隣人愛について

 朝課を終えて着替える。栄唱の前に身を清めてあり、それ以前に毎朝のワークアウトを終えているから、すでにまったく覚醒状態だった。

 俺は今日も、いつも通りに万全だ。これも主の導きのおかげであると確信する。

 頸のロザリオの十字架メダイユに接吻を捧げて、糊の効いたワイシャツを羽織る。そのうえには紺色のブレザー。スラックス。

 鏡の前に立つと、そこには一般的な日本の高校三年生に見えなくもない男が立っていた。意外とものだと感心した。

 今日から、新生活だ。

 世間では不安と期待に満ちたものらしいが、主とともにある俺にとってはなんのことはない。一人暮らしに借りたアパートを出て、鍵を閉める。

 前の職場に残してきた同僚も言っていた。

 昔の日本は治安が良く、鍵のない家すらあったそうだが、いまでは他の先進国と同じように空き巣も起こりうる国だから、戸締りには気を付けろと。

 同僚と、隣人を愛せと教えた主に感謝して、俺は家を出た。今日も良い日になりそうだ。



 とは言ったものの、職員室で初めて会った担任の教諭という女は、随分適当な人物だった。

 この人物は勤勉な仕事をしないだろう。俺はにわかに不機嫌になる。

「なんだ? 新学期の朝から寝ぼけてんのか?」

「いえ。俺のクラスを教えてください」

 女教師はガラの悪そうな目つきで俺を見た。俺は表情を変えずあくまでも事務的に答える。

「ああそうだったな。私は倉橋。倉橋センセと気軽に呼びたまえよ?」

「よろしくお願いします。倉橋先生」

 俺の顔を見て首を傾げながら、倉橋は俺を教室に連れて行った。

 倉橋が教室のドアを開けると室内がどっと騒めく。大きな声を拾うと、担任教諭のくせに遅刻とはなんだ、とかなんとか言っている。

「うるせーなー。倉橋センセは重役なんだから重役出勤が当たり前なんだぞ?」

 国家の犬とか公僕とかひどい野次も飛んでいる気がしたが、聞こえないふりをした。

「はい黙れ。今日はみんなに転校生を紹介しますよ? センセ転校生って大好き。もちろんお前らも転校生のこと大好きだよな?」

 初めて会った人なのでまだわかりませ〜ん。俺もそう思うぞ、まだ知らぬクラスメイトAさん。これから存分にお互いを知ってゆこう。

「えー。転校生ってだけでミステリアスでなんかイイ感じじゃんか。わかんない? そういう機微が」

 機微、って倉橋センセから最も遠い言葉な気がするよな〜。俺も会ってまだ数分だが不思議とわかるぞ、まだ知らぬクラスメイトBくん。きみとは仲良くなれそうだな。

 とはいえ、クラスはいまだに喧喧囂囂けんけんごうごうだ。いや、侃侃諤諤かんかんがくがくだったか? とにかくこれ以上黙っていても埒があかないので、俺は重い口を開けた。

「倉橋先生、自己紹介してもよろしいでしょうか」

「おっ、センセ積極的な生徒は転校生と同じくらい好きだぞ? お前らちゃんと聞いとけよ」

 軽く咳払いして、クラス全体に視線を巡らせながら話す。ここにいるすべての愛すべき隣人に向け。

「──ルカによる福音書にこうある。ある律法の専門家が、自分を正当化するためにイエスにこう聞いた。『では、わたしの隣人とはだれですか』と。これにイエスはお答えになった」

 息継ぎとともにいったん聴衆の反応を確認する。

 うん、まずまずだ。彼らは説教に静かに聴き入っている。それでは、続きを──

「おい待て」

 俺の肩に倉橋が手を置いた。思わず振り返って訊き返す。

「なんですか? 続きが気になって仕方ないなら安心してください。これから話しますよ」

「ちげーよ。お前なあ……」女教師は苛立ったような顔で目頭を揉み、言った。「自己紹介って知ってるか?」

「無論、そのつもりで話していますが」

「お前の名前は?」

久理須クリス神明かみあき久理須クリス

「出身は?」

「東京だ」

「性格は?」

「同僚には温厚篤実と言われる」

「好きな四字熟語」

喧々諤々ケンケンガクガク?」

「趣味は?」

「恋愛シミュレーションゲームだ」

「……そうか」

 深く、深く倉橋がため息をついた。俺は意味がわからないまま周囲を見回す。

 愛すべきクラスメイトたちは──どこか、若干引いた目で俺を見ていた。いったい、何故。

「じゃ、自己紹介オワリな。転校生はテキトーに空いてる席座って」

「適当に、って……」

「やっぱセンセ、転校生はミステリアスなほうがよかったわ。やべーやつが一人増えたら、またうちのクラスが問題児集団とか言われるじゃんか」

 問題児はアンタだろとか野次が飛んでいるのも俺の耳にはほとんど入らなかった。ふらふらとクラスメイトCに促されながら席に座りつつようやく思い出した。

 ここは日本。無宗教の国だ。



 授業が終わって真っ先に俺は教室を飛び出した。教室でのファースト・コンタクトに失敗した以上は目的を果たすべく対象に少しでも近付くしかない。

 部室棟に向かう。教室のある三階から二階へ降りて渡り廊下を渡った先にある別棟だ。あらかじめ調べておいた部屋に着くと、俺はドアをノックした。

「どうぞ」

「失礼する。入会希望の神明だが……」

「おう。また会ったな転校生」

 ドアを開けると、そこにいたのは倉橋だった。さっきまで教室にいたはずの。途中で俺を追い越した様子もなかったはずの。

「どうしてここにいる……」

「顧問が部室にいちゃなにが悪い?」

 まったく俺の中の疑いは晴れなかったが、それはそれとして。

「お前が顧問?」

「お前呼ばわりた〜やるね、転校生! 転校初日に担任を! そういうドロップアウトなのはセンセかなり好きだよ?」

「いやそれはもういい……待て、そこにいるのはクラスメイトCだな?」

 俺を席まで案内してくれた隣の席の女の子だった。案内された時も礼を言ったが返事はなく、無口な人柄と思ったものだが。

「……伏子ふせこ

「お前も、会員なのか?」

「…………そう」

 長い黒髪を後ろでひとつに結び、無造作に下ろした前髪の隙間からこちらを見ている。じっと見定めるような目だった。

「そうだ、こいつはあまり喋らないんで話し相手に困ってたんだよ。ちょうどいいところに来てくれた、転校生が私の話し相手になってくれるってよ。なあ伏子」

「……うん」

「いや、俺はまだ何も言ってないんだが」

「やぁ〜だよ、入会希望だろ? 私は認め印シャチハタごと会長に渡してあるから、全部会長にやってもらってくれよ〜書類書くのやなんだよ〜!」

 倉橋は途端に面倒くさそうな声を出して嫌がる。面倒くさいのは俺なんだが。

「……わかった。それで、会長は?」

 伏子がわずかに身動ぎして、言った。

「……もうすぐ」

「なんだぁ? お前」倉橋がまさに下衆の勘繰りといった様子で下衆の勘繰りを繰り広げる。「まさか、転校初日にこんな部活に入ろうとするのといい、会長会長ってさっきから愛おしそうに呼ぶのといい、自己紹介で恋愛SLGが趣味というだけあって新生活は恋に青春に大忙しってわけかい! いいねぇ、センセ色はね薔薇色が好き」

「黙れ。信仰上の理由で恋愛はできないんだ」

 倉橋が爆笑する。俺はいい加減に苛々しているが爆笑する女も、じっと黙っている女もお構いなしだ。平静を取り戻すためにロザリオを取り出してアヴェ・マリアを唱えるが、下劣な哄笑が耳障りで一向に気が晴れない。

「いっそのこと、この女、〝滅〟すか……」

 そのとき、部室のドアが音を立てて開いた。

「ひっ……っ、ひ、ぁ、あぁ、会長……やっと来たのか……おま、お前、めちゃくちゃおもしれーやつが来てるぞ? 入会希望だってさ……っく、こいつ……バカだぞ!」

「馬鹿じゃないぞ馬鹿」

 そう言い返しながら、ただなんとなしに振り返って、その少女を見て、俺は言葉を失った。

 少年のように短い髪は、真っ白だった。彼女の身体からは生きる人間から溢れているべき存在感というか、重み、力、あるいはそれらすべてが、あまりにも欠落していた。困り眉の彼女は俺を見て言う。

「入会希望、ですか。念のためひとつだけ、理由を教えていただけますか?」

「ああ──そうだ、な」唾を飲んで、答える。「──イエスはお答えになった。『ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った』無視したわけだ。『ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか』と」

「……はい?」

 白髪の彼女は困惑した顔だ。致し方あるまい、ここが日本だということは朝、痛いほど思い知ったのだから。

「気にしてやるなよ、こいつはそういう……なんつーの? くくっ……イタいヤツなんだ。みんなあるだろ? そういう年頃がさあ……」

 俺は遮って話を続ける。

「黙って答えろ。だれが隣人なんだ? だれが彼の、俺の、?」

「それ、は……」

 彼女が答えようとしたその時に、その答えは聞くまでもないと言わんばかりに、俺は言った。

「俺は、隣人愛のためにここに来た。オカルト研究会? には、カトリックを信仰……いや、研究? 興味があるのでな。よろしく頼む」

 彼女は数分の間、頭の中をぐるぐる回るさまざまな物事と自分なりに格闘したような顔を見せたあと、へにゃりと、困ったように笑って言った。

「……わかりました。私は、常井とこい由依ゆいといいます。オカルト研究会の会長をしています。私と一緒に、、がんばって活動しましょう、ね?」

 俺は頷いて、かたく彼女の手を握った。彼女は握手のつもりがなかったのか驚いて身を固くしたが、すぐにほどけて手を握り返してくれた。

 どうやら俺の新生活は、順調な滑り出しを迎えたらしかった。

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