね、お内儀さん、句は心です。

 どう誤魔化しても、たった十七文字が詠み手のすべてを語り尽くします。

 ところが、銭や力のある者には、だれも本当のことを言ってくれません。

 追従まみれで、てめえを振り返る機会がねえから、凡庸を勘ちがいする。

 だけどね、お内儀さん。

 お天道さまはちゃあんと見ていなさるんだ。

 やがては時間という濾し紙が、句の本当の価値を決めてくれますからね。

 だれがなんと言おうと言うまいと、名句は自ずから人びとに愛されます。

 ――死んじまったら、大結社の総領も市井の放浪俳諧師も関係なく、残された句がすべて。

 その辺ばっかりは妙に平等にできているんですね、この娑婆も。

 そう思えば、道彦の慢心も、ひとつの悲劇あるいは喜劇かもしれませんがね。

 なあんて、偉そうなことを言っちまいましたがね、お内儀さん。

 そう言うおいらにしても、人様のことは言えやしません。

 評価を気にするあまり、心から湧き出た句に蓋をし、宗匠の気に入る句を詠もうと自分を捻じ曲げていた、ひところのおいらにしても、同じ穴の貉ですからね。



22

 

 油屋の立砂を馬橋へ訪ねたのは、またしても食いはぐれたときでした。

 てめえで選んだ俳諧の道とはいえ、食わしてくれる結社ひとつ持つでもない身。江戸で成美の世話にもなり尽くしたときの頼みは決まって馬橋の旦那さまでした。

 惨めなおいらを、旦那さまはいつものような温顔で迎えてくださいました。

 ところが、俳諧談義の最中に倒れられ、そのまま亡くなられてしまったのです。

 ぐしょぐしょ泣き通しで通夜と葬儀、初七日法要に参列したおいらに声をかけてくださったのは、旦那さまの忘れ形見、ご長男の斗囿(とゆう)さんでした。

「ことさら一茶さんを大事に思っていた亡父のために、悼みの文を書いていただけませんか」


 大恩ある旦那さまを偲んで思い出の文を認め、

 ――炉のはたやよべの笑ひがいとまごひ

 と締めくくると、また涙が突き上げてきました。

 使用人に過ぎないおいらを、身内のように気にかけてくださった旦那さまです。

「大丈夫かい? 食っていけるかい? ひとりでやっていかれるかい?」

 年中ご心配くださり、近隣のたくさんの旦那衆をご紹介くださいました。

 おいらの一番の縄張(しま)になった常総も、ひとえに旦那さまの地縁、俳縁のおかげです。身寄りのないおいらとしては感謝しても感謝しきれないお方でした。


 お名残り惜しいですが、さすがに四十九日までというわけにはまいりません。

 人様に飯を食わせてもらう俳諧師は、引きあげどきの見極めが肝心です。

「それでは、わたしはこれで」

 斗囿さんに暇乞いすると、

「失礼ですが、いただいた挽歌のお礼に少しばかり」

 持たせてくださった包みには、半年はゆうに暮らせる金子が入っていました。

 さすがは旦那さまのご子息、なさることに卒がない。これなら油屋も安泰だ。


 安心して江戸へもどる道すがら、おいらの中に、ひとつの計画が生まれました。

 ――そうだ、故郷の北信濃にも俳諧の地盤をつくっておこう。

 持って行きようによっては、常総と並ぶ有力な縄張に育つかもしれません。

 と申しますのも、先ほどお話しましたように、入門を頼まれた者が二名ほどおりましたし、江戸では完全黙殺された格好の二冊の句集を、駄目もとで贈っておいた柏原近辺の人たちから、予想外にたしかな手応えが届き始めていたからです。

 ご贔屓筋が多い常総にしても鄙びた土地柄ですし、

 ――おいらにはやっぱり田舎のほうが合っているのでは?

 心の奥底のどこかで、そんな気もし始めておりました。

 ただ、申し上げるまでもないことですが、この思いつきは帰郷を意味しません。

 故郷での地盤づくりは、やがて江戸で一門を構えるときの伏線のひとつであり、

 ――伏線は多いほうがいいだろう。

 ただ単にそんなつもりだったのです。



23

 

 期待どおり、柏原近辺の俳人たちは、江戸帰りの宗匠として迎えてくれました。

 とりわけ、造り酒屋、桂屋のあるじの平湖は、下にも置かぬもてなしで歓迎してくれましたし、息子の二竹と、野尻宿の竹葉が正式に弟子入りしてくれました。

 土地の名士の平湖が丁重に接してくれれば、ほかの衆もそれに倣います。

 来年四十の大台に乗るおいらは、はじめて故郷にたしかな手応えを感じました。

 どういうしだいか、道彦がちゃっかり跡目を継いでいる加舎白雄が日本橋鉄砲町に春秋庵をひらいたのは、遅咲きも遅咲きの四十三歳のときだったそうです。

 それから、

 ――門弟数千!

 の大結社にまで成長させたのですから、ものすごい執念ですよね、お内儀さん。

 おいらだって、これからだ。

 ――ようし、やってやるぞ!

 忘れかけていた気力と野心が、久しぶりによみがえって来ました。


 ご承知のとおり、白雄は信濃国上田藩士の次男坊です。

 江戸へ出て、はじめ松露庵烏明(うめい)に、さらに烏明の師の白井烏酔に師事したのですが、烏明をさしおいて烏酔に傾倒し過ぎたため、烏明と、烏酔の高弟の石川某に嫉まれ、烏酔が他界すると、追放の憂き目に遭ってしまったそうです。

 松露庵を破門され、故郷へ帰った白雄は、ひそかに信濃に地盤を築きました。

 そして、やがて江戸へ舞いもどって春秋庵を開いたんですから立派ですよね。


 あらためて白雄の事蹟をたどってみると、やっぱりあれですかね、お内儀さん。

 不遇に挫けない底力が宿っているのかもしれませんね、信濃者の中には。

 むろんのこと、おいらなんぞはうっちゃっといての話ですがね。

 いやあ、またまたあ。

 やだなあ、お内儀さん、からかわないでくださいよ。

 おいらなんぞ巨匠白雄の足許にも及びやしませんよ。

 てめえのことは、てめえが一番よくわかっていますから、どうかその辺で。

 まあそれはともかくとして、平湖の屋敷から生まれ育った家へ向かう道すがら、おいらの胸は久しぶりに、頭上に広がる春の空のように、穏やかに晴れ渡っていたというわけなんです。



24

 

 ところが――

 帰省した生家には、たいへんな出来事が待ち受けていました。

「ただいま、おとっつあん。桂屋の旦那さまに、ずいぶんよくしてもらったよ」

「そりゃあよかったなあ。おめえもこの辺で認められてきたんだな、弥太郎」

 そんなことを言い合いながら、庭の茄子に柄杓で水をやっていたおとっつあんの身体がとつぜん崩れたかと思うと、そのまま、前のめりに倒れてしまったのです。

 急いで来てもらった野尻の医者の診立てによれば、

 ――たちのわるい傷寒(しょうかん=感染症)。

 助かる見込みは、ほとんどないということでした。


 その夜から、おいらは付きっきりで看病しました。

 継母と弟の専六は野良稼ぎに忙しい時期でしたから、たまたま帰省したおいらに自ずからその役がまわってきたわけです。

 もちろん、この世でただひとりの身内である父親の看病は、おいら自身のたっての望みでもありましたけどね。


 昼も夜も高熱にうなされて食い物も水も受け付けないおとっつあんは、日に日に痩せ衰えていきました。

 瀕死の病人の枕元で、おいらは妙なことを考えていました。

 ――旦那さまもおとっつあんも、おいらの到着を待っていてくれたような。

 このことは、おいらのひとりよがりではありません。

 馬橋の旦那さまの忘れ形見、ひとり息子の斗囿さんも、

「父はまるで、一茶さんがお出でになるのを待っていたかのようでした」

 そう言って、通夜から初七日に至るまで、屋敷内で顔を合わせるたびに不思議がってくれましたし、今度もまた、となると、なにかの符牒としか思えません。

 いやいや、そんなこと、あるはずがない。

 そんなことを言えば、おとっつあんも旦那さまのように……。

 頭を振って不吉な想像を追い払おうとしたおいらに、目を閉じて眠っていたはずのおとっつあんから掠れ声がかかったのは、発症から六日目の夕方のことでした。

「専六は帰ったかや」

「いや、まだだよ」

「おめえ、ちょっと見て来いや」

 ――え? 

 訝しく思ったのは、そんなことはそれまで一度もなかったからです。

 庭先へ出ると、ちょうど鍬を担いだ弟がもどって来たところでした。

「おとっつあんが、おれに?」

 弟も怪訝な顔をしました。


 土間で足を洗い、小ざっぱりした手拭いを首に掛けた弟が、神妙な面持ちで部屋に入って来ました。

 腹ちがいの息子ふたりをあらためて枕もとに並べたおとっつあんは、肚を決めたように切り出しました。

「おら、もう長くねえ」

 ――そんなこと!

 弟とおいらは同時に遮りました。

「いや、いいんだ。ついては、おらがいなくなったあとのことだが、かかさと専六のことは心配いらねえ。ただひとつの心残りは弥太郎のことだ。いい歳して、家もねえ、嫁もいねえ。おらがいなくなれば、頼るところがどこにもなくなっちまう」

 ――そんなことを考えていてくれたのか、おとっつあんは。 

 鼻の奥がつんと痛くなり、頬が、かあっと熱くなりました。

「そこでだ。いま、この場で、ぜひともふたりに言い残しておきてえことがある」

 固唾をのんで聞いている弟の喉ぼとけが、ぐびっと動きました。

「おらが死んだら、この家の財産の半分を弥太郎に継がせる。それが遺言だ」

 飾りけのない短い言葉には、有無を言わせぬ気魄が籠もっていました。

 おいらはただただ驚きました。

 まったく予想も期待もしていなかったことで、それこそ天が降って来たような話ですから、うれしいというより、びっくり仰天したというのが正直なところです。

 当然ながら、専六はちがいました。

 南蛮渡来の仕掛け人形のように、びくんと一尺ばかり跳ね上がった弟は、

「はあ? 兄貴に財産を半分だあ? そんな馬鹿な話があってたまるか!」

 衰弱したおとっつあんに、唾を飛ばして詰め寄りました。

「ちょっと訊くがな、おやじ。兄貴がこの家のために、なにかをしてくれたかい? 土ひとかけ耕したことがねえ、草一本刈ったことがねえ、その兄貴が財産の半分を相続だあ? とんでもねえ話だ。そんな無体がまかり通ってたまるかよ」

 憤激のあまりか、途中で声が裏返ったことを、おいら、よく記憶しています。

 

 おとっつあんはあくまでも静かな口調で弟を諭しました。

「弥太郎を江戸へやったのはおらの責任だ。ふんとに申し訳ねえことをした。その償いもむろんある。だが、専六、おめえも知ってのとおり、小林一族の財産は兄弟で均分する、それがむかしからの仕来りだ。おらもそれに従うまでのことだ」

 弟も負けてはいません。

「仕来りだかなんだか知らんが、断じておいらは承服できねえ。だいたいからして兄貴とは名ばかり、長いこと音信不通で、実態は赤の他人と同じじゃねえか。おらたちが懸命に築いた財産を、なんで赤の他人にくれてやらねばならんのだい?!」

 そのとき、がらっと襖が開き、ずかずかと継母が入って来ました。

「弥太郎、この卑怯者が! おらたちが真っ黒になって働いているすきに、病人になにを入れ知恵した? こそこそ裏をかくような真似をしくさって、とことん性根が腐っていやがるな、おめえというやつは。とっととこの家から出て行け!」

 白髪を振り乱した悪相が、ぐいっとおいらを睨めつけてきます。

 そのむかし、子どものおいらを怯えさせた、あの鬼の形相です。

 ――やっぱり人というものは変わらないのだ。

 ずっしんと重く切なく、おいらは思いました。

 十五年ぶりの帰郷で身内としての付き合いを復活させて以来、かつての悶着などなかったかのような対応をしてきたことは、いとも簡単に反故にされたようです。

「お、おいら、別に……」

 もごもごと弁解しかけたとき、

「この出しゃばり女! おめえが口を出すことか。おめえこそ、すっこんでろ!」

 瀕死の病人とは思えない大一喝が、家中の柱や壁を驚かせました。

 

 ええ、そうです、お内儀さん。

 この瞬間から、おいらの長い長いたたかいが始まったんです。



25

 

 そのときから継母も弟も口をきいてくれなくなりました。

 まるで当てつけのように、朝は暗いうちに野良へ出かけ、夜は星をいただいて帰って来て、おいらとは顔を合わせようともしませんし、飯も一緒に食ってくれません。孤立したおいらは、おとっつあんの看病にだけ心を傾けるようにしました。

 名医と聞けば、善光寺から医者を呼んだり、

「弥太郎や。おら、梨が食いてえ。冷てえ梨なら喉を通りそうな気がするだよ」

 そう請われれば、

「おめえ、気はたしかか? 春に梨があるわけねえだろう」

 呆れられたり嗤われたりしながら、近隣の青物屋を探しまわったり、

「うんめえぞ、おめえも舐めてみろや」

 好物の砂糖を勧められると、幼子のように佐藤壺に指を突っ込んだり。


 一方、継母と弟の専六ときたら、そりゃあひどかったんですよ、お内儀さん。

 たとえば、こんな具合でした。

 医者から禁じられている生水や酒を、病人の欲しがるままいくらでも飲ませる。

 おいらが止めると、弥太郎が邪魔すると、酔ったおとっつあんを煽り立てる。

 近所や親戚から見舞客があると、

「おらたちが働いているあいだに好きなもんを食って飲んで、病人天下ですわ」

「おやじもいい歳ですからねえ、これで逝ければ、大往生っちゅうもんですよ」

 となりの部屋の病人に聞こえよがしに、そんな話を平気でする。

 相続の件で、おとっつあんを見限ったんでしょうね、ふたりとも。


 そういえば、こんなこともありました。

 夜中に熱を出したおとっつあんのために、外へ水を汲みに行こうとしたら、意識が混濁したのか、幼子に言うように声をかけてくれたんです。

「弥太郎や。外は真っ暗だでな、井戸に落ちねえように気をつけるんだぞ」

 すると、となりの部屋で寝ていた継母がわざわざ起き出して来て、高熱で喘いでいるおとっつあんを睨みつけ、聞くに堪えない毒舌を吐いたんですよ。

「おお、やだやだ。井戸へ落ちるなだと? ガキじゃあるめえし、弥太郎がそんねに可愛いんかね? 呆れたもんだよ。いい歳した親子が、年柄年中、鳥もちみてえにべたべたべたべた引っ付いてさ、気色わるいったらありゃあしないよ」

 いやはや、なんともかんとも。

 お内儀さんのおっしゃるとおり、

 ――修羅場。

 そのものでしたね。

 

 ただね、お内儀さん。

 継母と弟の留守を見計らい、おとっつあんが渾身の力で認めてくれた、

 ――遺言状。

 やがて、援軍のいないおいらの武器になってくれる大事なものですが、おいらの胸ひとつに収め、唯一気の許せる母方の親戚にもその存在を明かしませんでした。

 ――田畑、山林、屋敷、すべての財産を兄弟で二等分する。

 そこには几帳面な字で、明白にそう認められていました。

「いいか、弥太郎。これが相続のあかしだ。おやげねえことをしたおらの、せめてもの気持ちだ。いざというときはな、これを出すところへ出すんだぞ。いいな」

 おいらは素直にうなずきましたが、

 ――二等分はまず無理だろうな。

 内心ではそう判断していました。

 けれども、配分の割合はあとで話し合えばいいことですし、大事な書付に誤りがないよう最後の力を振り絞ってくれたおとっつあんに早く安心してもらいたくて、墨痕瑞々しい遺言状を、おいらはありがたくふところの奥深くに収めました。



26

 

 ――至心信条(ししんしんぎょう)、欲生我国(よくしょうがこく)。

 真心をもって仏を信じ願い、弥陀の浄土に生まれたい。

 経文を唱えつつ、おとっつあんが逝ったのは、五月二十一日の明け方でした。

「さあ、行くぞ」

 おとっつあんは親鸞聖人に導かれて彼岸へ旅立ちました。


 覚悟していたとはいえ、おとっつあんがいなくなった家は針の筵でした。

 切羽詰まったおいらは、初七日のあと、参列者に遺言状を披露しました。

「末期のおとっつあんが認めてくれたものです」

 意気込んで広げましたが、親戚衆は当惑げな顔を見合わせるばかり。

「始まったよ。やだねえ、こんなときに不謹慎なものを見せびらかして」

「兄貴。なにもいまこの席で、そんなものを出さなくてもよかろうが」

 気色ばむ継母と弟に、本家の当主の弥市が手をひらひら泳がせました。

「まあまあ、わるいようにはせんから。わしに任せておけや」

 そして、おもむろにおいらに向き直ると、

「どれ、その遺言状とやらを見せてみな」

 はなから真面目に目を通す気などなかったのでしょう。

 酒くさい息を吐きながら、面倒くさげに一瞥した弥市は、

「ふん。弥五兵衛の字に間違いねえようだが、こんな紙切れがなんだって?」

 ぽいっとばかりに投げ返してよこしました。

 あまりといえば、あんまりな言い様です。

 亡きおとっつあんを愚弄されたようで、

「でも、おじさん、これは故人の遺志ですから」

 思わずかっとなって反論すると、

「故人がどうした。死んだ者より生きている者だ。それよりおめえはどうなんだ? 弥太郎、こういうものを残されたおめえの肚はどうだと訊いているんだよ」

 即座に弥市に切り返されました。


 ――おとっつあんの気持ちはありがたいが、均分は無理なんじゃないかな。

 ひそかに葛藤していたおいらは、うっかり返事に詰まってしまいました。

 いやあ、こういうところがおいらの脇の甘さなんですよね、お内儀さん。

 だてに歳は取っていないと見え、おいらの動揺を見てとった弥市は、

「よし、今夜はこれまでだ」

 すかさず仙台平の袴の膝をぽんと叩きました。

「それにしてもおめえもせっかちだな。初七日に相続の話を持ち出すとは、仏さんも呆れてるぞ。おめえのようにせっついたら、まとまるもんも、まとまらねえよ。覚えておくがいい」

 ちくりと蜂のような皮肉を刺すと、成り行きを見守っていた親戚衆を促して、さっさと帰って行きました。


 悔しさに眠れなかったおいらは、翌朝まだ暗いうちに家を発ちました。

 朝飯や道中の握り飯どころか、別れの挨拶すらもらえませんでしたよ。



27

 

 それから三年後の文化元年(一八〇四)。

 いまから四年前ですが、そのころ、おいらは、本所の愛宕社で別当をしながら、三畳の道具小屋に住まわせてもらっていました。

 ええ、道具小屋です。

 祭り用の弓矢とか、天狗やおかめの面とかを仕舞っておく。板の間に古畳が一枚敷いてあるきりの掘立小屋ですが、なに、食べて寝るにはそれで十分ですから。


 この道ひと筋のおかげでしょうか、江戸でも少しは認めてもらえるようになりまして、縄張の常総や下総にも弟子を名乗ってくれる人たちが少しずつ増えてはいたんですが、亡き加舎白雄の名跡を引き継ぎ、金令舎と名乗る結社を束ねている道彦のように多額の束脩(入会金)をもらうわけではありません。相変わらず旦那衆の温情が頼りの貧乏俳諧師ですから、先の見通しなど、つくはずもありません。


 ――春立や四十三年人の飯


 ふと口をついて出た句です。

 末期のおとっつあんが遺言状を書いてくれたとき、

「弥太郎。いまはいいとしても、五十、六十歳になっても放浪しているつもりか。足腰が覚束なくなったら、だれも相手にしてくれなくなるんだぞ」

 切々と説いてくれましたが、その五十歳がどんどん近づいていました。

 

 初対面でいきなり鉄拳を浴びせられた道彦とは、つかず離れずの関係を保っていました。誘われて金令舎の句会に参加したり、連れ立って句仲間のところに出かけたりすることもありましたが、歯に衣着せぬ、というより、どこかに必ず棘をひそませた道彦独特の言いまわしに、そのつど苦い思いをすることになりました。

 それでも、なんとか我慢できたのは、

 ――狭い江戸の俳句界で、決定的な敵をつくらないほうがいい。

 おいらの内なる警告に従ったからです。


 そういえば、お内儀さん。

 こちらへもときどき顔を出すという絵師の、ええっと、なんていいましたっけ。北斎? そうそう、その北斎さんにもちょこっと紹介されたことがありましたよ。

 無精髭は生やし放題だし、着物の裾はちぐはぐだし、帯なんかも巻いてんだか引き摺ってんだかわからないような、ひと口に言って、正体不明のお人でしたがね。

 あとで道彦がこき下ろすには、

「なに、絵師ったって愚にもつかぬ役者絵ばかり描いているんですから。唐の流れを引く本物の絵師とはまったくちがいます。もっとも、絵のなんたるかを知らない一般の人たちは、得てして、ああいうわかりやすいものを持て囃しがちですがね」

 それはもう、さんざんな言いようで、

 ――おいらをあてこすっているのか。

 うっかり勘繰っちゃいましたがね。

 

 一方、相変わらず微妙な距離を保っていた夏目成美から、

「あなたの句、ここ数年、めっきり貧乏句が多くなりましたな」

 ずばり指摘されたのは、本所から相生町に移転した翌年でした。


 ――梅が香やどなたが来ても欠茶碗


 たしかに、むかしは詠まなかった自嘲的な句を、いまは詠んでいます。

 それも平気でとか、さらっととかの冠なしに、いっさいの気負いを捨てて。

 そのことを成美は、百姓くさい、田舎くさいと、遠慮のない言葉で評しました。

 他者には真似のできない独自の境地とも言える。

 しかし、一歩誤ると俗に堕する危険がある、と。

 黙って聞いているおいらの中に、むくむく反発が湧いてきました。

 ――どうせおいらは、あんたたち旦那衆とはちがう貧乏俳諧師さ。

 俗に堕するもなにも、最初から俗以外のなにものでもないんだ。どこまで行っても百姓で田舎者で、金持ちの旦那衆の真似をしようったってはなから無理なんだ。

 いままでは、その無理を、無理やり重ねてきたんだ。

 ――そろそろ解き放ってもらってもいい頃合いだろう。

 言いたいこと、詠みたい句が喉元で犇めき合っていました。


 それから、もうひとつ。

 大坂の大江丸の豪放磊落な言葉も、おいらの中を駆け巡っていました。

 俳諧のはじまりは、連歌の座興だった。

 みんなで大笑いして詠み捨てて、それっきり。

 その俳諧を高尚な位置に引き上げたのが芭蕉。

 だからといって、だれもが芭蕉に従わなければいけないわけではない。

 ――詠みたいように詠めばいい。

 大江丸はそう言い放ったのです。

 葛飾派の窮屈な縛りに辟易していたおいらにとって、大江丸の唱える俳諧説は、どれほど愉快だったことでしょう。

 ですから、おいらの句風の変容を認めつつも、詠み手の心持ちが響き過ぎるのはどうかと思うと唱える成美を、おいらはいままでとはちがった目で見ていました。

 ――おいらはおいらだ。おいらの真実を詠みたい。

 氏も育ちも違うのに、成美のような句が詠めるものか。

 その晩、成美に「怖い」と評された句を、あらためて取り出してみました。


 ――木つつきの死ネトテ敲く柱哉


 お大尽にはわかるまいが、貧乏の果てには容赦のない死が待っているのだよ。

 胸に渦巻く昏い反発を、おいらは口に出して、何度も何度もつぶやきました。

 

 露光の客死を知ったのは、文化三年五月、上総の富津(ふっつ)でした。

 句会の参加者の話によると、昨年暮れ、鶴舞から大多喜に抜ける山道で枯れ芒に埋もれるようにして、雪を布団のようにかぶって、露光は死んでいたそうです。

 ひぇっと声をあげそうになりました。

 露光の末路は明日のおいらです。

 逆立ちしても道彦にも成美にもなれない以上、野垂れ死ぬしかないのです。

 ――このまま江戸にいたら、露光の二の舞だ。

 肚の底から恐怖が突き上げて来ました。

 おとっつあんが言ってくれたとおり、村へ帰ろう。それがいい。それしかない。

 おいらはこのときはじめて、本気で帰郷を考え始めたんです。

 

 え、なんですか? 

 織本花嬌のことですか。

 どこからそんな話を。

 いやですねえ、お内儀さん。

 花嬌とはそんな仲ではありませんよ。

 たしかに俳句に熱心な人で、おいらの弟子のつもりでもいてくださるようです。

 ですが、休まず句会に出て来るのが、たまたま女だったというだけで、男としてどうのこうのするつもりなど、金輪際、毛頭ありませんから。

 だいたいからして、あの人はおいらよりふた回り近くも年上なんですよ。

 いくら人目を惹く別嬪だからって、あり得ませんよ、そんなこと。

 そうですね、おいらとしては姉さん、いや、おっかさんのような感じかな。

 顔も覚えていないおっかさんを、あの人の中に見ているのかもしれません。

 いやいや、どうもこういう話は苦手ですなあ。


 

28

 

 露光の死に衝撃を受けた翌夏、弟の専六からおとっつあんの七回忌法要の知らせを受け取ったおいらは、久しぶりに柏原へ足を向けました。

 遺産相続の件で身内や親戚から受けた仕打ちが身に応えていて、葬儀以来、一度も帰省していなかったので、七年ぶりの北国街道はおいらにとって茨の道でした。

 継母や弟は、本家の弥市や親戚衆は、どんな顔でおいらを迎えるだろう。いや、それだけじゃない、継母のことだ、近所中においらの非をふれまわっているだろうから、物見高い目がそこら中から飛んでくるものと覚悟しなければなるまい。

 そう思うと、村へ近づく足が重くなります。

 でも、同時に、

 ――なに、負けるものか!

 いままで感じたことのない闘志が、沸々と湧き上がってもきました。

 おとっつあんはおいらに帰って来いと言った。田畑も家もきれいに二等分して、おいらの終の棲家をつくれ、でないとおらは安心して成仏できないと言った。

 おいらの帰郷はおとっつあんの願いだ。

 故人の思いを無にすることはできない。

 なんとしても遺言状を実行させてやる。

 均分は無理だと思ったが、相手がああなら、こっちだってとことんやってやる。

 どんな罵詈雑言も甘んじて受けよう。その代わり、おいらはどこまでも冷静沈着にかまえ、頭を冷やして、自分にもっとも有利な方策を選択しなければならない。

 ――なにしろ多勢に無勢だからな。

 向こうは束になってかかってくるが、こっちはたったひとりだ。はなから卑怯な話なのだ。いや、そうではない。おいらのうしろにはおとっつあんが付いている。

 ――いいな弥太郎、言い負かされるんじゃねえぞ。

 後妻に押しきられ、十五歳のおめえを江戸へ奉公に追いやったおらは、とんでもねえ父親だ。その償いを、いまこそさせてくれ。おめえが野垂れ死にでもしたら、おらは成仏できねえ。柏原へもどって来い。人並みに嫁をもらって幸せに暮らせ。

 おとっつあんの最期の思いが、遺言状の一言一句に詰まっているのです。

  

 生家には専六の女房と子どもが増えていました。

 七回忌法要の手紙にも簡単に触れてあったので、そのことは承知しているつもりでしたが、いざ、間近に見知らぬ若い女と乳飲み子の暮らしを目撃すると、

 ――ここはもう他人の家だ。

 後もどりできない現実に押しもどされるようでした。


 七回忌法要が済むと親戚衆は帰り、本家の弥市がひとり残りました。

「弥太郎。まだ俳諧から足を洗っていないのか。人間はな、地に足の着いた仕事をせにゃいかん。だいたいおまえは飽きっぽいところがある。江戸の奉公先だって、いくつ変わったかわからんそうじゃないか。ひとつところに我慢していたら、いまごろは左団扇だったかもしれぬのに、やれ、惜しいことをしたなあ」

 継母や弟と相談してあったと見え、最初から責めてきます。

 ――これを前置きに、相続話をなし崩しにするつもりだな。

 おいらは思わず身構えましたが、ふんだんな酒で赤黒く顔と目を染めた弥市は、言うだけ言うと大儀そうに立ち上がり、腰をふらつかせながら帰って行きました。



29

 

 その晩、頃合を見て遺言状を取り出しました。

「しつこいな、兄貴は。疲れてるんだ、いい加減にしてくれよ」

 専六は囲炉裏の灰に目を向けたまま吐き捨てました。

 だからといって、そこで引っこむわけにいきません。

「おまえとおれで遺産を半分ずつ分けるのは、おとっつあんの遺志だぞ」

「はあ? 半分だあ? 江戸暮らしの兄貴が半分もらってどうすんだよ」

「こっちへ帰って来るよ。柏原で暮らす。それがおとっつあんの……」

 つとめて冷静に答えるおいらの弁が終わらないうちに、襖の蔭で聞き耳を立てていたと見える継母が突進して来て、冬眠から覚めた羆のように咆哮しました。

 いや、お内儀さん、笑わないでくださいよ、本当なんですから。


 で、白髪を振り乱した継母は、山姥のように喚き散らしました。

「畑一枚耕したこともないおまえが、このうちの財産を引っさらっていく気かい。この盗人が! そんなこたあ、お天道さまが許さねえよ。断じて許すもんかい!」

 おいらは静かに問い返しました。

「おっかさん。お天道さまが許さねえのは、どっちのほうだい?」

 かわいそうに、赤ん坊を抱いた弟の嫁が、厨で怯えた目を泳がせています。

「この際あらためて確認しておくがな、おっかさん。おいらはこの家の長男だぜ。この家の跡取りはおいらなんだ。それを、そうでなくさせたのは……」

 不覚にもふるえそうになった声を、都合よく継母が遮ってくれました。


 いえ、そうじゃありませんよ、お内儀さん。

 あの女にそんな部分が欠片でもあれば……。

 むかし、三歳で生母を亡くした少年の、なさぬ仲のおいらに加えた甚振りを、ちょうどそのころの自分と同じ年頃の嫁に聞かれたくなかったのでしょう。

「弥太郎。おまえは生まれつき性根が腐っているんだ。なんでも人のせいにして、自分はわるくないとでも思ってんのかい? こすっからいおまえがうまいこと誑しこんだおとっつあんのおかげで、とんだ疫病神を背負いこんだもんだよ」


 おいらはそれを、とても小気味よく聞いていました。

 いえ、言い違いではありません、小気味よく、です。

 なぜって、感情の赴くまま、汚れた洗濯物を石に叩きつけるような継母の罵りは、おいらの中にあった多少のうしろめたさの免罪符になってくれたからです。

 ――そうかい。そっちがその気なら遠慮なく分捕ってやるぞ。

 てめえの中に棲まわせる底意地のわるさが、にょっきり角を突き出しました。

 おいらはそれを面白く眺めていました。



30

 

 氷のように冷えきった生家をひとまず出たおいらは、近隣の村々をまわって句会を開くことにしました。

 遺産相続の件はいつ結着がつくとも知れない状況ではありますが、もし首尾よく運んで故郷へ落ち着くことになれば、この地でも俳諧で食っていくために、江戸における常総や下総に匹敵するだけの強固な地盤を確保しておかねばなりません。


 まず最初に訪ねたのは、おいらの弟子になってくれた二竹の親戚で、面識はないものの手紙を介してのつきあいの長い、赤塩村の可候こと滝沢善右エ門でした。

 いずれ帰郷してこの地に落ち着くかもしれないと告げると、篤実な可候は、思いつく限りの俳諧趣味の人たちを紹介してくれました。

 矢立を取り出し、大事な飯の種を漏らさず書き留めながら、おいらの頭は素早く計算していました。

 万一、相続がうまくいかず、家や田畑をもらえなければ、どんなに地盤づくりをしても、常総や下総への俳諧行脚をただそのまま北信濃に移すだけのことになる。それどころか、夏目成美や馬橋の斗囿ら強力な後援者を失う分だけ、生活が苦しくなることは自明の理。かといって、道彦のように江戸で一門を構える目処はない。

 となれば、答えはひとつだ。

 なにをどうしても財産を捕ってやるぞ。

 遺言状のとおり、きっちりと半分をな。

「足腰が立つうちに村へ帰って来るんだぞ」

 おとっつあんの末期の言葉の重みを、おいらはあらためて噛みしめていました。

 

 ふた月ほど柏原の周辺部を歩きまわり、江戸へ帰って来たのは十月八日でした。

 ところが、ひと月も経たない十一月五日、ふたたび柏原へ行く気になったのは、刻一刻、遺言状の効力が失われていきそうな状況が、急に怖くなったからです。

 もちろん、いつまでと期限が定められているわけではありません。

 けれども、江戸と柏原に片足ずつ掛けたような中途半端な月日を重ねれば重ねるだけ、問題はいっそう面倒になるような気がしてきて、もっと言えば、継母と弟、ふたりを加勢する親戚衆に、寄ってたかってなし崩しにされそうな気がしてきて、

 ――こんなところで安閑としている場合じゃない。

 そう思うと、いても立ってもいられなくなったのです。

 

 当然と言えば当然ですが、生家では野良犬のような扱いを受けました。

 かつてはお義理にも愛想をかけてくれた弟の嫁も、もはや完全にあっち側の人間になっていましたし、近所の人たちも、あからさまな侮蔑の視線を向けて来ます。

 そりゃあそうですよね、お内儀さん。

 多かれ少なかれ、人様には言えない問題を抱えている村の衆にすれば、継母と弟に降りかかった災難は、どこの家にとっても明日はわが身だったでしょうからね。


 ところがどっこい、おいらも懲りない男でしてね。

 その年の暮れに、またまた帰省してやったんです。

 先方もさぞかし驚いたろうって?

 そりゃそうですよ、でなけりゃ、わざわざ江戸から出向いた甲斐がありません。

「いやあ、ひどい降りになったなあ。年越し支度もたいへんだ」

 蓑の雪を払いつつ戸を開けたら、ぽかんと呆気に取られ、ぎょっと後ずさりし、まるで雪女ならぬ雪男でも見たような顔をしていましたっけ、三人とも。ふふふ。



31

 

 そのまま正月を迎えましたが、やっぱり相続話の進展はありませんでした。

 ところが、翌二月、とつぜん専六が、江戸のおいらの庵を訪ねて来たんです。

 襖も障子も畳も、なにもかも破れ放題のあばら家に驚愕の目を瞠っていた弟が、低い声で告げるには、村代理で宿場の公事(くじ ご公儀に提出した訴状)の交渉に出て来たついでに、祖母の三十三回忌法要の知らせを届けに来たというのです。

 数年前に弟は、庄屋の承認を得て上百姓に昇格していました。

 ええ、そうです、押しも押されもせぬ大百姓というわけです。


 どこに座っていいものやらという顔をしている弟に、

「驚いたかい? そうさ、これがおいらの庵さ。なに、詫びることはねえ、大方の俳諧師の暮らしはこんなもんさ。江戸で死ぬか、旅先で死ぬか、どっちかだな」

 さらっと言ってやりました。

「まさか、兄貴がこんな……」

 思わず出た弟の本音に、おいらはすかさず追い打ちをかけました。

「だろう? 柏原では惨めな話はいっさい出さないようにしていたからな。まあ、勘弁してくれや。こんなおいらにも見栄っちゅうもんがあるからなあ、一丁前に」

「そんなこと、おら……」

 口ごもりながら弟は、頑丈な肩をすぼめるようにしています。

 そんな弟に、おいらは網を掛けてやることを思い付きました。


「ところで専六よ、江戸暮らしで一番おっかねえのはなんだと思う」

「そうだな……機嫌のわるいお侍の刀。それとも四谷怪談、かな?」

「どっちもちがうな。おめえたち土地持ちの百姓には金輪際わかるめえが、切った張ったより幽霊より、なによりおっかねえのは、厨の米びつの底が見えることさ」

 あいつも利発なほうですから、言外の意味を悟ったのでしょう。

 顔ばかりか耳まで真っ赤にした弟は、ぼそっとつぶやきました。

「あのな、兄貴。均分にこだわらなきゃいいんだよ」

 そうです、おいらの放った網に、まんまとかかってくれたのです。


 かりにも身内に対してあんまりだと思われるかも知れませんがね、お内儀さん。

 ――しめた!

 おいらは肚の中で快哉を叫びましたよ。

 まさかここまでと思っていなかった兄の極貧ぶりをはじめて目にし、かたくなに財産分けを拒んできた自分に対し、年相応のうしろめたさを感じているらしい弟。

 その甘さに付けこんでやるのです。

 それもいますぐにではありません。

 じっくり策を練る必要があります。

 七月九日の祖母の法要が、おいらの関が原になるだろうと確信しました。


 いささか、いや、かなり人がわるい、ですか?

 そうです、おいらはそういう人間になり下がったんですよ、お内儀さん。

 


32

 

 七月の祖母の法要のあと、本家の弥市を煽てて遺産分配の書付を作らせておいたおいらは、つぎに帰省した十一月二十四日、一世一代の勝負に打って出ました。

 相変わらず多勢に無勢の身がひそかに恃みとするのは、法の下の公平を期すことにおいて右に出る者はいないとして村の衆の信任の厚い、名主の嘉右エ門です。


 これは弥太郎。

 これは弥兵衛(専六)。

 弥市作成の書付を丁寧に読み上げ、

「みなさん、これでいいですな。では、ここに」

 扇子の先で署名場所を示した名主を、

「いや、しばらくお待ちください」

 おいらは、つと手で制しました。

「畏れながら名主さま。この分配では、亡父の遺言状に反します」

 七月に弥市が仕切った取り決めでは、おいらの相続が三分の一以下、弟は三分の二以上ということになっていました。むろん、おいらも承知のうえということで。

 その取り決めに真っ向から異を唱えたのです。


 果たして、名主は率直に驚いてくれました。

「なに、遺言状とな。そんなものがあるのかね?」

「親父が最期の力を振り絞って認めてくれたものです」

 おいらはおごそかに答えました。

「どれ、拝見しようか」

 居住まいを糺し、遺言状を押し頂くようにした名主は、一言一句でも読み違いがあってはならぬというように、時間をかけ、隅から隅まで目を通してくれました。

 そして、少しのあいだ瞑目してから、三人に厳然と申し渡してくれました。

「いや、あなた方もお人がわるい。こういう大事なものが存在するのならば、いまさら話し合いもなにもないわけでして。不服があれば、お上に裁いていただくことになりますが、まあ、あれでしょうな、どう見ても勝ち目はないでしょうなあ」

  

 あらためて墨を擦り、名主自らが認めてくれた書付には、


 ――取極一札之事


 惚れぼれするような麗筆の題字が記され、次いで「親遺言二付、配分田畑家屋敷左之通として田畑から山林、家屋に至る財産のすべてを均分」と明記され、最後に「文化五辰年十一月 柏原村百姓 弥兵衛 同人兄 弥太郎」と連署しました。

 そうなんですよ、お内儀さん。

 この瞬間、晴れておいらは、

 ――柏原村の本百姓。

 として正式に認められたのです。

 あんなに憧れていた百姓に、ようやくなれた、いえ、戻れたのです。


 おいらにしてやられた格好の弟は青くなったり赤くなったり忙しかったですし、かたわらの継母は山姥の形相でしたし、弥市もまた憮然たる様子を隠そうともしませんでしたが、あいつらがどう口惜しがってみても、すべてはあとの祭りです。

 まあねえ、要はここの問題ですからねえ。

 ぼんくらの弥市ごときが敵うもんですか。

 ――生き馬の目を抜く江戸に、伊達に三十年も住んでいたわけじゃない。

 その重い事実を、食うものに困らない生活を安閑と堪能してきたあいつらに痛烈に思い知らせてやったんです。いやあ、まことにもって爽快かつ痛快でしたよ。

 間もなく雪が来そうな気配でしたが、おいらの心持ちは天晴れ日本晴れでした。

 

 で、今後の身の振り方ですか?

 そうですねえ、これからゆっくり考えますよ。

 業腹のあまり家屋敷も半分よこせと言い張り、そのとおりになりはしましたが、あれだけ激しく角を突き合わせた者同士、間仕切りをしてひとつ屋根の下に住むというのも、正直、しんどい話ですし、近所の目というものも考えねばなりません。


 それにね、お内儀さん。

 いざ帰る場所ができたら、おいら急に江戸が恋しくなっちまったんですよ。

 身勝手なことは重々承知で言うんですが、なんせ三十年ですよ、三十年。

 故郷での倍の月日を過ごしたんですから、そう簡単には思いきれませんや。


 おっといけねえ、もうこんな時間だ。

 お内儀さんの聴き上手に甘え、遠慮なく長っちゃべりさせてもらったおかげで、なんかこう、胸のあたりにつっかえていたもんが、すうっと楽になりましたよ。

 ありがたや、ありがたや。

 お内儀さん観世音菩薩ですよ。

 いやいや、ほんとの話。

 この湯冷ましをいただいたら、そろそろ失礼させていただきます。



33

 

 長い話を聞き終えたお了は、茶目っ気のある瞳を明るく瞬かせた。

「ねえ、一茶ちゃん。あんた、自分はひとりぼっちだと思っていやしないかい?」

 まさに図星だったと見える。

 干からびた大豆のような顔で、田螺のような目がウロウロする。

「たしかにあんたには、どんなことがあっても味方になってくれる身内がいない。俳句のことは知らないけど、どの娑婆にも競争はつきものだから、句友だのなんだのったって、本心はわかったもんじゃない。そうも思っているんじゃないかい?」

 これもまた大いに当たりだったらしい。

 丸く盛り上げた膝がもぞもぞしている。

「でもさ、口幅ったいことを言うようだけど、あたしはね、こう思うんだよ。人間はだれもがさびしいものなのさ。たとえ傍目には満たされているように見えても、多かれ少なかれ、だれもが抱えこんでいるものなのさ、孤独っちゅうやつをね」

 一茶は曖昧に顎を上下させた。

「その点、あんたは果報者だよ。なんてったって、このあたしってえ者がついてんだからね。といっても、せいぜい白湯を出してやるぐらいしかできないけどさあ」

 短い首が大慌てで横に振られた。


「ただね、これだけは言っとくよ」

 お了はここで口調をあらためた。

「あたしはね、たとえあんたが岡っ引きのお世話になるようなことを仕出かしたとしても、あたしはね、このあたしだけはね、どこまでもあんたの味方だってこと、決して忘れちゃいけないよ」

 ――ぐう。

 猪首の喉もとで妙な音がした。

「そうさ。幼いあんたを置いて逝ったおっかさんや、最後まで心を尽くしてくれたおとっつあんに代わって、あたしはいつだって、あんたを見守っているからね」

 ぐりぐり乱暴にまぶたを擦りながら、一茶はおんおん泣き出した。

 

 そのとき、

 ――ピュッ!

 風を切る、鋭い音がした。

 平積みにした書物の表紙に、数個の小石が散らばっている。

 同時に、甲高く囃す子どもたちの野卑な声が聞こえてきた。

 ――やあい、おしな。しなのっぺい。さっさと信濃へ帰っちまえ、田舎者。

 「うぬ、こわっぱが!」

 拳を握りかけた一茶を、お了は制した。

「いいよ、放っておきな。子どもが言うんじゃない、大人が言わせているのさ」

 その代わりというのでもないが、奥で在庫整理をしていた手代の福助が、

「このがきどもめ! いつもいつも悪さばかりしやがって。今日という今日は勘弁ならねえ。全員とっつかまえて、いままでの分まで親に弁償してもらうからな!」

 優男に似合わぬ胴間声を張り上げ、おもてへ走り出て行った。

 

 晩秋から浅春までの百姓仕事が途切れる期間、街道一本で江戸とつながっている信濃国の住人は、わあっとばかりに江戸へ出稼ぎに出て来るのが、年中行事として定着している。

 はるか昔、初代さま(徳川家康)によって千代田城(江戸城)が修復拡大され、湾を埋め立てて広大な城下が築かれたときから、信濃からの出稼ぎ人は、おしな、あるいは、しなのっぺいと呼ばれ、田舎者の代表として嘲笑の的にされてきた。


 江戸から数えて二十宿目、北国街道との分岐に当たる中山道追分宿の水呑百姓の六男に生まれたお了の父親もまた、最初はそうした季節出稼ぎのひとりだったが、ある年、春になっても故郷へもどらなかった。

 ――厄介叔父。

 そう呼ばれて幼い甥や姪にまで蔑まれ、長兄夫婦の使用人として肩身の狭い一生を送るより、裸一貫、いちかばちか江戸での身過ぎ世過ぎを探る道を選んだのだ。


 籠に季節の野菜を入れて売り歩く、

 ――棒手振り(ぼてふり)。

 から身を起こし、市井で目に付く商いを転々とし、最後に貸本稼業に転身した。

 好きこそもののなんとやら。

 生来、野良仕事より読み書きのほうが性に合っていたこともあり、こつこつ精進して書物の商いを覚えると、浅草の伝法院通りに中堅どころの書物屋をかまえた。


 その店にあえて、

 ――信濃屋。

 と名づけさせたのは、不当に踏みつけられても挫けない信濃者の反骨だった。

 そんな父親と、父親が生み育てた店を、お了はこの上なく誇りに思っている。



 


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