番外編1 彼らの日常、過ぎ去った世界

あなたは聖人君主



 それから二日。

 大掃除もあらかた済んで、俺達はようやく落ち着ける時間を取ることができた。


「いやー、大変でしたね旦那」

「七割がたお前たちのせいだからな?」

 オーク達がもっとお行儀よく過ごしていればこうはならなかったんだぞ?


 まあ残りの三割は俺のせいだけれど。


「にしても旦那。こんなにデカい城、前は一体何人暮らしてたんですかい?」

 ベーオウと俺は外のちょうどいいサイズの石に腰掛けながら、そんな話をする。

「大体四千人前後だ」

「よん……いや、すげえっすね」

 ベーオウは絶句しているが、人間と戦う事を考えれば全然足りないくらいだ。まあ吸血鬼一人で武装した人間達数十人と戦えるから、無茶ではないんだが。


「お前たちも部屋を使っていいぞ。空き部屋はいくらでもある」

「え、部屋? ですかい? それって扉で仕切られた中のことですよね?」

 ん? 何か独特な言い回しだな。


「いやあ、俺達オークは基本集団で過ごすんで。一人でいたり、狭い場所に大勢でかたまると落ち着かねえんですよ」

 ははあ、成程そういう訳か。

「なら広い部屋を作ってやる。どのくらいがいい?」

「……へ? 作る?」

「カイさーん! ベーオウさーん!」

 と、そんな中元気な声が割って入る。


「お疲れ様です。これ、どうぞ」

 シュルシュルという音を立てながら近づいてきて、ラミアガールのティキュラは灰色のコップを二つ差し出した。


「おー! 助かるぜ嬢ちゃん」

「えへへー」

 褒められたのが嬉しいのか、ティキュラはちょっとだけ頬を赤らめる。褐色の肌にほんのり浮かぶ赤が、荒野に沈む夕日を連想させた。


「カイさんも、どうぞっ!」

 元気よく差し出されたコップを受け取り……コップは土を焼いて固めたものか。土器というほど原始的ではない。灰色の地に釉薬を塗っているのか光沢もある。人間の使う茶碗、に近いものか?


「ああ」

 ティキュラの小さな手からソレを受け取る。透明な中身を見るに、恐らくはまあ水だろう。そんな先入観で口にすると……。


「ッ!」

「かぁー、うめえな! 何だ酒も持ってきてたのか」

 ベーオウの言葉の通りだ。


「これは……酒?」

「はい? そうですけれど」


 驚いた。てっきり城の水道から汲んできた水だとばかり。


 ああ、そうそう。こんな世界でもちゃんと上下水道は使えるんだ。城の設備で雨を溜めたり空気中の水分を集めるなどで生活用水を確保している。下水処理も自前でできるのだ。人間と対立してインフラを切られたとしても安心だ。


 対人間用の設備類がこんな所で役に立ってくれるとは……。


「あ、あの……お口に合いませんでしたか?」

 そんな思考を遮るように、不安げな声が。


「ああいや、すまない」

 突然のことで混乱したが、味が悪かったわけじゃない。いやむしろ……。


「すごく、美味いな」

「ほ、ホントですか!?」

 ティキュラは興奮しているのかブンブン尻尾を振っている。何だそれ犬みたいで可愛い、とはさすがに本人には言わないが。


 というか、本当に美味い。別にさっきのは世辞でもなんでもない。うちに置いてある高級酒と比べても見劣りするどころか、いや、ひょっとするとそれ以上に……。


 するっと飲めて、どこかピリリと辛いもののそれが全然苦にならない。すっきりとしていて、最後にほんのりと甘みを感じさせる。それがまた気持ちよくて、ついつい次が欲しくなる。


「えへへっ、また作りますねっ!」

 ティキュラはそんな様子の俺を見て、嬉しそうに微笑む。

「また……作る?」

「はいっ!」

 ふむ、酒は自家製なのか。


 酒は確か、酵母と発酵させる物と適した環境があれば誰でもできると聞いたな。なので人間は醸造業には酒税をかけて国家の収入源にしているらしいが、この世界ではどうなのだろう?


 近代国家のような仕組みが整ってなければ、いずれはこれで商売をする道も……。


「カイさん?」

「ああいや、何でもない」

 いや、今はいいか。

 今はただ、ティキュラがくれたこの美味い酒に舌鼓を打とう。


 女と酒を愛さぬものは一生を阿呆で過ごす、だ。


 ……はて、人間の誰の言葉だったか。


「えへへ、カイさん」

 しゅるり、と衣擦れのような足音を立て、その少女は傍による。


「どうです? 酔っちゃいましたか?」

 ニコニコと這い寄る甘い声。頬を染め、まるで彼女の方こそ酔っているかのようだ。

 幼い外見に見合わず、その瞳は潤み、妖艶に俺を誘う。そんなティキュラの湖面のような美しい瞳を肴に一杯やるのは、中々に風流のような気がした。


「酔わせたかったのか?」

「ッ!?」

 髪を人差し指の先でつまんでやると、少女の顔はまた更に赤みを増した。だんだんと妖艶な顔が崩れていき、やがて恥ずかしさで固まる少女の顔が浮かぶ。


 ……ティキュラは時々こんな風に大胆に迫ってくるが、基本的には少女が背伸びをしているだけなので、ちょっとからかってやると割とぼろが出る。こういう所が逆に男としては可愛いとも思うのだけれどな。


 ついでにいうと俺は酔えない。無限再生の余波なのか、アルコールがいくら回ろうともすぐに回復してしまう。まあ、そんな無粋な事は今は言わないが。


「……ッ!」

 ついでにベーオウがもの凄い悔しそうな顔してるから、ティキュラをからかうのはこのくらいにしておくか。


「カイさまー!」

 と、そんな中俺を呼ぶ声が。一人の古ゴート族がコココっと軽快に蹄を鳴らして駆けてくる。


「そ、そのっ、すいません、ちょっと、お風呂場まで来ていただけないでしょうか?」

「ん? 何かトラブルか?」

 その子は慌てながら、半分くらいは申し訳なさそうにしながら切り出す。


「あの、お風呂場で水が止まらなくなってしまって」

「ああ。なら俺が見てきやすよ旦那」

「……待て」

 さっと自然に名乗り出たベーオウに、俺は待ったをかける。

 何でって……ほら、まあ、なんとなく。


「何ですかい旦那? ちょいと裸を見てくるだけですが」

 ほらやっぱり。


「せめて本音を隠せ」

「ちょいと様子を見てくるだけですが」

「……すまん、隠してもやっぱり駄目だ」

 思わずため息をついてしまう。


「襲うなと言っただろう?」

「え、裸を見てくるだけですよ?」

「アウトだ」

 一度ベーオウとは、女性の権利についてきちんと話し合わなければいけないな。


「旦那は見たくねえんですかい? 古ゴート族の奴らの裸」

 それは……まあ。

「一緒に行きやしょう。向こうが旦那を呼んでるんですから、何も問題はねえですぜ」

 うん、それは……そう、確かにそうだが。

「あいつらが裸の楽園に俺達を招待したんでさあ。じゃあ旦那は? 行くんですか? 行かねえんですか?」

「……行く」

「ちょっとー」

 ノリに押し負けていると、そんな俺をたしなめるように声が。


「女の子の前で堂々と覗きに行こうとしないでくださいよ」

 今度はティキュラがため息をつく番だった。


 まあ、何はともあれ行ってみないと始まらないだろう。


 俺達は早速風呂場へと向かう。


――


「あ、あの、カイ様、ここなのですが」

 案内されたのは、三階の大浴場。


「あっ、カイ様! わざわざ来ていただいてすみません」

 出迎えてくれたのはアンリと古ゴート族の面々。アンリはすまなさそうに声のトーンを落として、怒られるのを恐れる子供のように、そのヤギの耳を垂らしていた。


 当然のように、服を着て。


「……ベーオウ」

「へい」

「話が違うぞ」

 見渡しても、古ゴート族の女子は皆服を着ているじゃないか。どこだ? 裸の楽園とやらは?


「そりゃあカイさんを呼んだんですから、服着てないわけ無いじゃないですか」

 ティキュラの呆れた声が全てを説明してくれていた。うん、まあ……分かってはいたんだが。


「ひょっとしたら、アンリの嬢ちゃんあたりは旦那に見せるために布一枚で待ってるっ! ……くらいは期待してたんですが」

 そこまで考えていたのかベーオウ。というかその口ぶりだとほとんど期待薄だったんじゃないか。


「えっ! えっと、その、ぬ、脱いでいた……ほう、が、良かったですか?」

「おおっ!? これならあと一押しであぶぼっ!?」

「気にするなアンリ」

 ベーオウにちょっときつめに突っ込みを入れておく。全く、女はそうやって脱がせるものじゃない。なんていうかこう、詫びさびみたいな……ロマンチックなムードとかだな、そういう中で……。


「あ、あの、カイ様?」

「水が止まらなくなった、というのはどこだ?」

 俺はアンリに近づいて、その頭を優しくなでてやる。アンリも初めはびくっとして怯えたものの、俺が撫でるために触れたのだと分かるとほっと表情を綻ばせた。


 ううむ。この距離感も少しずつ詰めていきたいものだな。


 脱ぐだなんだという冗談みたいな会話の中で、アンリの手は……震えていた。


 俺は現状、彼女に命令できる立場にある。

 それこそ俺が本気で『脱げ』と命じれば、彼女は色々なモノを秤にかけたうえで、それを実行するだろう。俺に嫌われたくないという一心で。

 積極的に俺に近づいたのも、全ては一族の未来のため。そのために自分の身すら捧げる覚悟があるのかもしれない。怯えた笑顔の訳は、恐らくはそんなところだ。


 主人と部下。文字通り、俺達はそれだけの関係だ。

 だが一度部下とした以上、少なくとも俺の一挙手一投足に怯え続けていて欲しくはないし、俺は、お前やお前たちを守りたいと思うくらいには、愛しさを感じている。


 だから俺のことを……そう、せめてお前たちの主人を誇れるくらいには……。


「あふっ、んんっ! んっ! あんっ!」

「……え?」

 などということを考えていたのだが……。


「ああっ、か、カイ様っ、もっと、もっとぉっ……」


 ……ええと、俺の思い違いだったか?


 アンリはとろんと表情をとろけさせ、すりすりと俺の手に自分の頭をこすりつけるように催促してくる。

 もっと撫でろと。


「あっ、ああっ! んふううっぅ!」

 凛々しい少女の頬はバラ色に染められ、きりりとした目つきがまるで酔っ払ったかのようにたるみ、潤んでいる。元々かなりの美少女だと思っていたが、こうしてみると、本当に可愛らしい。

 というか、何でそんな急にアダルトな空気になった?


「カーイーさん?」

 きゅっと俺のお腹に巻き付く尻尾。

「水漏れの修理しに来たんじゃありませんでしたっけ?」

 振り向くと、ニコニコと笑みを浮かべたラミア少女が。ああ、うん、中々のプレッシャーだ。

 ……まあ、うん、当初の目的はしっかりと果そう。


「あんっ」

 俺は名残惜しそうに見つめるアンリから手を放して、その場所へと向かう。


「これは……ううむ」

 木造りの大浴場。

 俺のいた国の文化に合わせて作られた、優しい木目が特徴の自慢の大風呂だ。


 その洗い場の一角。金属パイプのつなぎ目から噴水のように派手に水が噴き出ていた。


「そ、そのっ、すみません。私達、何もしていないつもりだったのですが」

 アンリは再びおずおずとした態度でそう告げた。

「突然、そこから水が噴き出して」

「いや、お前たちのせいではない。自然と壊れたのだろう」

 実際の所、パイプが破裂した原因など分からない。経年劣化というやつか、それとも金属疲労や外部から何らかの圧力とか、何か特殊な原因があるのか。

 漠然とそういう知識はあるが、かといって見てもそれが分かるわけじゃない。


「こりゃあ派手に……何かで塞ぐにしても、そこそこ頑丈な素材がいりやすね」

 俺の突っ込みから復帰したベーオウも話に加わる。

「えっと、じゃあ土を焼き固めて塞ぐとかはどうですか?」

 ティキュラの発案に、周りの古ゴート族もうんうんと頷く気配。ティキュラの持っていたコップのような素材を使うのか。


 あれなら水を通すのには適しているかもしれないが、金属パイプとつなぎ合わせるのは少しミスマッチだな。


「いや、溶接しよう。ベーオウ」

 この金属パイプに合う素材、かどうかは分からんが。

「地下牢に行って、アレを取ってきてくれ」



「持ってきやしたよ、旦那」

 ベーオウはすぐにそれを持って戻ってきた。

「あ、それ、私を繋いでいたやつですか?」

 ティキュラは見覚えのあるそれを、そう、俺とティキュラを繋いでいたあの鎖を指してそう言った。

 ティキュラに関しては肝が据わっているというか、地下牢で繋がれていた思い出に触れても特に動揺したりはしないようだ。地下牢で初めて会った時、裸に剥かれていたというのに。


 薄暗い地下牢に繋がれた幼い少女。

 褐色の肌に白い髪、そこに浮かぶ湖面のような瞳を見た時の事は、今でも忘れない。


 その未成熟で滑らかな肌に指を這わせ、首筋に思い切り噛みつきたい……と思ったのは、流石に内緒だが。


「これで破れたところを塞ぐ」

「あ、じゃあ火も起こさねえとですね。ちょっと外行って」

「いや、いい」

 俺はベーオウを手で遮って止める。というか焚き火程度の火力じゃこの鎖を溶かせない。


 ふとベーオウ達のこん棒に巻き付けられた金属の事が頭をよぎったが……いや、それに関して語るのはまた別の機会にしよう。


「素手で十分だ」

「へ?」

 水を噴き出すパイプのバルブを閉めて水を止めてから、俺は穴の大きさを確認する。これなら大体、鎖の輪三つ分あれば足りるな。


「え、カイさん、その鎖……えっ!?」

「う、嘘っ……」


 俺は鎖を、素手で


 まずは一回輪を折りたたんで、そこからまた折りたたむ。三つの輪をそこで合わせてぎゅっとボール状にして握り固める。


 そうすると金属は勝手に熱を発し、自らの熱でどろりと溶け始める。そこを粘土細工のようにこね回して形を整えていくのだ。


「ま、魔法で溶かしてる……わけじゃ、ねえんですかい?」

「ああ」


 ただの馬鹿力だ。

 太陽のような恒星で、巨大な重力によって物質を押し固めて原子を崩壊させ、別の原子に作り替える作用がある。

 これを核融合というが、そこまでいかなくても空気の圧縮や原子間の熱の移動で……要するにものすごく力を籠めて押しつぶせば、物質は勝手に熱を持つのだ。


 鉄の融点などたかだか千度程度。この鎖は合金だがそれでも数千度程度で溶けるのは変わりない。


 ちょうどいい塩梅までこねて、それを破裂したパイプに塗り付けていく。まずはなじませるように、だんだんと量を増やして膜にし、薄い板にし、壁にする。これで冷やせば、しっかりと穴は塞がれるわけだ。


「これでよし、だ」

「はあぁー」

「す、凄い……」

「お、お見事です、カイ様」


 周りからは称賛の声。ふふ、ちょっと気分がいいな。日曜大工で家のトラブルを華麗に解決するお父さんみたいだろ? 水漏れなんかの滅多に起きない事件に周りが困惑する中迅速に対処して『ああ、やっぱり頼りになるわアナタ』と見直される感じ……。


「いや、そこじゃねえんですが」

「え?」

 今度はベーオウの方から冷静に突っ込みを入れられるのだった。


――


 夜。

 星空を見上げながら、私は今日の事を思い返していた。


「怒られなかったな」

 カイ様はあの、お風呂という巨大な水浴び場で起きた事故で、何一つ私たちを責めなかった。


 実際私たちのせいではない、と、思うのだけれど、仕組みも何も分からないから、知らないうちに何かしていたかもしれないという恐怖はあった。

 それがそのまま、カイ様の怒りを買うかもしれないという恐怖が。


 けれど、そんな些細な不安など、なんでもないかのようにカイ様は事をおさめられた。


「優しい、お方」

 私は自分の頭の上に触れて、あの人の残り火を探るように、撫でた。

「どうして、私だけ気持ち良くしてくれるのかしら」

 私たちは撫でられるのが大好きだ。それは、女として生まれたからにはみんなそうなのだろうと思っていたが、特に古ゴート族がその傾向が強いと知ったのはつい最近だった。


 だからあの人は、私を撫でるという意味をたぶん分かっていない。女として体の芯から火を入れられているのを、あの人は気づかない。


 けど、それを抜きにしても。


 何故あの人は私を大切にしてくれるのだろう。

 何故あの人は押しかけるような形でやってきた私達から、何も取らないのだろうか。


 何故あの人は……何故。


「アンリ?」

「えっ」

 呼ばれて振り返れば、まさかと思う人が、そこにいて。


「か、カイ様」

「眠れなくてな。散歩だ」

 その人は私の疑問に先んじて答えて、私の隣に立って空を見上げた。


 真っ暗で、吸い込まれてしまいそうな煌めく星々が浮かぶ夜空を。


「……美しいな」

 カイ様は空を見上げたまま、呟いた。

 女として、その言葉にどくんと心臓が跳ねたのは、内緒だ。


「の、乗ってくれませんか?」

「え?」

「い、いえっ! 散歩に来たのなら、その、お乗りください。私がお運びします」

 半分はその心をごまかすように。半分は、カイ様に、気に入られるため。


「……ああ」

 カイ様は腰を下ろした私に、ゆっくりと跨る。


 カイ様が私に跨るのが好きでないのは、なんとなく察していた。それでも私が感謝の気持ちを伝えようとしているのを知って、それに応じてくれていることも。


 姑息な計算をしている自分は、少しだけ、嫌いだ。


「……」

 コッコッと軽い音を立てて私は歩く。

 背中に感じるこの人の熱が、じんわりと私を温めていく。


「カイ様は……」

「ん?」

「別の世界から、来たんですよね」

 話題を探しながら、私は、荒野をゆく。


「この世界より、いい所でしたか?」

 最初の日に告げられた。カイ様の城の、あまりに予想もつかない数々の仕組みに私たちが驚いている時に。


 自分は別の世界からやってきたのだという話を。


「そうだな……」

 初めは信じられなかったが、あまりにこの世界の常識とかけ離れた城の作りに、信じざるを得なかったのだ。


 けれど私は……。


異世界こっちの方が、星は綺麗だ」

「ふふ、そうですか」

 カイ様の答えに、私はとても満足していた。


 故郷を思わない者はいない。

 私だって、あんな状況になった村を捨てるのには、相当な覚悟が必要だった。ふいにあの村まで、この四本の足で駆けていきたい衝動も、まだ心のどこかには残っている。


 けれどこの人は、帰りたいという言葉を口にすることはないだろう。私はそう確信していた。少なくとも、私たちの前では。


 この人は、私達から何も取らない。

 この人は、私たちを大切にしてくれる。

 この人は、ああそうだ。この人は……。


「カイ様は、やっぱり優しいですね」

「ん?」

「いえ」

 ふいに口に出てしまった言葉を、私はなかったことにした。


 この人は別の世界からやってきた吸血鬼。


 でも私は、そんな肩書より確かなものがあると確信していた。あるいはこれは、天が、神が遣わせてくださった贈り物なのかもしれない、と。


 このお方は、誰より誠実で。

 このお方は、誰より愛に溢れ。

 このお方は、誰よりも優しい。


 聖人君主のようなお方……。


「この世界のこと、気に入っていただけて嬉しいです」

 このお方について行けば大丈夫だ。

 きっとこのお方は、私たちを守ってくださる。

 私達一族を、養ってくださる。


 だから、私は私の全てを捧げるのだ。


「アンリは……」

 カイ様は私の背で、何か言いかけ、けれどその先を口にせずに押し黙ってしまった。

 何を言いかけたのだろうかと気になる中で、自分の心の中が、少し冷えてきているのを自覚していた。


 本当は、もっと大切なものを、この人は教えてくれるのかもしれない。

 もっと大事な何かを、私にくれるかもしれない。


 そんな、女としての本能がそう訴えかけるが、私はそれを無視した。


 一族のために、生き延びるためには、今はきっとそれが邪魔だから。


「そろそろ戻りましょうか」

 そうして私は、一度来た道をまた戻っていくのだった。


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