造花の香り

柳楽晋一

プロローグ 桜の樹

第1話 桜の樹

 忠之はゆるやかな足どりで坂を上った。汗ばんでいる襟元に風がここちよい。4月下旬の太陽が、靖国神社の鳥居を中天から照らしている。

 鳥居を見ながら忠之は思った。良太が戦死してから60年になる。その間に、昭和と呼ばれる時代は過去となり、特攻隊を記憶している日本人も少なくなった。特攻隊のことにかぎらず、あの戦争に関わる記憶のすべてが失われようとしている。映像や書物だけがあの戦争を語る時代が、すぐそこまで近づいているのだ。

 忠之は鳥居をぬけて参道をすすんだ。並木の銀杏に日がさして、若葉をひときわ鮮やかにしている。銀杏の木陰に和服姿の女が見える。

 足を速めて近づくと、和服の女が木陰をはなれ、にこやかな笑顔をみせた。

 忠之は呼びかけた。「お待たせしたな、チヅさん。元気そうじゃないか」

「よかったわ、岡さんもお元気そうで。若い頃と同じような歩き方をしてらっしゃる」

「元気でいたいじゃないか、良太の願いを叶えるまでは。チヅさんからの手紙を読んだら、もうひとふんばりしてみよう、という気持ちになったよ」

「ごめんなさいね、出雲は遠いのに」と千鶴が言った。「あんな手紙をさしあげたばかりに、ご迷惑をおかけしてしまって」

「迷惑だなんてとんでもない。良太の遺品はじかに渡したかったし、ここにも、チヅさんと一緒に来たかったんだ」


 千鶴からの手紙が届いたのは、ふた月前の2月だった。ハガキによる時候の挨拶は交わしていたものの、手紙のやりとりはまれだったので、久しぶりに受けとる千鶴からの封書であった。

〈・・・・・・夫から結婚を申し込まれましたとき、婚約者が特攻隊で戦死したので、私には結婚する意思がないと伝えました。縁があったと申しましょうか、それでも結婚した私たちですが、結婚してからも良太さんのことが幾度か話題になりました。そのようないきさつがあってのことと思いますが、自分の病気が不治と知った夫は、病院のベッドでこのように申しました。私があの世に行ったなら、私とともに森山という人の冥福も祈ってあげなさい。千鶴にはそのようにしてもらいたいし、千鶴はそうすべきだという気がするのだと、夫は言い遺すかのように語りました。

夫が亡くなって一年ほどになりますが、病院で聞かされた言葉は今も心にかかっております。夫には充分に尽くしたので思い残すところはございませんが、良太さんには何もしてあげられなかったという気持があります。そして思い至りましたのは、良太さんが提唱された大きな墓標のことです。

 良太さんの願いを叶えてあげるためには、戦没者を悼む者の存在をアピールし続ける必要があるからと、岡さんといっしょに靖国神社に幾度もお参りしたものでした。結婚してからは足が遠のきましたが、岡さんが次に上京される際には、いっしょに参拝したいと思っておりますので、どうか宜しくお願い致します。

 もうひとつお願いがございます。長い間お預けしてまいりましたが、良太さんが私に遺されたノートや手紙は、やはり私が処分すべきだと思いますので、今になって甚だ勝手なお願いではございますが、あれを引き取らせて頂きとう存じます。・・・・・・〉

 千鶴が結婚したのは、戦後も十年あまりが過ぎた頃だった。千鶴は勤務していた病院の医師に望まれ、その後妻になった。忠之は千鶴たち夫妻と食事を共にしたことがある。いかにも誠実そうな夫の横で、千鶴は明るい笑顔をたやさなかった。

 忠之は手紙を手にしたまま、一度だけ会った千鶴の夫を思いうかべた。あのとき、この人なら千鶴さんを幸せにできるだろうと思ったのだが、やはりその通りであった。千鶴さんの幸せな人生を願いながら死んでいった良太のことだから、どこかで大いに喜んでいるにちがいない。

 良太の願いを実現できないままに、60年もの歳月を過ごしてきたが、千鶴さんがその気になったのだから、俺ももうひとふんばりしなければならない。4月の末には良太の60年目の命日がくる。預かっている遺品をもって上京し、千鶴さんといっしょに靖国神社を訪ねよう。とはいえ、ほんとうの頑張り所はその先にあるのだ。これまでよりもしっかりと、意をかたくして進まねばならない。


 忠之はバッグを持ちなおすと、千鶴をうながして拝殿に向かった。

「ご主人は千鶴さんよりも、たしか10歳くらい歳上だったよな」

「9歳。亡くなったときは88。歳をとりましたわね、私たちも」

 良太が生きていたなら、俺と同じ82になっている、と忠之は思った。22歳だった良太が特攻隊で出撃してから、すでに60年が経っているのだ。

「岡さんは若い頃と変わりませんね、話の途中でいきなり考えこまれるところ」

「あれこれと考えこむことが多かったからな、俺たちの世代は」

「あんな戦争があったばかりに、つらくて悲しい思いをたっぷりと味わった世代ですものね」と千鶴が言った。

 忠之は千鶴の心のうちを想った。千鶴さんは良太の戦死によって、悲しみのどん底に落とされたが、そこからはいあがって幸せな人生をつかんだ。千鶴さんの心のなかに、あの悲しみはどのような痕跡を残しているのだろうか。

「そんな俺たちは、心の底から戦争を憎んでいるわけだが、将来の日本人どころか、今の若い連中にとっても、あの戦争は歴史上のできごとなんだ。ずいぶん遅くなったが、俺たちがまだ生きているうちに」と忠之は言った。「良太が願った大きな墓標を作らなくちゃな。将来の日本人がいつまでも、反戦と平和を願い続けるうえでの象徴になるわけだから」

「それを眼にするだけで、日本があんな戦争をしたことを思い起こさせますからね。それに」と千鶴が言った。「二度と戦争をしてはいけないという私たちの気持ちを、将来の日本人に伝えてくれますからね。そのように願って作るんですもの」

「いまの憲法には、俺たちのそんな気持ちがこめられていると思うが、憲法がいつか改正されるようなことがあっても、戦争を憎む気持が伝わるようなものにしてほしいよな」

「いつまでも伝えたいわね、戦争を禁止する憲法が公布されたときに感じた、私たちのあの気持を。戦争というものが無くなるようにと祈った、私たちのあの気持を」

 ふたりは拝殿の前についた。忠之は千鶴とならんで立つと、足元にバッグをおいた。

忠之はかるく眼をとじ、心の内の良太に告げた。今日は千鶴さんといっしょに、大きな墓標の建立を願ってここにきた。お前が願ったそれを実現するためにも、ここを訪ねる者の姿を通して知らせたいのだ、戦争がもたらした悲しみが、今なお強く留まっていることを。この数十年、ひたすら前を見て走り続けてきた日本人に、あの戦争を振り返り、考えてもらいたいのだ。お前がノートに書き遺し、その建立を願った大きな墓標は、戦没者だけに限ることなく、戦争で犠牲になった者のすべてを追悼するためのものだが、それはまた、将来の日本人があの戦争について考え、戦争のない平和な世界を願い続けるうえで、大きな役割をはたすはずだ。千鶴さんがあらためてその気になったのだから、俺も諦めることなく、いっしょに頑張ってゆこうと思う。良太よ見守っていてくれ。

 拝殿の前を離れたふたりは、境内をしばらく散策することにした。

「良太さんと初めて会った日のこと、私は今でもよく覚えていますよ。あれから60年あまりが経ちましたけど」と千鶴が言った。

「どういうわけか、あの日のことは俺もよく覚えてるんだ」

それは良太が忠之の下宿を訪れた日だった。忠之の脳裏にその日の情景がうかんだ。

「千鶴さんがお茶を持ってきたら、緊張した良太がいつもと違うしゃべり方をした。今となれば懐かしいよな、そんなことも」

「若かったわね、私たち。岡さんと良太さんが19歳で、薬専の一年生だった私がまだ18のときでしたもの」

「千鶴さんが部屋を出たあと、良太に千鶴さんの印象を聞いたら、良太はたったひと言、感じのいい人だと言った。そんな良太が、すぐに千鶴さんに夢中になったんだよな」

「もとはと言えば、岡さんが私の家に下宿してくださったからですよ。そうでなかったなら、良太さんと私が出会うこともなかったでしょうから」

「俺たちは同じ時代に生まれて、あんなふうに関わり合うという縁があったんだよ」

「そうかも知れないわね」桜を見あげて千鶴が言った。「私たちはあのような時代に生れ合わせて、あのように関わり合いながら生きたんですよね」

 いつのまにかふたりは歩みをとめて、桜の前に佇んでいた。千鶴の視線に誘われるまま、忠之は桜の梢に眼をやった。風が吹きぬけたのか、梢のあたりがいきなり揺れた。

 揺らめく若葉を眺めていると、良太の歌が思い出された。

   時じくの嵐に若葉散り敷くも桜な枯れそ大和島根に

 その歌は、良太が遺したノートに記されていた。その歌を詠んで間もなく、良太は沖縄の海をめざして出撃したのだった。


 千鶴が口にした「あのような時代」とは、昭和20年の敗戦に至る戦争の時代であり、荒廃した祖国を復興すべく苦闘した時代である。

治安維持法なる一法律が、思想と言論の自由をこの国から失わせることになった。政治への関与を強めはじめていた軍部が、いつのまにか政治そのものを動かすに至った。きな臭い匂いに気づきながらも、戦争が起こることなどよもやあるまいと思っていた国民は、巨大な渦に引きこまれるようにして戦争へ導かれ、ついにはその濁流にのまれた。

人々は激浪に翻弄されながらも懸命に生きようとした。森山良太と浅井千鶴そして岡忠之は、そのような時代に青春の日々を過ごした。



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