妹は兄の名前を知らない

ながる

妹:赤の他人

 疲れた。

 事務職は接客業より気を使わないけど、肩と背中がばりばりになるんだよね。目薬も手放せない。

 気分が変わるかと軽いノリで付き合い始めた人とも、今日サヨナラしてきた。

 違う。違うんだ。軽さは欲しかったけど、頭の軽さはいらないんだ。


「ただいまぁ」


 返事はない。鍵が開いてるということは、部屋にはいるんだろうけど。

 居間に鞄とコートを投げ出して、お兄ちゃんの部屋をノックする。それでも、返事がない。

 そっとドアを開けてみたら、ベッドに寄りかかった体勢のまま眠っているお兄ちゃんが見えた。片手に文庫本を持ったままだ。

 珍しく無防備な姿にむくむくと悪戯心が湧いてくる。

 あたしはそっと部屋に入り込んで、お兄ちゃんに抱きつくようにしながらその胸に頭を乗せた。

 お兄ちゃんの身体がびくりと跳ねる。それでも、心音は一定のペースから外れない。


「……ともき……何をしてる」


 冷ややかな声は説教の前触れだ。んー。でも、もう少し。


「落ち込んでる」

「そうじゃなくて……」

「いいでしょ。減るもんでもなし。ちょっと、頭でも撫でて慰めてよ」


 お兄ちゃんの手を取って自分の頭の上に乗せてみたものの、撫でられる、なんてことはなく、肩を掴まれて引き剥がされる。


「人の部屋に勝手に入るなと何度言ったら……」

「ノックしたもん」

「ともき。兄妹ごっこは外でだけでいい。そういうことは彼氏にでも……」

「別れてきた。だから、慰めて?」


 にこにこと居直るあたしにお兄ちゃんは額を押さえつつ、深い溜息をついた。


「解ってて言ってるだろ」


 うん。いいじゃないか。たまには。落ち込んでるのはホントなんだ。

 ニコニコ顔を崩さないで黙っていると、表紙カバーのめくれてしまった文庫本を拾い上げながら、お兄ちゃんはふと動きを止めて意地悪く口元を歪ませた。


「慰めればいいんだな」


 先程とは逆にぐいと引き寄せられて、柔らかいものが口元に触れる。ギリギリ、唇の外側。

 至近距離で見る冷めた瞳が、行動とは裏腹に突き放されているようだった。だから、あたしも半眼で見返してやる。


「何。それ、慰めじゃない」

「知るか。これに書いてあった」


 お兄ちゃんの手元で文庫本が小さく揺れる。よく見たら、女性向けの恋愛小説だ。ホント、節操無く読むんだから。


「心のこもらないキスなんてもらっても嬉しくないよ。追い出したくてやってるなら、お生憎様。キスひとつで狼狽えるほど初心じゃありません」


 小さく舌打ちが聞こえた。


「じゃあ、撫でるのだって心がこもってなければ同じだろ」

「それはあたしが欲しいものだから、心はどうでもいいの。だいたい、普通キスの方がハードル高くない?」

「普通じゃないんだろ」

「……お兄」

「……俺に期待するな。もう、出てけ」


 溜息と共に投げやりに言われてしまえば、それ以上居座っても意味がない。あたしは仕方なく立ち上がって、お兄ちゃんの部屋を後にした。

 期待してる訳じゃ、ないんだけどな。



 * * *



 お兄ちゃんとあたしは赤の他人だ。

 世間的には、事故で記憶を失くしたあたしを、お兄ちゃんの父親が引き取ってくれた、ということになっている。

 実際記憶の無かった一年間はお兄ちゃんがお兄ちゃんだと本気で信じてた。

 金銭面以外で、言葉も、感情表現も、配慮も、気力も、何もかも足りないお兄ちゃんを面倒見てたのはあたしの方だったから、記憶を取り戻しても放っておくなんてできなかった。


 どうやったのか戸籍上もちゃんと養女だと知って、失くしてしまった免許も取り直した。大空おおぞら 朋生ともきという人間の証明書を手にした時の複雑な気持ちは、ちょっと言い表せない。

 だってあたしの本当の家族はまだ生きて違う街で暮らしてるんだよ?

 諸々の理由で、あたしは死んだことになってるから、ちょっと顔を見になんてことは出来ないんだけど。


 ともかく、書類上ちゃんと家族なんだから、それでいいのに、あれから約半年、お兄ちゃんは必要以上の接触を避けるようになった。「元々他人だ」って。

 一年家族として(色々足りないとしても)暮らしてきたのに、急に他人に戻ろうって方が無理じゃない?

 ああ、別に今日みたいにベタベタしたいって訳じゃなく、たまに一緒に映画を見たり、ドライブしたり、そういうことしたっていいよね?

 記憶が戻る前は、妹の我儘に付き合う兄を演じてくれてたから、あたしは余計不満なのだ。これまでと同じでいいって言ったのに。


 まあ、なんだ。さっきのはちょっと調子に乗りすぎたとは思う。お兄ちゃんはスキンシップどころか会話もあっさりな方で、いつもしつこくしすぎて嫌がられるんだよね。

 いや、でもそのお返しがあれなら、効果はあるってことなのかな? 嫌がらせをする気になったなんて進歩と言ってもいい、気がする。

 大概がスルーだからね!


 あたしはお兄ちゃんの唇が触れた場所を指でなぞる。シリコンで出来た人形にキスをもらったような感覚。違うのは体温だけ。

 頬でもない。唇でもない。微妙な場所。

 油断してると襲ってやるぞ、的なことを含ませたんだろうけど、イマイチ迫力に欠けるよね。優しさなんだか真面目さなんだか。


 あの様子じゃ、本当に書いてあったことを実践しただけっていうのもあり得そうで怖い。

 だって、お兄ちゃんはよく自分を「空っぽ」って表現するから。“心”がないからって。

 あたしも、一時期心が動かなくなったことがあるから、なんとなくは解る。

 人間をやめなきゃならない直前で、そのメンテナンスをしに来たのがお兄ちゃん。ちょっと、ファンタジーでしょ? うん。他人には言えません。

 『仕事』が終わればどこかへ消える予定で、そうしなかったのは、イレギュラーに記憶が戻ってしまったことに責任を感じてるから、らしい。


 だから、お兄ちゃんが望んでるのはきっと、あたしが結婚してさっさと籍を移すこと。それで、お兄ちゃんの責任は無くなるもんね。

 あたしとしては未成年じゃないんだし(今年で二十二だよ)、責任を感じてほしくて引き止めたんじゃないんだけど。


 あたしと暮らした一年半がまるっきり無駄だったとは思わない。お兄ちゃんは少しだけど変わった。きっとこれからも変われる。だから、この先も消えたいなんて思わないでほしい。できれば、誰か面倒見てくれる人が現れればいいんだけど……そこまでの期待はしない。あたしが時々世話を焼けばいい話だ。


 お兄ちゃんの心を取り戻すのは、簡単じゃない。解ってる。本人が望んでないことを押し付けるのも良くない。それも、解ってる……

 解ってるけど、あたしはお兄ちゃんにも取り戻してほしい。お兄ちゃんのために。

 お兄ちゃんが色仕掛けで落ちる程度の人間なら、もっと簡単だったかもしれない。あたしがお兄ちゃんを好きになって、愛の力で彼の心を取り戻すの! ……って。


 ふるふると頭を振って、あたしはシャワーに向かった。

 残念ながら、あたしもお兄ちゃんも(たぶん)そういうのは柄じゃない。今日の一件でよっく解った。

 ああ、落ち込んでる時は碌な事を考えないな。えーい。全部、流れてしまえ!

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