第8話 令和弐年の二月二十五日は『籠の中の鳥』でファンタジー③

 ダンは走りこんで馬車へ手を伸ばす。しかし、シエラは杖を構えてその場で制止させた。

「ごめんね。貴方がダンならわかるでしょう? そこで止まって。」

ダンは言われるがまま止まった。しかし、後ろを気にしている。

「分かってる。けどな、盗賊がすぐそこまで来てることは言うぞ」

左肩に生々しい傷を負いながら、ダンは息を切らせていた。

「……良いから、これは必要なことでしょう?」

しかし、シエラは頑なにダンを止めた。馬車内のポーリーとセイムに目線を送りながら、ポーリーは杖に精神を集中させる。掲げられていた杖が、ぼうっと熱を帯びる。意識を集中させながら、それでいて静かに自身の気持ちを落ち着かせた。シエラは呪文の一種として、心の中で言葉を発した。

「我、誓約に基づき混沌と暴走を払わむ。無我の境地にて、無私の境地。我、ここにありてここにあらず。ラーム・ストラベム・リーヤカーナ。我、無我の境地にて、無私の境地。ラーム・ストラベム・リーヤカーナ。」

シエラはゆっくりと息を吸い、息を吐く。何度も繰り返す。その内、自分を取り囲む空気が、しんと温度を下げたように感じた。背筋がスッと伸びて、目が冴えて、ミントのような清涼感が鼻腔をくすぐり、気持ちのいい風が頬を撫でた。その範囲はゆっくりと広がっていき、頭の中を一陣の風が吹き抜けたような気がした。

 眼を開く戸、ダンはそこにはいない。ただの道が広がっているだけ。

「やっぱりか。久々にドジ踏んだわ。」

自分に言って、シエラは肩を落とす。そうも言ってられないので馬車へ戻った。

「お疲れ様。」

セイムはシエラに手を伸ばし、馬車の中へと引きいれる。

「ありがとう。あと雨が来るかも。できる限り晴れるように頑張るから、二人も手伝ってくれる?」

「もちろんだとも。その為に僕がいるのだからね。」

セイムはシエラの落ち込んだ様子を見て、我が出番と意気揚々に竪琴を構えた。セイムが奏でる音楽に合わせて、ポーリーは軽快に馬を発進させた。

 カタコトコト――♪――

 シエラが言う通り、雨は降りだした。それほど強い雨ではなかったが、道がぬかるみ始めると、馬は当然走りにくい。霧も濃くなり、遠くが見渡せなくなるのは致命的だった。シエラは必死に地図を取りながら、いま進んでいる方向を綿密に確認する。川は広くなり林道も広がっているので、港町へ近づいていることは間違いないはずだ。しかし、それでいて進んでいる実感が少ないのは、”今の世界の常”かもしれない。


 シエラはチルバードを受け取った時点で、嫌な予感がしていたのだ。その嫌な予感は、今の世界において致命的なのである。

 この世界は、謎の薄い層が覆っている。その層は人々の精神――つまり想いや考え――に反応して、それを具現化するスクリーンのような層だった。それはただ映し出す映像のようなものも、思いの強さ次第では現実の空間を捻じ曲げ、それこそ、現実に存在することとなる。

 そのため、層の存在が始まった瞬間、人々が理解していない間は、人が集まっている所では連鎖的な反応が起こった。恐怖を見た人間が死を連想すれば、さらに強烈な恐怖を生み出した。偶然ホラー映画を目にしていた人の恐怖がゾンビを大量発生したり、怪獣映画を見ていた人が大都市に怪獣を呼んでしまったのだ。

 それによって、世界各地で都市は崩壊した。今では、謎の層が存在することとその特性にわずかだけ理解が進んだものの、人々は極力物事を考えないように過ごし、そしてできる限りお互いの距離を取り合って、平穏無事に過ごすしかないような状態でしかない。

 ゆえに、”行商人”は特異な人物として重宝されている。

 行者は精神の起伏が薄かったが為、層に反応しにくく、ありのままの世界を歩める人間として社会を支えている。今は差し支えなく移動のできる数少ない社会を繋ぐ要であった。

 そしてもう一人、吟遊詩人。こんな世界でも深く考えず、楽観的に過ごすことで気分を紛らわせることができる稀有な芸術家だ。

 シエラは改めて痛感しながら、馬車で深呼吸をした。セイムが奏でる穏やかな音楽に身を寄せながら、静かに目を閉じて、馬車の揺れるがままに身を任せた。


 すっかり大人しくなったチルバードを横目に、自然な形でこの予感が消化されるよう呼吸を整えた。頭をすっきりさせるよう努めた。ほんの少しでも解消されたのであれば、ダンが無事に戻り、何事もないように追いつくよう祈るのだ――。

「――いや、祈っちゃダメなんだってば。」

 苦笑しながら、馬車の後ろからダンが片手をあげて近づいてくる様子を見てしまう。”これはとても分かりやすい層による幻視”、シエラは目を閉じて、いち一度深く深呼吸をするのであった。


 チルバードが長く鳴く。

「ピーヒョロー、チチチ。」

春の鳥のように澄んだ、笛のような鳴き声だった。セイムの竪琴に合わせて奏でられる。シエラは資料を紐解くことなく、吉兆の鳴き声だと直感した。

 ダン不在のまま、漁村はもう目の前に見えている。


*続く*

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る