第34話「最後の真実」

 絶体絶命という言葉が、脳裏の片隅に浮かび上がる。

 それはあっという間に、思考を支配して精神をむしばみ始めた。

 僕は今、最悪の状況下でシュウを見上げていた。

 ただでさえ小柄で華奢きゃしゃな上に、先程のダメージで足腰に力が入らない。膝が震えて、今にもその場に崩れ落ちそうだった。


「さあ、高定タカサダ。一緒に行きましょう……新たな世界を切り開くため。貴方あなたの遺産で、貴方自身が世界を塗り替えるのです。私はそのために、身をにして働きましょう」


 勝ち誇った愁の笑顔に、震えが止まらない。

 歯の根が合わずにガチガチと鳴って、悪寒が背筋を這い上がる。

 絶望に負けそうになる心を、僕は自分で必死に支えた。

 そんな時、愁の向こうで……一人の少女が立ち上がった。

 少女というよりは幼女に見える、モノクロームのゴシックロリータを着た姉だ。


翠子スイコ、姉様……にっ、逃げて! 愁は僕が! だから、逃げてっ!」


 必死で叫んだ。

 その声を追って、ゆっくりと愁が振り返る。

 そこには、先程まで妹たちを抱いてへたりこんでいた翠子姉様が立っている。

 真っ直ぐ愁を見詰める瞳には、初めて見る感情が渦巻いていた。

 それは、純然たる怒り。

 姉様は厳しい人で、僕も姉たちも必要な時は容赦なくしかられた。だが、今の憤怒ふんぬは違う……すでにもう、許して正すという包容力が全く感じられなかった。


「……愁。随分と好きにやってくれたわね」

「おやおや、お前は……まったく、高定のおたわむれにも困ったものですねえ? こんなに沢山の血筋を残して、その愛を分散させてしまった! 本来、私が独占するはずの愛を!」


 いけない、今度は翠子姉様を襲うつもりだ。

 でも、僕が伸べる手は虚しく空気をつかむ。

 悠々ゆうゆうと愁は、真っ直ぐ姉様へと歩み出した。

 そして、姉様は動かず黙って立っている。

 その桜色のくちびるが、静かに大気を震わせた。


「愁、覚えていて? 貴方……人にあるまじき非道の行いで、一人の女性の幸せを奪ったことを」

「いいえ、ちっとも! まあ、私はあの高定に唯一並び立てる人間。人ではない高みにいるも同然ですから」

「そう……どこまでも人でなしなのね。いいわ、思い出して頂戴ちょうだい。悔やんで反省する必要は……もう、なくてよ」


 そう言って、翠子姉様は視線を外す。

 そして、涼やかな目元をわずかに細めて、精一杯僕に笑ってみせた。

 どこか慈愛に満ちて、深い情愛に澄んだ眼差まなざし。

 一番上の姉、翠子姉様は普通の女の子だ。

 二十歳の大学生だが、小学生にしか見えない一般人なんだ。

 拳を振り上げる愁を前に、なんの力も持たない。

 けど、彼女の言葉はおごたかぶる野心家の動きを止めた。


「愁、貴方はあの人の……高定の大切な娘たちを傷付けた。のみならず……!」

「……なに? いったい、なにを……お前は」

「私の顔をよく御覧なさいな。忘れたとは言わせなくてよ? たとえ忘却ぼうきゃくの彼方に記憶が消えていようと、その罪を私はこの身に刻みつけてきたのだわ」

「――ッッッッッ! ま、まさか、お前はっ! いや、馬鹿な……しかし!」


 愁の動きが止まった。

 その背中で盛り上がった筋肉が、震えている。

 そして、僕さえも驚愕きょうがくに言葉を失った。


「私は御暁ゴギョウ家の長女、翠子……またの名を、翡美子ヒミコ。この世で唯一、あの人と愛し合った人間よ。……いえ、違うわね。唯一じゃない、高定は多くの愛を知ってくれた」

「で、では……おっ、お前は!」

「そうよ! あの夜……貴方が暴力で捻じ伏せ犯した、高定の妻! それが私!」


 ただの小さな女の子が、言葉だけで愁を止めていた。

 咄嗟とっさに僕は、視線を周囲へ滑らせる。

 華凛カリン姉さんも楓夜フウヤお姉ちゃんも、なんとか立ち上がろうとしていた。満身創痍まんしんそういで、二人共苦痛に表情を歪めている。

 直視できぬ辛い光景から、僕は目をらさない。

 逸らすことはできない。

 今、最後の姉が必死で時間を稼いでいる。

 そしてその人は……僕と千奈チナの姉貴の、母親だったというのだ。

 その真実には、流石さすがの愁も動揺を見せた。

 ほんの一瞬、それは彼の良心が皆無であるかのように短い刹那だった。


「……なるほど、思い出しましたよ。ええ、思い出しましたとも。高定のような至高の存在が、どうしてただの人間の女ごときを。そう思ったら、知りたくなりましてねえ」

「泣いても叫んでも、貴方は容赦なく私をけがした……けがし切った! そうじゃなくて!」

「ええ、それはもう……ええ、ええ! 思い出しましたとも!」


 愁は身をのけぞらせて、宵闇よいやみ迫る空へ哄笑こうしょうを高鳴らせる。


「高定は人間を、人類を研究のテーマにしていました! だから、実際に人類をまず作ってみたかった……最もポピュラーで、古びた悪しき本能による生殖でねえ!」

「……私は、あの時、壊れてしまった。貴方に破壊されてしまった。それでも……千奈と麟児リンジを産むことができた。あの人の子を、死の間際に授かることができたもの」


 愁の凶行は、僕の母である翡美子を永らくむしばみ、死へと追いやった。

 そう確かに、姉様は言った。

 姉様にして母さんは、血を吐くような独白を続ける。

 母さんは、身も心も汚され、徐々に人格をはつられていった。父さんの献身的な介護の中、自己嫌悪とやり場のない憎しみにとらわれ、精神を病んでいったという。

 しかも、愁の子をはらんでしまった。

 どれほど辛かっただろうか。


「あの人は……高定は、去り際に言ってましてよ? やはり子供たちには……人には親が、できれば母親が必要だと」

「それでお前は、そんな貧相なナリになったというのか!」

「ドイツにあの人の古い友人が……いいえ、あの人を想ってくれた人がいた。私の人格と記憶はバックアップとして膨大なデータになって、遠く欧州でこの肉体に収められた」

「ハッ! 無駄なことを! 高定ほどの人物でも、くだらない研究を残してしまった!」


 違う。

 それは違う!

 僕には父さんの記憶はおぼろげだし、母さんのこともよく知らない。

 けど、翠子姉様のことなら誰よりも知ってるし、もっと知りたいことがある。

 だから、姉の全てが姉じゃなくても……家族という未来は守りたい。

 そう思ったら、最後の力が僕を奮い立たせる。


「愁っ! ……これで最後だ。このまま黙っていなくなれ! 姉様は……母さんは、多分、絶対、恐らく、確実に……それでもいいと思ってる! 消えてくれ!」


 立っているのもやっとで、叫べばのどが焼けるように痛い。

 鉄の味が口いっぱいに広がって、それでも僕は声を張り上げた。


「愁……お前が崇拝すうはいしている人は、僕の父さんは……お前になにか、言い残してはいないのか! 父さんの唯一の理解者というなら、父さんのなにを理解してるか言ってみろ!」

「……孤独」

「は? いや、父さんには母さんが! それに、ドラゴンとだって、季央キオねえのお母さんとだって!」

「わらかないんですねえ、本当に! 孤高ゆえの孤独! 天才にして超人ゆえに、凡俗の中では独り! ……だから私が必要だって、言ってるんですよ!」


 最終警告の時間が終わった。

 あっという間で、その先に交渉の余地はない。

 そう確信したから、僕はポケットへと手を突っ込んだ。

 そして、口に出さずとも伝わる想いに、ありったけの意思を込めて拡散する。違法電波状態で垂れ流されている僕の思考が、あっという間に愁に届いた。

 翠子姉様を手に掛けようとし止まり、咄嗟にこちらへ向き直る。


「馬鹿な……やめろおおおおお! 自分がなにをしているか、わかっているのか! あ、いえ、わかっているんですか! 高定、新しい肉体に生まれ直したなら、その価値は」

「さあ? 知らないね。知らないし、いらない。こんなもの、もう欲しくもない!」


 僕の手には、父の遺産があった。

 正体不明のオーバーテクノロジーが詰まった、それ自体がオーパーツのようなスマートフォンだ。それを僕はかざして、そして手を離す。

 すぐに愁が地を蹴ったが、僕に迷いはない。

 もっと早く、こうするべきだった。

 災いの元凶はこのスマートフォンと……


「やめろおおおおおお!」


 愁の絶叫を無視し、僕は地に落ちたスマートフォンを踏み潰した。

 ありったけの力を込めて、木っ端微塵に踏みにじったのだ。

 僕のこの身体の異変も、もう治せない。特効薬があるような、そんな感じのデータを見たが、まだ詳細を読んではいなかった。ヒゲも剃れればお湯も沸かせる、これ一つで人類の進歩は一気に数世紀早まるかもしおれない……そんな叡智えいちの結晶を、僕は破壊した。


「あ、ああ……なんて、ことを……それは、それが……ああ! ああああっ!」


 頭を抱えて愁が崩れ落ちる。

 あらん限りの声を張り上げ、嗚咽おえつに震えながら……顔を上げた時、僕はどうにか身構えた。殺意と敵意を凝縮させたような眼光が、僕だけをにらんでいた。


「お前は、お前はあ! なにをしたかわかっているのか! ……お前は、高定じゃないな! 何故なぜだ、どうしてなんだ! いつから! こんなことは許されない! こんなことをするのは、私の愛した高定じゃない!」

「最初から言ってるだろ、愁。僕は、麟児。高定と翡美子の息子、御暁麟児だ!」


 えた。

 身を声に叫んだ。

 けど、それで僕の最後の力が薄れてしまう。

 懸命に意識を保って、それでも自分の脚で立っていた。

 激昂げきこうに怒り狂う愁が、眼前に迫る。

 だけどね、僕には……僕にはやっぱり、頼りになる姉がいたんだ。

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