第1話「それはとても静かに」

 僕が中学校に行かなくなって、二ヶ月が過ぎた。

 季節は巡り、夏……もうすっかり、今の生活にも慣れた頃だ。

 今日も今日とて、玄関の前で登校する姉たちを見送る。


麟児リンジくん、これ……お財布さいふ。買い出し、よろしくて?」


 僕は酷く小柄な姉から、財布を受け取る。

 今日もゴスロリ完全武装で、ビスクドールみたいな女の子が目の前にいた。


「うん。姉様ねえさまも気をつけて」


 大学の研究室へ出かける姉に、僕は大きく前傾する。

 いつも通り、真っ白なほおくちびるで触れた。

 これをしないと、この姉はむくれてねるのだ。彼女は我が家の大蔵省きんこばんなので、機嫌を損ねると食卓が少しわびしくなってしまう。


「ん、じゃあ行ってくるわ」

「行ってらっしゃい、姉様」


 小さく手を振り、日傘ひがさをさした姉を見送る。

 次の瞬間、突然背後から抱き締められた。

 今度は見上げるようにして振り返る。


「麟児、朝ごはん美味おいしかった。お弁当も楽しみだね」

「お粗末様そまつさま姉貴あねき。お昼のお弁当、期待してて」

「ああ。じゃ、ちょっと行ってくる」

「気をつけてね……主にファンの子たちに。行ってらっしゃい」


 次の姉は、いつも僕を後ろから抱き締める。

 これをやらないと、学園のマドンナあつかいに対するストレスが抜けないそうだ。

 今日も凛々りりしく颯爽さっそうと、イケメン過ぎる姉は高校へと向かう。

 同じ学校に通う姉が、他にもあと二人。


「っべー、マジやばじゃん? ――っとっとっと、りんりー! 万歳ばんざいして! いつもの万歳!」

「ん、ああ、はいはい。姉さん、忘れ物はない? 今日、体育あるよね」

「モチのロンだぜ、うははは! さて、っと!」


 茶髪をツーサイドアップにした眼鏡めがねが、突撃してきた。

 そう、猛突進もうとっしんである。

 両手を上げた僕に抱きつき、胸に顔をうずめて深呼吸。


「はぁ、りんりーのニホイ……やされる、オトウトロンが補充されるぅ」

「それ、どんな物質?」

「ん! あたしちゃんのエネルギー源だな、うっし!」


 はじかれたように離れると、姉はウィンクして走り去った。

 いつもキラキラしてる印象があるけど、今日は朝日と青空が一段と姉をきらめかせていた。

 そして、最後の姉がのっそりと玄関から出てドアを閉める。


「うう、学校行きたくないよぉ」

「駄目だよ、お姉ちゃん?」

リンちゃんだって、中学校行ってないしさ、えと、その、わたしもぉ」

「僕は自発的に行ってないんだけどね」


 ちょっと色々あって、僕は不登校エスケープ中だ。

 でも、それを理由にしても駄目だよね。

 せっかく早起きして作ったお弁当も、無駄になっちゃうし。

 重い足取りで歩く姉に、そっと僕は手を伸べた。

 そして、カチューシャで前髪をあげた頭を優しくでる。


「エヘヘ、いつものやつ……わたし、元気出す。適度に、適当に頑張れる」

「ま、無理はしないで。行ってらっしゃい、お姉ちゃん」

「う、うんっ。行ってくるね……麟ちゃんも気をつけて」

「えっと、なにをかな」

「知らない女の子についてっちゃ駄目だよ? 他の女の人に近付くと危ないからね」

「それは……うん、確かに危ないね。お姉ちゃんが危ない。気をつけるよ」


 この姉はぽややんと優しいおっとり気質だが、時々ドス黒いオーラを発してくる。

 主に、僕が他の女性といる時に。

 だが、ようやく最後の姉を送り出して、僕は全身で伸びを一つ。


「ん、んーっ! よし、洗濯から取り掛かろうかな」


 主夫しゅふ真似事まねごとをしてみてるけど、まあ結構充実してる。

 今まで四人の姉たちに任せっぱなしだったから、今は逆に全ての家事を僕がこなしていた。これがやってみると面白いし、非常に奥深い。

 そんな訳で、今日も僕の一日が始まろうとしていた、そんな時だった。


「――ちょっと、キミ。そう、そこのキミよ」


 突然、姉たちを見送った道とは逆方向から呼び止められた。

 振り向くと、そこにはスーツ姿の少女が立っている。そう、僕とそんなに歳が違わないであろう、女の子だ。

 目も覚めるような美貌びぼうという言葉の、その意味を僕は改めて知った気がした。

 いつもの朝とは違う、新しい朝を感じた程だ。

 彼女は長い金髪を静かに揺らして、キャリーケースを引きながら近付いてくる。


「キミが御暁麟児ゴギョウリンジね? ……ちょっと、本当にキミが? ふーん、ふむふむ」


 挨拶もないまま無遠慮ぶえんりょに、謎の少女は胸を突き出すようにしてめつけてくる。

 好奇心と探究心、そしてほんのちょっとの猜疑心さいぎしん

 それらが入り交じる彼女の瞳は、菫色ヴァイオレットに輝いていた。


「はじめましてね、麟児クン」

「はあ、どうも」

「感動の再会、とはいかないか。ね、?」

「……は?」


 今、なんと?

 弟クン……というのは?

 僕の姉たちはみんな綺麗だが、こんな人は初めて見る。

 いぶかしげに思って固まる僕を見て、フフンと彼女は鼻で笑った。


「ああ、やっぱり見た目通りなのかしら? ……違うわよね、男の子よね?」

「ええ。それはそうなんですが」


 よく女と間違われるけど、いつものことだから慣れてる。

 やっぱり、外国の人の目にもそう見えるんだ。


「そう、ならやっぱりキミがボクの弟クンってことね!」

「は? ――ああ、はい。

「また? またってなに、またって!」


 全然問題ない、これも慣れっこだから。

 そう、

 天涯孤独てんがいこどくになった僕の家には、気付けば四人の姉が住むようになっているのだから。

 だが、少女は一瞬だけ目元をけわしく強張こわばらせた。

 でも、すぐに鋭いまなざしを引っ込める。


「……そう、先手を打たれたって訳ね」


 そう言うと、彼女は豊かな胸に手を当て、静かに深呼吸。

 そして、僕を真っ直ぐ見詰めて話し出す。


「ボクは季央キオ。季央・ツェントルム。助けに来たの……麟児クン、キミをね!」


 そう言って彼女は……季央は不敵に微笑ほほえんだ。

 その目は勝ち気に見えて、勝負以前に敵はナシと言わんばかりだ。

 まるで無敵に素敵な瞳だった。

 僕の春からの自主休学は、一足先に波乱の夏休みを迎えようとしていたのだった。

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