第三章 暇潰し

 二〇〇三年

 佐治ケ江優 九歳



     1

 四年一組の教室は、今日も普段と変わらず騒々しい。

 と、これだけの言葉ではクラスの健全性をはかるなんの参考にもならないであろう。


 いまさらはかる必要もなかったが。

 一組は半ば学級崩壊気味のクラスであると、教員にも保護者にも知られているからだ。


 親が子に常識を教えず、そんな子ばかりだから周囲から学ぶこともなく、親や大人からはズルさのみを学び、権利のみを当然のごとく主張してそれが通らないとキレる。


 うるさい子はうるさい子で、まるで野放しの獣のようであったが、内気な子は内気な子で持ち込み禁止のはずの漫画を読んだり携帯ゲームで遊んだりと結局のところ好き放題に振る舞っており、およそまともな生徒がほとんどいない状態であった。


 現在のみを見るのであれば、四時限前の休憩時間でもあり特に異様な光景にも見えないが、彼らは授業時間が始まってもほとんどこのままの状態なのだから。


 そのような雰囲気の中、佐治ケ江優だけは自席で教科書とノートを広げておとなしく次の授業の予習をしていた。


「おい優等生」


 男子の声。

 机の前に、かどけんむらふみなるみやゆきひこの三人がニヤニヤと笑みを浮かべて立っていた。


 毎度のことだというのに一向に慣れることなく、優の心臓はどくんと大きく跳ね上がったが、だからこそ俯いたまま三人に気が付いていないふりをして勉強を続けた。胸のドキドキをごまかすように。

 だが次の瞬間には、さっと引き抜くようにノートを奪い取られていた。


「なに真面目ぶっとるんじゃ、バーカ」


 成宮幸彦は、奪ったノートを隣の机に置いて広げると、手に持っていたマジックペンでゲームだかアニメだかモンスターの絵を書き始めた。


「あ、あの……」


 優は口ごもりながらも立ち上がり、弱々しくも手を伸ばしてノートを取り返そうという仕草を見せるのであるが、


「いま成宮がせっかく書いとるんじゃけえ!」


 小門健二に胸をどんと激しく突き飛ばれ、弾け飛ぶかのように、とと、とよろけ、なんとか転ばぬよう踏ん張った。


「佐治ケ江さん、ノートや教科書に落書きをしないで下さあい! ここは学校じゃけえね! 先生にいいつけるけえね!」


 いつの間にか近付いていた学級委員のむらふみが、いままさにグシャグシャに落書きされている最中であるノートを覗き込むと、なんとも意地悪そうな笑みを浮かべて優に注意、そして去って行った。


「おれもなんか書こっ。ほいじゃ、おれはミラモンのアルザードの第二形態にするけえ」


 木村文夫は優の机の中に手を突っ込んで、勝手にがさごそと漁り始めた。そして一冊のノートを手に取って、素早くぺらぺらとめくった。


「これ、まだ真っ白じゃ。ほいじゃあおれ、これに書こ」


 楽しそうな木村文夫の言葉と同時に、優の目が軽く見開かれていた。


 それ、おじさんに買って貰ったノートだ……


「返して」


 彼らの耳にまるで届きそうもない、空気に消え入りそうな声ではあったが、とにかく優はそう小さく口を開くと、木村文夫の手にしたノートに素早く手を伸ばして奪い返していた。

 なにをされてもじっと下を向いて我慢しているだけの佐治ケ江優が、このような行動に出るとは思わず、木村文夫は油断をしていたのだろう。


「なにすんじゃ。返さんかボケ!」


 そもそもの所有者が誰なのかを知ってか知らずか、いずれであろうとも木村文夫のこの言動に変わりはなかっただろう。


「返せ!」


 木村文夫は声を張り上げて、ノートを引っ張る。


 嫌だ。

 これは、絶対に!


 優は、胸に抱え込むようにして背中でノートを守った。まだなにも書かれていない白紙の、百円くらいでどこでも買えそうなノートを必死に。


 木村文夫は予期せぬ抵抗にすっかり頭に来て、大声でわめきながら、優の筆箱から鉛筆を取り出し机の角に押し当ててへし折った。二本、三本、と、すべての鉛筆を折ると、続いて消しゴムを前の黒板の方へと放り投げた。


 なおも必死にノートを守り抜こうとしている優の、すねを思い切り蹴飛ばした。

 苦痛に顔を歪めてうずくまる優の頭の上に、木村文夫は肘鉄を落とした。


「ゴミのくせに生意気なんじゃ!」


 吐き捨てた。

 と、その時、前の扉が開いて担任のおおもりかずひさ先生がよれよれとした足取りで入って来た。まだ三十代だが、言動すべてがなんとも年寄りくさい印象を与える男性教師である。


 木村文夫は素早くもう一回、こっそりと、でも思い切り優の頭を殴り付けると、自分の席に着いた。

 小門健二、成宮幸彦も、優をじろり睨みつけ、弾き飛ばすようにわざとぶつかって、自席へと戻った。


 もう説明する必要もないかも知れないが、佐治ケ江優は、いわゆるいじめられっ子であった。


 もともと性格上、周囲に溶け込もうとせず、接しても無口であり、周囲の空気を読むのも下手で、集団の中で完全に浮いている存在ではあったが、特にいじめられることはなかった。一部の者にからかわれたり、一時的にいじめられることはあっても、それを糾弾する勢力などもあって、それほどに酷いものではなかった。

 変化したのは、去年度が始まって現在のクラス編成になってから。


 学級崩壊クラスということもあり糾弾勢力もなく、ささいなことがきっかけのいじめは、あっという間に激化。

 先ほどの三人からのみならず、クラスのほぼ全員から、ああいったような扱いを受け続けていた。


 だからいまのようなやりとりは、別段珍しいものではなかったのである。優にとっても、加害者、周囲の者たちにとっても。


 木村文夫がすぐに優から離れて自席に戻ったように、先生に見付かるようなあからさまないじめは誰もしない。さすがに、自分が面倒なことになると分かっているからだ。


 身の回りやテレビなどで見るズルい大人の背中に、子供らも知恵をつけてきているのだ。


 もっとも、見付かるようないじめを堂々としたところで、この先生が真剣に対処に動く保証もなかったが。

 だからみなすっかり舐めきって、授業中でも大騒ぎをしているのだから。


     2

「おうゴミガエ、お前、今日はとっても生意気じゃったの」


 優が小門健二、木村文夫、成宮幸彦の三人に改めて取り囲まれたのは、放課後のことであった。

 帰り支度をしているところ、後ろから頭を殴られ、机を取り囲まれたのだ。


「あたしは……」


 そういったきり、優は口ごもった。そもそもその部分すら、彼らにはまるで聞こえていなかったかも知れないが。


 別に生意気なことをしたつもりなどない。ただ、大切なノートに落書きをされたくなかっただけ。

 優がいおうとしたのは、そのようなことであるが、でもその意は十分の一どころか百分の一も発せられることはなく、彼女はただじっと俯いているだけであった。


「生意気じゃったなっていっとるんじゃ。黙っとらんでなんかいわんか! 謝るとか、なんかセーイを見せんかい!」


 成宮幸彦が両腕をぶんと振って、拳で優の頬を横殴りに打ち付けていた。

 予期していなかったこともあるが、男子の力の前に、優はあっけなく吹っ飛ばされて、椅子ごと床に転がった。


「ゴミのくせに、勉強ばっかりしとるがのう、いつもじっと黙ってて気持ち悪いんじゃ。生きとるのか死んどるのか分からん、気持ちの悪いやつじゃ!」


 成宮幸彦は床に転がっている優のランドセルを拾い、開くとくるりと逆さにした。どさりどさりと、中身が床に落ちた。


「こいつ、さっき新品のノートをやたら必死になって守っとったよな。絶対、あれに書いてやるけえ」


 木村文夫は優の筆箱を開け、中からサインペンを取り出すと筆箱を投げ捨てた。


 優は素早く上体を起こすと、床に出来た教科書とノートの山を守るように手を伸ばした。


「邪魔じゃボケ」


 木村文夫が、優の手を踏んでぐりとねじる。

 優は苦痛の表情を浮かべるが、手をどかそうとはしなかった。


「汚い手どけんか!」


 小門健二の爪先が、優のお腹に減り込んでいた。

 ぐぷ、と優は苦痛と嘔吐感に呻き声を上げたが、それでも手を引っ込めようとはせず、その抵抗に木村文夫は切れたように大声で叫んだ。


「小門がどけといっとんじゃ! 日本語が分からんのかアホウ!」


 そう叫びながら、優の顔面を蹴飛ばしていた。

 何度も、何度も。

 顔だけでなく、腹、背中、脚、いつしか小門健二と成宮幸彦も加わって三人で。


 まだ教室にはほとんどの生徒が残っていたが、止めに入る者は誰もおらず、それどころか男子も女子もただ楽しそうに見物しているばかりであった。


     3

「ただいま」


 玄関で優は元気のない声を出し、ゆっくりと靴を脱いだ。

 元気のないといっても、普段からそうではあるが。


 そんな優を、やはり普段通りに元気に出迎えた母、ふみであるが、その顔が蒼白になるまでに、瞬きするほどもかからなかった。

 娘が傷痣だらけの顔を隠さず晒しているのだから、それは当然であろう。


 優としても、普段殴られたり蹴られたりするのはお尻やお腹などだから黙っていることが出来たけど、今日は顔をかなり殴られてしまっており、隠し通せるはずもないと思い、隠すことをはなから諦めていたのである。


「どうしたの優、その顔は」


 このように尋ねない親などは、ほとんど存在しないだろう。

 しかし優は拒否権発動。なにも言葉を返すことなく、二階への階段を上り出した。


「待ちなさい。優、待って!」


 文江は、脚を掴まんばかりに手を差し伸ばし追ったが、優が階段を駆け上がる方が速く、自室へ入られ、素早く室内から鍵をかけられてしまった。


「優、開けて! 優!」


 ノブを捻るが、鍵がかかっており開くはずもない。

 何度もノックをするが、ドアは開かず、返ってきたのは言葉のみ。


「なんでもないから!」

「そんなわけないでしょ」

「なんでもないよ!」

「なにがあったのか教えて」

「いいたくない!」

「いまいうのが辛いのなら、それじゃあ後でお父さんが帰ってきたらでいいから、話して。分かった?」

「ほやからっ、本当になんでもないんじゃって!」


 裏返ったような優の叫び声。ドン、とドアになにか物をぶつけたような音。


     4

 文江は口を閉ざし、立ち尽くしていた。

 優が幼稚園の頃には、よく態度言動のことで周囲からいじめられたり、先生から精神検査を受けた方がいいのではなどといわれたこともあった。

 でも小学校に入ってからは特に何事もなかったし、先生に呼び出されることもなかったし、だから、てっきりみんなと仲良くやっているのかと思っていた。


 でもそれは、違っていたんだ。

 黙っていただけだったんだ。


 文江は、ちょっと悲しい、惨めな気持ちになっていた。

 娘のことに、どうして気付いてあげられなかったのだろう、と。


 なおも呆然とドアの前に立ち尽くしていると、やがて、部屋の中から啜り泣きの声が聞こえてきた。


 そうだよな。

 一番辛いのは、優なんだから。

 自分がしっかりしなきゃ。


 文江は、拳をぎゅっと握った。


「それじゃ、また後で来るから」


 いまは少し、泣かせておいてあげよう。


 階段を下りた。

 ドン、とまた優の部屋のドアに、なにかが投げ付けられた音がした。


     5

「あの、すみません」


 まさのぶは、職員室に入ろうとしていた中年女性に声をかけた。


おおもり先生にお話があって、来たのですが」

「生徒の保護者の方ですか?」

「佐治ケ江優の父です」

「ああ、佐治ケ江さんの。わたし担任したことはないんですが、ほやけど苗字が珍しいからよく知っとります。分かりました。大森先生をすぐ呼んできます」


 女性はドアを開け、職員室の中に入っていった。


 日もすっかり暮れかけた夕方の小学校である。

 雅信は、娘について担任と話しをするために、一人で学校へやって来ていた。妻の文江も行きたがっていたが、精神不安定になっている優と、一緒に自宅にいてもらうことにした。


「ああ、どうも」


 三十代と思われるひょろひょろとした男性教師が、くぐもった声で呟きながら、ドアから出て来た。なんだか動きかたが老人のようである。

 雅信も何度か会って、顔は知っている(あまり良い印象はないが)。優の担任である、おおもりかずひさ先生だ。


「すみません。わざわざ時間を割いて頂いて」


 雅信は軽い笑みを浮かべながら、微かに頭を下げた。


「これからテストの採点をしなきゃならないんですけどねえ」


 え……

 一瞬、雅信の目は点になっていた。

 その言動が、信じられなかったからだ。


 呆れた。

 それが空耳でなく現実であることが分かった後も、まず感じたのはそんな思いであった。


 なにをいっているんだ。この教師は。

 子供のいじめの問題で話をしたい、これは電話で事前に伝えてあることであり、こちらはきっちり指定された時間に来たというのに。


 忙しいのは本当だとしても、それをわざわざ人の前でいうことか。

 そっちの怠慢でいじめについての対処をしないから、こっちがこうして会社を早目に切り上げて学校まで出向いたんじゃないか。

 まあ、まだいじめとはっきり分かったわけではないけど。


 去年から優はこの担任のクラスであるため、雅信も父兄参観などでもう何度か会っているが、やはり最初に感じていた印象通りの先生のようだ。


 でもここで喧嘩をしても始まらない。

 学校のことは、学校の人にやってもらうしかないのだし。


 と、雅信はぐっと自分を抑えた。

 案内されて校長室の隣にある教育室という狭い部屋に入り、二人は席に着いた。


「佐治ケ江さんのことでお話があるとか」


 先生は机に肘を乗せ、両手で頬杖をついたまま、話を切り出した。


 親も子も同じ苗字であるが、教師が親の前で子供だけを苗字で呼ぶことは珍しくないだろう。だが雅信には、この先生にそれをされると、どうにも機械的な印象を感じてしまい不快だった。先ほどのあの言動があるため、やっつけで処理しようとしている気がしてしまって。

 でもどうであれ、話さないわけにはいかなかった。


「娘、優がですね、いじめにあっているらしいんですよ」


 単刀直入に、切り出した。


「いじめにあっている、ですか?」


 先生はちょっとびっくりしたように繰り返した。

 雅信には、演技に思えてしかたなかったが。


「はい。先日ですね、顔を痣だらけにして帰ってきました。家内から聞いた話では、腕、腿、背中、お尻、もう全身にそうした痣があると」


 ここで言葉を切り、先生の言葉を待った。

 ある意味、予想通りの言葉が返された。あくまで、ここに来て先生と会ってからの「ある意味」であり、ここに来るまではまさか想像つくはずもない言葉であったが。


「でも、みんなとても元気で、外で走り回って遊んでもいるから、擦り傷が出来るくらいは珍しくもないんじゃないでしょうか」


 そういうと先生は、しゃっしゃっと笑った。

 雅信は、もう別に驚かなかった。

 ただ心の中でため息をついただけだった。

 でも、いわないわけにはいかない。

 話を続けた。


「擦り傷もありますけど、痣がとにかく酷いんですよ。一カ所くらいなら遊んでいて出来るかも知れませんが、全身ですよ。それに、うちの娘がみんなと遊ぶような性格ではないこと、先生も知ってますよね、担任なら」

「ええ、まあ」


 先生は、もごもごと呟いた。

 口の中で、小さく舌打ちしたようにも、雅信には感じられた。まさか、とも思ったが。


「あの、お父さん、佐治ケ江さん本人が、誰かにいじめられているということを話したんですか?」

「はっきりそういわれたわけではないんです。顔の痣がどうして出来たのか、いくら聞いても教えてくれませんでした」

「なら、いじめという確証もないわけですよね」


 ちょっとだけ先生の表情が明るくなったように見えた。

 要は面倒事をなるべく敬遠したい、あっても軽度なものであればなかったことにしてしまいたいタイプなのだろう。こっちは忙しいんだ、など、そんな理由で自己正当化して。


「おっしゃる通りです、先生。でもね、娘はせいぜいが一人でサッカーボールを蹴っているくらいですよ。走り回ることも出来ない、狭い家の庭で。他には、外遊びはいっさいせずに、家の中で大人しく勉強をしています。調べれば分かるでしょうけど、おそらく学校でもそうだと思いますよ。それならばどうして、上から下まで全身に痣なんかがあるんですか。好きで自分の身体にわざわざそんなもの作りますか? 警察に相談してもいいんですけどね。障害事件の可能性が高いわけですし」

「けけ、警察は困ります。他の生徒や保護者の心理に悪影響を与えますから」

「もううちの娘が充分に悪影響を被ってますよ」

「はあ……それなら、どうすればいいですか?」


 雅信はまた、心の中でため息をついた。

 バカなのか、この教師は。

 脳味噌がバカなのか、それとも脳味噌が無いのか、まずどちらかであろうが、一体どっちだ。


「ですからね、暴力によるいじめが行われている可能性が高いってことですよ。であれば当然、無視するなど精神的ないじめだって考えられますよね。そうしたことが行われていないか、もしも行われているのであれば、やめさせて欲しいということです」


 なんで学校教育の素人が、教育のプロあるはずの現場の人間にこんなことを説明しなければならないんだ。

 なんだかむなしくなってきた。


「分かりました。では、調べてなにかあれば対処するようにします」

「はい。でも、みんなのいる前でおおっぴらにこんな話をしたらダメですよ。現在のいじめは巧妙とか陰湿化とかいわれてますよね。下手すると、誰がいじめているのか分からなくなるだけでなく、より酷くなりますから」


 わざわざ話す内容のことではないと思ったが、余りに頼りない先生の態度に、いわずにはいられなかった。


「はい、分かりました」


 素人にずけずけと踏み込んだことをいわれた、という憤慨心だけはあるのか、先生はちょっとふて腐れたような口調になった。


 でもな、ふて腐れておかしくないのはこっちの方だぞ。

 まったく、やる気あるのか。というか、あんたにとってこの職場において本当に大切なものってなんなんだ。


 雅信は頭の中でそう考えていたが、でも目の前でそのように承諾されたからには、


「よろしくお願いします」


 と頭を下げて頼むしかなかった。


 この後この先生が、まさかああも非常識な対応をするとは、夢にも思わなかったものだから。


     6

「佐治ケ江さんをいじめている人は、この中にいませんか」


 ホームルームの時間、相変わらず落ち着きのない教室のざわめきの中で、先生の発した一言であった。

 しん、と、一瞬にして、騒々しかった教室に静寂が落ちていた。


 廊下側後方の席で佐治ケ江優は、一瞬驚いたように目を見開くと、慌てたように俯いた。


 先生は続ける。


「佐治ケ江さんの顔に、痣がありますよね。顔だけでなく、全身にあるらしいです。彼女を殴ったり、蹴ったり、そんないじめをしている人はいませんか。怒らないから、手をあげて下さい。いないならいないで、それで構いません」


 先生は黙り、みんなの反応を待った。

 また、教室にしんとした静寂が訪れた。


 ただ静かなだけではない。心臓の鼓動音が聞こえそうなほどの、完全に緊迫した一種異様な雰囲気になっていた。


 静寂を破ったのは、さわえいであった。


「どうして全身にあるって知っているんですか」


 尋ねた。

 いわゆる「チクッた」のかどうか、それを確認しようとしていること一目瞭然であった。


「佐治ケ江さんの親御さんから、相談を受けました。いじめられているのではないかと」


 先生は正直に話した。

 話してしまった。


 教室が、どっとざわめいた。

 当然であろう。


「チクりよった」

「こいつ、チクった」


 ざわめきの中、優のすぐそばでそんな声をかわすなるみやゆきひこむらふみ


「あ、あ、あの、あたしは」


 優は乾いた口を開け、なにか訴えようとしたが、まるで言葉が出ず、諦め飲み込んだ。


 親が先生に相談していたなんて、なにも知らなかったのだ。

 知っていれば、少しはこのようなことになる覚悟も出来ていたかも知れない。


 お父さんが早く帰ってきて出かけた日があったけど、もしかしたら、あの日に学校に行ったということ?


 でも、わたしはなにも喋ってなんかいない。

 話してなんかいない。


 痣をおかしいと思ったお母さんが、お父さんにいいつけて、わたしがなにも喋らないものだから勝手に先生と会ったんだ。


 だから、わたしはなにも知らない。

 親に話してなんかいない。


 ということをみんなに伝えたかったのであるが、裏腹に優の口はかたく閉じたままであった。じっと肩を小さく縮め、俯いたままであった。


 優を糾弾するような教室のざわめきは、おさまらないどころかどんどん激しくなっていた。

 男子も女子も、ちらりちらりと優の方へ顔を向けては、睨むような視線を送り続けた。


 優は、胸を押さえた。

 ぐうっと潰れそなくらいに痛み出していたのである。

 呼吸が荒くなっていた。

 ぐるぐると、視界が回り出していた。


     7

 ソファに仰向けで寝そべって、ぐったりとしている。

 まさのぶの全身を襲うのは、ただただどうしようもない脱力感であった。


 誰だってそうなるだろう。

 娘が受けているいじめをなんとかしようと行動したら、それが完全に逆効果、娘はすっかり不登校になってしまい、それどころか家の中でもほとんど両親と顔を合わせることなく自室に閉じこもりがち、たまに会ったと思えば恨みの視線を向けられるのみ、となれば。


「じゃあ、どうすりゃよかったのかなあ」


 弱々しく呟いた。


「それはさ、しかたないことだよ」


 妻のふみだ。両手に持ったコーヒーカップをテーブルに置くと、空いたソファの端にそっと座った。


「だってさ、先生がそんなペラペラ喋っちゃうなんて誰も思わないよ常識で考えてさあ。それに、そうならないようきちんと釘をさしておいたんでしょ? だったら、それ以上ベストな対応なんてないでしょう。学校でのことなんだから、後はもう任せるしかなかった。じゃ、やるべきことはきっちりやったでしょ」

「まあ、そうなんだけど。しかし、あそこまでアホな先生だとはなあ。いや、そう気付いてはいたけれど、まさかまさかという思いが捨てきれず。だって本当にそこまでのバカならば、教師になんかなれるはずないし、そもそも教師になんかなろうとも思わんだろうと。……ほんと、後悔してる」


 雅信は長いため息をついた。


 娘の優は、学校でなにが起きたのか口を硬く閉ざしてまるで説明してくれないのだが、どうやら担任の先生が、例の話をおおっぴらに生徒たちの前でしてしまったようなのである。


 例の話とは、優が誰かにいじめられているということだ。

 おかげで、優に対するいじめが完全に裏に隠れてしまった。


 収まるならまだしも、いじめは余計に激しくなり、巧妙に、陰湿になった……と、思われる。優は決して話そうとしないため、詳細が分からないのだ。


 しかし、すっかり不登校になってしまったことからも明らかであろう。また、親に対してすっかり信頼の揺らいだような、軽蔑したような態度を取ったり視線を向けてくることからも、明らかであろう。


「ああくそ! イライラする!」

「いたっ!」

「ごめん」


 ソファに寝そべっている雅信が、ぐっと足を伸ばそうとして、端に文江が座っていることをすっかり忘れて思い切り蹴っ飛ばしてしまったのだ。


「あの先生、はなっから面倒くさそうだったんだよな。というか、常識がおかしいよ。こっちは約束してその時間に行っているのに、テストの採点があるんですよね~とかいってんだからな」

「それはもう何度も聞いた」

「何度だっていいたくなるよ」


 ひょっとして、狙いがあって意図的に問題を表に出したのではないだろうか。

 そんな気がしてきた。


 きっとそうだ。

 もしいじめが本当にあるとしても、大人にバレないようにより巧妙にやってくれればいい。と、そういうことなんだ。

 発覚さえしなければ、先生としては自分が責任を追及されることもないし、面倒を背負い込まないで済むわけだし。


     8

 済み渡った青空の中、ふわりとボールが浮き上がっていた。

 とと、と、ゆうは落下位置へと身体をずらし、頭で跳ね上げた。


 右足の甲で受けると、左右の甲で小さく跳ね上げながら移動。

 大きく上げ、さらに腿で跳ね上げ、落下に合わせて右足を蹴り上げた。


 綺麗な放物線を描き、ボールは大人より遥かに高さのあるバスケットのど真ん中に、リングに触れることなく吸い込まれていた。


 それを足の甲で受けると、また小さく跳ね上げながら距離を取り、今度は左足で大きく蹴った。

 ガン、とリングの内側に当たり、ぐるぐる渦を巻きながら、バスケットに飲み込まれ、落ちた。


 今度は右足。リングに触れることなく、すっぽり真ん中を抜けて落ちた。


 バスケットボードは当然バスケットボール用のもの、つまりは手でボールを放り投げるためのものであり、それを考えると優のボールを蹴る技術は恐ろしいまでに高い精度といえた。


 五年前、千葉のおじちゃんにサッカーボールを買ってもらってから、ずっと家の庭で蹴っていたのだが、両親との仲が悪くなっているここ数日は、母にみつからないようそーっと家を抜け出してはこの児童公園に来て練習していた。


 通り行く人に好奇の視線を向けられるのは恥ずかしくて嫌だったけど、家の庭にはない変わったものを使って練習出来るのは面白かった。


「おー、すげえ!」


 男の子の声。そして拍手。

 優はびくりと身体を震わせ、振り返った。


 公園横の道路に、学校で見たことのある男子の姿。おそらくは五年生、つまり上級生だ。

 足元には、サッカーボールがある。優の使っている小さな二号球と違って、大人が試合をする時などに使う五号球だ。


 男子の後ろを、ランドセルを背負った女子たちが冗談をいい合いながら歩いて過ぎて行った。どうやら現在はもう下校時間のようである。まだ正午くらいかなと思っていたが、だいぶ長居してしまっていたようだ。


「いまのその、バスケットに入れちゃうの、ほんまにすげえ。おれ、倉之内少年サッカー団ってとこに入っとるんじゃけど、お前も入らんか? 女でも入れるぜ。おれの妹が入ってたことあるけえの」

「……興味ないけえ」


 優は、おどおどとした表情で答えた。


「残念じゃな。でもま、女がいてもあんま役に立たんしの。すぐ転ぶし足も遅い、怒鳴るとすぐに泣きよる。手を抜くと怒るくせに、本気になっても怒る。ええわ、もう。ほんじゃの」


 そういうと男の子は、特に不満げな表情を浮かべるでもなく、足元のボールを小さく蹴りながら去って行った。


 一人残った優は、予期せず他人と話してしまったことによる胸のドキドキがまだおさまらず、とてもボールを蹴るどころではなくなってしまい、ベンチに腰を下ろした。


 ふう、とため息をついた。

 青い空を見上げているうち、段々と落ち着いてきた。


 さっき、なんといわれたのだったか。

 そうだ。サッカー団に入らないかと、誘われたのだ。


 ふと、サッカーがどんなものであるのか、想像していた。

 テレビで見たことはあるが、自分がやっているところなど想像したことすらなかったから。


 いつもサッカーボールを蹴っているとはいえ、自分がやっているのは、あくまでただのボール蹴りでしかないからだ。


 十一対十一、計二十二人。

 怒号飛び交い、

 肩と肩をぶつけ合い……

 ダメだ。

 想像するだけで、胸がドキドキしてきた。


 庭で一人でボールを蹴ったことしかないのだ。みんなとボールを蹴るなんて無理だ。

 チームスポーツというだけでも大変なのに、さらに怒鳴られたりした日には泣くどころか心臓が止まってしまう。


 と、そのような想像をしてみたのは、別にやってみたいと興味を持ったからではない。

 先ほどの男子にもいったことだが、本当に興味がない。


 優には、趣味といえるものがない。

 家の中では、興味の対象がなにもないからただ勉強しているだけ。

 テレビなどまったく見ない。親がつけているのをたまたま見てしまう程度。


 庭でボールを蹴るのが日課ではあるが、趣味とは違う。

 興じることが出来るものを見つけたくて、それで蹴り続けているだけ。

 五年も続けているということは、では見つけたのではないか。そう自問することもあるが、やはり、まだ違う。


 とにかくなににも興味のわかない、趣味といえるもののない優ではあるが、先ほどの男の子が少年サッカー団に入っているように、他の子がなにかに夢中になっている姿は、下らないなどとは思わずむしろうらやましくさえある。


 だってそうした思いを感じてみたくて、「もしかしたら」「いつかは」という思いで、優はボールを蹴り続けているのだから。


 でも……

 すべては所詮、暇潰しなのかも知れない。

 ボールを蹴ることも、勉強することすらも。


 なんの暇潰し?

 別に暇がどれだけ続こうとも、自分にとっては苦痛でもなんでもないというのに、どうしてそんなことする必要がある?


 ……人生を終えるまでの、暇潰しかな。

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