2021/07/18

  2021/07/18


 「あぁ、このお名前なら良く覚えておりますよ」

 手渡した葉書を老眼鏡と格闘しつつ眺め透かした老人は思い付いた様に口を開いた。


 夕暮れも既に藍色が濃くなった時分、紙面に書き損じられ返送されてきた宛名を頼りに辿り着いた先は一件の古書店だった。年季の籠った紙とインクの匂いは空の色にも負けぬおぼろさを見せる照明と相まって何とも言えぬ雰囲気で店内を満たしている。


 「それにしても…随分古い葉書のようですな?」

 幾度か葉書を裏返しては戻す作業を繰り返した老眼鏡の店主は葉書を私の方に差し出した。言われてみれば、受け取った葉書は角がよれ所々に黄ばみ毛羽立ちが目立つ。


 「宛先不明で返送の扱いになったは良いんですが、差出人の住所が変わっていたんです」

 そう、市町村合併の影響で住所表記と郵便番号が変わったのはもう10年以上前の事だった筈だ。


 「それで、この差出人の名前なんですが」

 そう、何よりの目的はそれだった。何故か私の住所を使って送られた葉書には、見覚えを失って久しい癖字で綴られた彼の名前が在った。


 「えぇ、えぇ、何度かご注文を頂きました」

 そう言ってレジ前のカウンターを立った店主は店の奥へと歩を進めつつ手招いた。後に続き店頭よりも更に薄暗い倉庫らしき一室へ足を踏み入れた私は棚の隙間を縫うように歩く。


 「今時分仕入れの注文に電話を使わない御客も珍しかったものですから、万一にも手違いの無いようにと頂いた葉書は全て取り置いていたのですよ」

 注文の内容が趣味の良いラインナップだった事も記憶に残る一因となった、そんな話を吶々と漏らす店主は言葉を紡ぐ事で記憶を手繰っている様にも見えた。


 「あぁ、あぁ、これですよ」

 店主が棚の合間から取り出した小箱を受け取り蓋を開く。私が持ち込んだ其れと同程度に古ぼけた葉書の束が詰まっている。一番上の一枚を手に取って見れば、懐に収めた物と同様の筆跡で綴られた差し出し主の名前が在った。口にする機会を逸して幾年月を経たろうか、思わず表情が陰るのを感じる。


 「差出人の住所を、控えさせて頂きたいのですが…」

 個人情報に煩い昨今の事情を鑑みて控えめに問い掛ける。渋られた場合に備え葉書に目線を落とした儘目で追った文字列を脳裏に焼き付けるよう努めた。


 「お持ちになっても構いませんよ、どうも訳ありの様だ」

 思いがけぬ申し出に店主の顔を見遣った。穏やかな笑みを湛える老人を前に言葉にならぬ感謝の念が込み上げた。


 何とか謝辞を絞り出し、店主の制止を受ける迄頭を下げた儘だった私は流れる涙を拭う暇も厭う様に急ぎ足で店を出た。やっと見付けた手掛かりを取り溢さぬ様に確と抱えながら駅までの道をひた走る。帰宅ラッシュの人混みをすり抜けるように、一分一秒、一瞬でも早く前へ、前へ




 「…って所で目が覚めたんだが」

 「もう夢オチは良いっつーの」 

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