第16話 令和弐年の三月九日は『カクテル』で感情の話

 川端康成の小説を開きながら、私はバーにいた。

「雪国を一つ」

カクテルの一つだ。この名前のカクテルを知ってから、一度やってみたかった振舞いだった。マスターは一呼吸おいてから、その違和感を感じさせないように、かしこまりました、と注文を受けてくれた。後から聞けば、雪国自体は滅多に出ない注文だそうで、利き腕のスタッフに作り方を確認したらしい。

 ウォッカ、ホワイトキュラソー、ライム。緑色のチェーリーに少しのグラニュー糖

がグラスの淵に付けられた。甘い水なのに、口の中でスッと溶けるのは雪の如し。後から脳天へ突き抜けるアルコールの清涼感は爽快で、後味に残るのは微かなチェリーの香りで、それは春を予感させるに留まっていた。全体としては清涼感が勝っていて、まさしく雪国の名前にふさわしい印象だと思った。

 水曜日は高級バーも空いていた。マスターは静かに私の前に立っていてくれた。バー素人の私を、優しく守ってくれているようであった。その心遣いがあって、私は川端康成の文庫本を見せて、照れながら経緯を話すこととなる。マスターは納得したように笑顔になった。

「こんな客いないですよね。あー恥ずかしい」

照れ隠しで私が言うと、マスターはいえいえ、と。

「昔、いらっしゃいましたよ。私がまだ駆け出しの頃でしたね」

そう返してきた。私は思わず、

「え、どんな人ですか?」

と興味もないのに聞いてしまった。しかしマスターの表情がふっと変わり、宙を見上げて記憶を手繰る様子が素の人柄の良さを感じさせて、もっと話を聞きたいような気持ちになった。

 マスターは難しいですね、と前置きした。

「お客様のように、落ち着いた雰囲気の女性でしたよ。こういったお店に通うような様子は無い雰囲気でしたが、全く臆することなく楽しまれていきました。日向のような明るさを纏っていらっしゃいました。一方で、鋭い眼差しもお持ちで、一筋縄にはいかないような――そうです、そのカクテル、雪国のような」

マスターは手繰ってきた記憶を私の前に並べると、目の前にあった雪国を見て、合点がいったような目でそう言った。

「雪国、ね」

私は相槌を打って、雪国をもう一口味わった。二口目には、砂糖の甘さは感じない。チェリーの味の方が強くなっている。春を強く感じ、雪解けを感じさせる。物語性も含んでいるようだ。

「面倒な人だね」

私は思わず口に出した。マスターはぎょっとした表情に一瞬なってから、静かにグラスを磨き始めた。


 会話が途切れたのは当たり前で、謝ろうかとも思ったけれど、本の雪国に目を落とした。

 不倫をするかしないかの男の話だ。初めは女性に夫がいたが、最後には亡くなってしまう。男女の細かい機微を繊細に描き出している。そう説明されて私は文学史で学んだ。

 人間の心理は複雑で、様々な感情が配合されて感情になる。雪国は、主役の男の一目ぼれ、その恋心を描き出している。それは純粋な気持ちだけでなく、不倫と言う道徳観念で否定する心もある。その一方で、旦那さんが病で亡くなれば許される可能性に希望を見出してしまう点もある。相反して交差する感情が綺麗に折り合わさって、物語の大筋を彩っている。

 カクテルの構成はウォッカが4、ホワイトキュラソーとライムが1。恋心が四、道徳と希望の一。舞台設定を彩る雪国と時の流れをチェリーと砂糖が見事に表現しているようだ。

「面倒な人だね」

私は最後の一口を飲み切って、呟くようにもう一度言った。

「まったくです」

マスターはにっこりして私の会計を受け取った。


 一杯と席代を払って私は席を立った。夜の十時、まだ席を立つには早かっただろうか。空っぽの気持ちに、次はどんな彩りを注げばいいだろうか。そんな気持ちで眠るのも悪くないのかもしれない。

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