兄:誤魔化していた感情

 目覚ましのアラームが鳴る前に、人の動く気配で目が覚める。もう何分かのことだったので、そのまま起きることにした。

 食卓テーブルの上にはスポーツドリンクとゼリーの空が置いてあって、朋生がいた気配がする。また寝たのかと、ごみとスプーンを持ち上げたところで、朋生が戻ってきた。


 パジャマが変わっていて、上気していた頬は今度は青白く見える。解熱剤が効いたんだろうと手を伸ばしてみたけど、布団の熱が手に残っているのかよく分からない。額をつけてみれば、まだ少し熱いのが分かった。

 すぐ離れたものの、朋生は目を見開いて固まってる。兄の範疇ではなかったかもしれない。少し反省して、特別なことは何もなかったかのように調理にかかることにした。


 念の為、スマホでレシピを確認しながら作ることにする。

 「食べられるものしか作らない」と宣言したからには、失敗したくなかった。

 調理台の上に置いてあった鍋の蓋を開けてみて、中に何も入っていないのを確認する。朋生が出しておいてくれたんだろう。後は計量カップと、調味料、冷蔵庫から使えそうな玉葱と人参を出しておく。

 そうこうしていたら、部屋に戻ったと思った朋生が上着を引掛けて戻ってきた。

 いつも俺が座る位置に腰掛けて、見張ってますよっていう雰囲気で頬杖をついている。


「寝ないのか?」

「ちょっと心配で寝てられない」


 思わず舌を打つ。料理は出来るが、上手いわけじゃない。いつもサクサク作る朋生に見られていたら落ち着かない。

 大丈夫だと主張してみたけど、ベッドに戻る気は無いようだった。

 仕方なく無視を決め込んで準備の続きに戻る。

 鍋に水と調味料を入れて火にかけて、玉葱と人参を切って入れる。

 これだけの行程にやけに時間がかかる。玉葱を切り終わって鍋に入れたところで、黙って見ていた朋生を睨みつけた。


「ほら。大丈夫だろ? 寝てろ」

「……うん」


 突然、朋生は笑み崩れた。訳がわからなくて面食らう。


「新妻を見守る気分て、こんなかなぁ」

「誰が新妻だっ」


 なんだかおっさんみたいなことを言う朋生に、反射的に応えて包丁を向けてやる。

 笑ったまま朋生は立ち上がった。その身体が部屋の方に向くのを確認してから、俺は次の攻略対象――人参に包丁を入れた。

 ようやくリズム感のようなものが出てきたところで人参も切り終わり、うどんも鍋に入れてしまう。ひと煮立ちしたら火を弱めて煮込むだけだ。

 少し余裕が出来て、包丁とまな板を洗っていると、さっきの朋生の笑顔が浮かんできた。


 新妻って。

 いつもその席で、俺が見てるのは誰だと思ってるんだ。

 ……俺が時々感じてる表現のしようがない、あの感覚――

 同じ、だろうか。

 朋生は、俺も同じことを感じてると思って言った訳じゃない。

 それは解っているのに、自分の隠していた気持ちを突きつけられたような気がして、顔を伏せる。朋生が部屋に戻っていてよかった。熱くなった顔を上げられないでいると、鍋の蓋が一度持ち上がって音を立てた。

 慌てて蓋を取り、火を弱める。

 思わず吐き出したのは、安堵の息か、諦めの息か。

 誤魔化して来たのに。自分さえも。

 あんな笑顔を見たら、また何か作ってもいいと思ってしまうじゃないか。

 そうやって、いつまでも留めていたいと思うじゃないか。


 安心してジジイになれ、だなんて、まるでずっとそこに居てくれるみたいに。

 俺は兄でいたくないんだ。けれど、その場所は兄でなければ手に入らない。

 そうして、いつか、優しい誰かの元へと行ってしまって、時々世話を焼きに来るつもりなんだろう。

 それに甘んじられるほど、俺はもう空虚ではない。

 だからといって逃げ出すには遅すぎる。


 ふっと自嘲気味に笑って、鍋の中をゆっくりとかき混ぜた。

 去年の夏、朋生に引き止められた時。あの時、無理矢理にでも逃げておけばよかった。じゃなければ、他人に戻してしまえばよかった。

 朋生。満足か。

 お前の望むような未来は来ないかもしれないけど、俺の“心”は確実に戻ってきてる。


 嫉妬して

 張り合って

 心配して

 喜んで

 満たされたがってる。


 他のヒト達に比べれば、ずっと小さなモノだろうけど、空っぽだった俺にきらきらした最初の欠片を放り込んだのは、お前なんだ。


 くつくつと煮立つ鍋の中で、白かったうどんがうっすらと醤油色に色づいていく。

 意識もしなかった食べるという行為も、出されたから食べる、言われるから食べるを経て、空腹を感じるようにまでなってる。

 身体が生きたいと望むようになったのなら、朋生が世話を焼くこともなくなる。

 この生活は長くは続かない。

 ……続けられない。


 いつか来る別れの引き金は、俺が引くんだろうな……




 柔らかく煮込まれた、というよりは、煮崩れたうどんを、朋生は「食べづらいけど、美味しいのが悔しい」とか言いつつ食べて、幸せそうに笑うと、ごちそうさまでしたと手を合わせた。

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