第5話 ダークホース

「やぁ、田中さん」

 自分を呼ぶ男の声に僕は読んでいた小説を膝上に置くと少し驚いた顔で声主を見た。

 僕は大阪N区の図書館の三階のソファで最近刊行された話題の小説を読んでいたのだが、まさか声主の人物とここで会うとは思わず、その為驚いたとき思わず小さく声を漏らして、周囲で静かに読書をしている人達を振り向かせてしまった。

 彼は「静かに」と小さく言って人差し指を自分の唇に寄せると鼻から少しずれた大きな黒縁の眼鏡を戻しながら周囲の視線に少し肩をすくめるようにして手にしていたビニール傘をそっと十番と書かれたソファに横置きすると、僕の横に腰を掛けた。

 仕事が休みの週末、僕はごくたまに大阪N区にあるこの図書館にやって来ては自分の好みの雑誌や小説を読み、趣味である読書に興じるのだが、今、横に座って笑顔を見せる彼とは住む地区も異なり、また僕がこの図書館に休みの時に訪れる習慣性があること等、勿論彼には一度も話したことが無いから、まさかこんなところで奇遇にも会うとは到底思ってはいなかった。

「四十川君、どうしてここに?」

 問いかけにはその気分が少し出ていたが、小さくしかし本人には良く聞こえる様に僕は低く言った。

 僕の問いかけに対して彼は微笑を崩さず、口に寄せた指を離して、僕が手にしている小説を指さして言った。

「田中さん、ほら、前に言いませんでしたっけ?僕・・個人的な趣味で小説を書くって」

 僕は彼が何か僕の謎に足してヒントを与えてくれていることに気付かず、首を傾げた。それを見て彼が僕の腕を掴んで「ほらほら。だから・・」と言った。

「いえ、ほら僕小説を書くでしょう?だからたまにこうして図書館へやって来ては色々と資料を見たり、時には借りたりしているのですよ。ここの図書館は大阪市では中之島の図書館と劣らずの蔵書ですからね」 彼はそう言うなり僕が膝の上に置いた小説を手に取った。

「あ、これ、この前刊行されたばかりの小説じゃないですか。もう刊行されたばかりだというのに既に何でも今年の大きな賞を獲るだろうともいわれている」

 彼はその本を舐める様に見ると羨ましい表情になったが、それを慌ただしく僕の胸元に押し当てると代わりに僕の目前に別の小説を出してきた。

 そしてその小説を軽くポンポンと叩く。

「どうです?田中さん、こちらも中々の小説ですよ。どちらかと言えばこちらの方が今年の賞を獲るとは思いませんか?」

 彼が僕の目の前に出した小説は推理小説で、それも今年の大きな賞を受賞するかと言われている作品だった。

 僕は前回ここを訪れた時に既にその作品は読んでいたから物語の中身は知っており、正直なところ残念ながら今僕が中程まで読み始めている小説に比べれば面白さに欠けるところがあって、エンターテイメント性では落ちると思っていた。だから彼のにこりと微笑む瞳から視線を少し外して「そうだね」と小さく言った。

「おや、おや?田中さん、どうやら僕と同意見ではないようですね」

 少し下から茶化すように見る彼の視線に僕は、小さく咳払いをした。

「僕も、まぁこのようなお二方みたいな小説が書ければいいのですけれどもね」

 そういうと彼は目も前に出した小説を数ページぱらぱらとめくると、興味が無いのか小説をくるくると指の上で回した。

 それには少し僕も気の毒になったので同情するような気持ちで「まぁ、それは」と小さく言った。

 横に座って本を指の上で回している人物、彼の名を四十川仗助というのだが、彼は僕と同じ会社で働いている社員だった。

 大阪市内の本町にある小さな製薬会社で共に働いており、僕は営業、彼は物流というそれぞれの部署で勤務している。

 彼とは僕が先輩に当たり、彼は四つほど年下の後輩になる。

 彼とは会社であった新入社員の歓迎会でその時初めて会った。

 声をかけると彼は先程のような人懐っこい笑顔で分厚い眼鏡を少し曇らせて僕に笑顔を向けた。それが何とも言えない純朴さと言うか、そうした彼が持つ品性と言うものに少し惹かれて連れ込まれそうになりながら話をしていくうちに彼が僕と同様に読書好きであること、そして彼が働きながら小説家を目指していることを聞くと、僕は彼に対する興味と好感が持ち、その後は時折個人的にも会社が終われば二人で連れ立って飲み屋に行くという、親しい間柄になった。

 しかしながら、ではある。

 僕は心の中で頷く。

 それでも住んでいるところは互いに異なり距離もあることから、この場所で会うことは約束事が無い限り可能性はゼロのようなもので本当に偶然と言えるきわめて貴重な体験を僕は今得ていた。

 その偶然に寄りかかる様に僕は再び声を潜め、彼に言った。

「本当に偶然だね、四十川君。君とここで会うなんて」

 僕の問いかけに彼は何も反応せず、本をくるくる回しながらぼんやりとしていた。おやと言う表情で僕は再び彼に言った。

「ねぇ、四十川君・・」

「あ、失礼しました。田中さん」

 彼は僕の問いかけに慌てて僕に向き直った。

「どうしたの?ぼんやりして」

「いえね・・・」

 彼が僕の方を見ていた。

「ある言葉を突然思ってしまいましてね?」

「言葉?」

 そう、と彼は小さく頷いた。

「どんな言葉?」

「ダークホース」

「ダークホース?」

 僕は彼の言葉に反芻した。

「どうしたの、それが?」

「いえね・・・、もしもですよ。僕がこれから体験することを小説にして完成できたらきっと素晴らしい作品になると思うのです。そうなれば世間一般は全くノーマークの新人が現れてその賞を獲っていく、まさしく、それの立場はダークホースなのだろうなと」

 僕は彼が興奮するように話す内容が全く分からなかった。

 僕は彼が何故ここに偶然いるのかということを聞きだしたいだけだったのだが、彼が思いもよらないことを話し出した為、むしろ突然言い出した「これから体験すること」の方に興味が湧いてしまった。

 自然、それを聞けば、何故彼がここに偶然い合わせることになったのかも自然にわかるはずだと、僕は瞬時に思った。

「何だい?その体験と言うのは?もしかしたらそれが僕達をここで引き合わせた偶然の原因のようだけど?」

 僕は彼の方を見た。

 彼は僕の視線に気づくと頭を掻いて眼鏡を曇らせると笑顔を見せた。



 日曜日の早朝の図書館の静けさと言うのは普段忙しく過ごしている都会のオフィス慌ただしさとは打って変わり、勿論、自然の中にある静寂とはかけ離れているが、どこか人工的に作り出された静謐と言うものを無言で座る人々がまるで森に生育する白樺の木々の様で、それがまるで森の白樺の木々の中に迷い込んだような静けさのようだと僕は思っている。

 森を散歩していると遠くで鳴く犬のけたたましい吠える声が聞こえれば、それは森を散歩する人がいるのだと分かる。

 では横に座る彼は朝の散歩者と言えるかもしれない。彼は僕の周りの白樺の木立を抜けて僕の前に現れ、笑顔で吠えたのだからだ。

「田中さん、その話の前にですが、昨日のフットボールのワールドカップ見ましたか?」

 僕は首を横に振った。

「いや、見ていないけど・・それが何か?」

「そうですか、見ていないのならばそれはいいのです」

「何か特筆すべきことでも?」

 彼はそれで少し腕を組んで僕を見た。

「いえ、まぁ日本も予選で敗退したし、興味が無くなるのも無理はありませんが、実は昨日のブラジルとイタリアの試合、とても白熱したゲームでした。スコアは3対2でイタリアの勝ちでしたが、ブラジルの後半延長時間の攻撃は凄く、死に物狂いで素晴らしいものでした」

 僕は彼が興奮して話しているのを横で見ているだけだった。彼は昨日の試合の興奮を思い出したのか少し頬を赤らめて眼鏡をずらして勢いよく手に傘を掴んで振り回さんばかりになったので、僕は彼の手を押さえてなだめる様に言った。

「お、おい、四十川君、ここは図書館だから、静かに」

 それで彼は少し興奮から覚めておっとと小さく言って傘をソファの横に置いた。

「それで昨日のワールドカップがどうしたの?」

 彼は「そうでした」と言った。

「いえね、その時、ゴールサイドにボールが出たのですがね、その時試合中に出たボールを普通そのままフィールドに持ち込んで試合を再開するのですが別のボールボーイがボールをフィールドに蹴り込んでしまって、それを選手がコーナーポストに置いて試合が再開されました。結局それが、決勝弾に繋がるキックになりイタリアが勝ちました」

 僕はそれの何処が不審な点があるのかわからず、きょとんとしていた。別にフットボールに興味が無い訳でもないが、別段それは問題ないように思った。テニスや野球でも良くあることだからだ。

「それで・・それが何か問題があるのかい?」

 僕は彼に聞いた。

「ええ、問題ありありです。今日の新聞は見ていらっしゃらないですよね。その蹴り込まれたボール・・実は良くできた偽物のボールだったのです」

 それを聞いて僕は思わず声を荒げた。

 それで一斉に周りの人々が僕を凝視した。それに気づいた僕は声のトーンを落として、しかし驚きを隠せないまま彼に言った。

「ね、ねぇ・・四十川君、そいつは本当かい?ワールドカップと言えば世界の大きな大会だ。そんなところでそんな虚偽なんかあったりしたら・・」

 僕は真顔で彼の方を見つめていると、やがて彼が堪えられなくなったのかぷっと噴き出して笑い出した。

「田中さん、冗談です、冗談ですよ。そんなことはありません。今の話は僕の作り話です。いや、見事に引っ掛かりましたね、田中さん」

 唖然とする僕に彼は言った。

「いえ、すいません。だますつもりはないのですが、これから僕が話す体験をすこし想像していただけるのではないと今のような作り話をしてしまいました」

 少し怒りが湧いてくるのを押さえて僕は彼に言った。

「四十川君、あまり・・からかってもらったら困るよ。よし今の話は少し僕も内心騙されて怒ってしまったから君が今から離す内容がとてもつまらないことだったら、今夜、僕に酒をおごってくれ。いつも僕の方が天満でおごってばかりだからね。どうだい?四十川君」

 彼は僕の案に同意したのか大きく頷くと

「いいですよ」

 と、力強く言った。


 目の前のソファに短い髪型をした体躯の良い、そして少し蟹股の中年男が座ると手にした雑誌を開いた。

 どこにでもあるスポーツ雑誌で表紙には柔道の特集をしているのか、オリンピックで見たことのある選手の写真が見えた。

 僕はそれから視線を外すと、四十川に視線を戻し、「それで・・」と、言った。

 四十川もその男へ視線を向けていたのか、目を細めて雑誌の表紙写真を見ていた。

「四十川君」

 僕の声に彼は耳元に、口を寄せた。

「田中さん、あの雑誌、見てください。一年前のものですよ。柔道世界選手権のときのですから・・なんだってあんな古いのを手に取るのでしょう・・いくら、何でも・・」

 僕は彼が言いそうになった言葉尻を制して言った。

「人の知りたいこと等、気にしないでいいじゃないか。それに人と言うのは不思議なもので、巷に色んな最新情報があったとしても、人は自分が欲しいというタイミングでしか欲しくないし、興味がわかないものだろう。だからきっと目の前の親父だって一年前以上の雑誌でも、きっとその時は知り得たくなくて、今になって図書館に来てふと我に返り、急に知りたくなったのだろう」

 僕の言葉に要領を得たのか、少し目を丸くして彼は僕を見た。そして眼鏡の縁に手をかけて小さく「成程」と言った。

「それよりも、早く、君の体験話を聞かせてくれ」

 ああ、と彼は低くそれでも雑誌を開いた男を少し呆れる表情で見て、僕の方へ顔を寄せた。

「田中さんの欲しいタイミングは今ですもんね」

「そういうことさ」

 僕の言葉に相槌を打つと彼は足を組み替え、そして顎に手を遣ると少し伸びた髭に手をやって首を傾げた。視線は目の前のソファで雑誌を広げた男を物憂げに見ている。

 僕は内心、何がそんなに彼の気になるのか含み笑いをしながら、彼の言葉を待った。

「そう、丁度一週間前の日曜日でした」

「日曜日?」

 僕は反芻した。

 彼は頷いて、物憂げな視線を僕に戻した。そして目を二、三度しばたたかせると続けて言った。

「僕は環状線の京橋駅に居たのです」

 


 彼の話はこうだった。

 その日大正区に住む友人を訪れる為に、彼は環状線に乗るべく京橋駅に居た。その日天気予報では一日曇りだったが、彼が京阪電車から環状線へ乗り換える時、小雨が降り出した。そこで彼は駅中のコンビニでビニール傘を買って、ホームに上がって電車を待った。やがて電車がやって来て扉が開くと彼は電車の中に乗り込んだ。その時、携帯電話で話をしながら降りて来た小さな禿げ頭の小男と肩がぶつかった。男は電話の内容に興奮していたのか、ぶつかった彼を振りかえると大きな罵声を浴びさせ、急ぎ足でその場を離れた。その時彼はその男から因縁をつけられるのを嫌がり、直ぐに扉側の席に腰かけると手すりのバーに傘を置こうとした。そこには誰かが忘れたのか、ビニール傘が置いてあり、彼は気にすることなく自分の傘と並べて置いた。すると扉が閉まり始めた時、先程の禿げ頭が急ぎ足で戻ってきて閉まる扉の隙間から傘を手に取ろうと手にしたが、残念ながら一瞬早く扉が閉まった。

 男には悪いが無情にも電車はホームを出て行った。出て行く電車の扉を男が蹴った音と何か罵声を大きく喚き散らすのが聞こえた。

(傘ぐらいで大人気ない)彼はそう思って置き忘れられた傘を見た。特段高級そうな傘ではなく、自分と同じタイプの安い大量生産品の傘だった。

 その後、彼は大正駅まで電車に乗っていくつもりだったが途中電車は天王寺駅で停まって進もうとしなくなった。彼が不思議に思っているとその電車が大正駅まで行かず天王寺止まりだったのが分かりました。

 彼はそれに気づくと大きく悔しがり、友人への遅刻の理由を考えながら電車を降りようとした時、電車内を急ぎ足で歩く車掌が声をかけて来た。

「すいません、ここに傘の忘れ物はありませんでしたか?と」

 彼は咄嗟に男の忘れた傘を取ると「ありませんでした」と答えて急ぎ足で反対方面のホームへ走って、戻りの電車へ乗り込もうとしたが、思い立つことがあり、その車掌に聞いた。

「すいません、大正方面へ行きたいのですが」

 それに車掌が答えた。

「それならこの電車が戻りますから、そのまま乗って下さい」

 彼はその言葉で再び同じ場所に座り、電車が出るのを待つことにした。そして電車が動き出し再び京橋駅方面へ向った。

 やがて大阪城が過ぎて京橋駅にホームが見え始め、電車がホームに入ろうとするとあの禿げ頭が車内を血走る目で舐める様に睨み付けつける様に見ている姿が見えた。

「そこで僕は傘を自分が座った時と同じように手すりのバーに置いていたのです。実はその時、僕にはどちらの傘が自分ものか分かりませんでしたが、もう別にいいだろうと思ってそのまま適当に一つの傘をそこに置き、一方の傘を自分で持って、そして少し場所を離れました。その時僕は男の傘を見つける様子を見ようと思ったのです。何故か不思議に思ったのですよ・・だって唯の傘ですよ、安物のコンビニでも売っている、大量生産型の傘ですよ。何も、男が血眼に探すような高価なものではないですから」

 電車の扉が開くと男は辺りを見回していたが、傘に気が付いたようで人の背を手で分ける様に車内を進み、やがて置かれた傘を手にした。そしてポケットから携帯電話を取り出すと手すりに揺られるように電話をかけた。

 彼はゆっくりと何喰わぬ顔で男と背を合わせる様に立った。

「お、あったで、車掌の言う通りや、電車が戻って来たわ。おう、ほんなら、次で降りるで・・ほんま、冷や汗かいたっちゅうねん」

 その声をはっきりと彼は聞くと電車は次の駅に着いて、男は足早に降りてやがて人混みの中に消えて行った。



「それで僕はそのまま電車に乗り、大正駅まで行ったのです。そしてそこで駅を降りようとする頃、小雨が降り出しました」

 彼はそう言うとシャツのポケットから四つに折られた小さな紙切れを出した。それを僕に押し出したので、受け取ると紙を広げて見た。そこには十一桁の数字が並んでいた。

「これは?」

 彼はうんと頷くと僕に言った。 

「携帯電話の番号です。実は大正駅を降りた時、駅長室で聞いたのですよ。あの禿げ頭の男があれ程傘に執心だったら、きっと忘れ物の届け出先として、駅員に言っているだろうと思ったものですから」

「いや、でも・・別に良かっただろう?傘もその男、戻りの電車で君が置いた傘を持って降りたのだから・・それに別にどうってことも無い傘なのだから・・」

 彼は僕が話すのを聞きながら僕の目の前に、何かを出した。僕は目の前に出されたそれを見て言った。

「これ・・」

 僕はそれを手に取った。

「今、君が持ってきた傘じゃないか・・普通のビニール傘・・」

 僕がそう言った時、彼がちらりと先程、柔道の雑誌を開いて見ている男の方を見た。

 一瞬だが二人の視線が合った、と思った時、彼が手早く傘を僕の手から取り戻すと、傘を開こうとした。

 僕が慌てて彼の手を押さえようとする。

「お、おい、四十川君、ここでそんなことしたら・・」

 彼は傘のシャフトを力強く押している。それも相当力を入れているのか、小さなうめき声と眉間に寄せられた皺で分かった。

「四十川君、ちょ、ちょっと」

 図書館のこんな場所で傘なんて開こうものなら、どこから職員がやって来て僕らを叱責するに決まっていた。

 しかし、そうはならなかった。

 傘は開かなかったのである。

 彼は小さく、しかし、長く息を吐いた。息を吐き終えると雑誌を読んでいる男に目を向けたが男は別段こちらを気にすることなく、黙々と雑誌を見ていた。

「ちょっと、どういうことだい、四十川君。傘をここで開こうなんてするのもどうかと思ったけど・・傘が開かない・・これは・・」

 僕が言い終わらぬうちに、彼が僕に傘を渡した。先程の作業で眼鏡がずれたのかそれを手で戻しながら言う。

「田中さん、一度、傘を開いてみてください」

 僕は彼に言われたように傘のシャフトから押し出すように傘を開こうとしたが、傘は開かなかった。どのように力を入れてもびくともせず開かなかった。

 僕も、思わず声を出した。

「これは壊れているのか?」

 彼は首を横に振った。そして指を指す。

「壊れていません、良く傘のシャフトを見て下さい、そこの部分に押し出し部があるでしょう?しかしよく見ると、溶接がしてある」

 僕は彼が指差した部分を見た。確かにそこには溶接がされている部分があった。これでは傘が開くことは完全にできなかった。

「何だいこの傘、まるで推理小説なんかに出て来る仕込み杖・・」

 そこまで言って僕は、はっとした。

 彼は僕の表情を見てにやりと笑った。

「そう、それ・・仕込み傘なのですよ。だからきっとその禿げ頭の男、困っていると思うのですよね。仕込み傘と間違えて普通の傘を持って帰ってしまったのだから。それで連絡をしておいたのです。今日ここに傘を持って来るので僕の傘と交換してほしいと」

「そうなのか?」

「ええ、そしたらもうすぐ十一時でしょ。この十番と書かれたソファで、その時間が待ち合わせなのですけど、幾分かの謝礼と合わせて持って来ると・・」

「謝礼だって?」

 僕はまじまじとその傘を見た。溶接されている何か仕込まれているような怪しい傘。見かけは普通の何処にでもある傘、それにどんな謎があるというのだろう。

「一体、どんな謎の傘なのだ。これに一体何があるというのだろう」

 彼はそれを聞くと、自分の髪を掻いた。何か気まずそうな、しかし何か言いだしそうなそんな表情をしている。僕は彼がきっとこの傘の秘密まで知っているのだろうと、直感で感じた。

「四十川君、知っているのだろう?この傘の秘密・・なぁ教えてくれよ」

 僕は彼の眼鏡の奥の黒い瞳を見た。

「いや、しらばっくれても駄目だ。君は知っているはずだ。だって小説にするのだろう。ここまでの事だけじゃ、大きな賞は取れないぜ、しっかりとその秘密まで教えてくれなきゃ、読者は不満でしかない」

 彼は僕の言葉に少し口をとがらせるようしていたが、やがて顎を触り始めると「そうですね・・」と言った。

「まぁ、もうすぐ解決するわけですし・・良いかな」

 その時、部屋で大きな音がした。子供が数冊の抱えていた童話なのだろうか、分厚い本を床に落としたのだった。そこに居る人が一斉にその子供の方を見る。僕達も視線を子供に向けた。僕は視線を向けながら、子供の方を向かず僕達の方を見ている視線を感じた。その視線を追うように辺りを見回そうと首を回した時、目の前に一人の男が立った。

 不意を突かれて驚いた僕は、小さくおっと声を出した。

 そこには小さな禿げ頭の男が立っていたのである。

 小男は低く素早く言った。

「四谷っちゅうのはあんたか?」

 僕は首を振った。

「じゃ、あんたか?」

 目を細めて彼を見た。

「ええ・・そうです。四谷です」

 それを聞くと男は周りを素早く見回して、懐から紙袋を出した。

「これ、謝礼や。ほんで例の物は?」

 彼は手にしていた傘を男に差し出した。男は傘を手に取ると手早く全体を見た。それから黙って傘の先で床を二度、素早く叩いた。その時、カチッと小さな音がしたのが聞こえた。

 すると手にした部分がわずかだが浮き上がるのを見た。

 禿げ頭の男はそれで満足気に小さなしかし邪悪な笑みを浮かべると、謝礼袋を彼の前に投げた。

「おおきに、しかし兄ちゃんこのことは忘れるんやで、でないと後悔するからな」

 そういうと禿げ頭は急ぎ足で僕達の目の目を立ち去って行った。

 僕は唖然とした表情で居たが、彼は納得したように立ち上がると、大きく背を伸ばした。

「さて、田中さん、幾分か謝礼も入りましたし・・どうですか今から天満の方の立ち飲み屋にでも行きませんか?先程お酒をおごる、おごらないという話になりましたけど、そこでこの物語の結末をお話ししようじゃありませんか」

 僕はそんな彼の表情と余裕を見て不気味な気がした。

 そしてその時、先程本を落とした子供が歩いているのが見え、その向うでいつの間にか柔道の雑誌を読んでいた男が消えていた。

 それがこの物語の結末だとはその時は微塵にも思わなかった。



 天満駅から少し天六の方へ行った小さな飲み屋が集まる密集地帯の一軒の暖簾を僕達はくぐった。

 中はうなぎの寝床の様に細長くなっているが、壁の左側がほぼ厨房になっていてそれに沿ってカウンター席があり、その一つに僕達は座った。まだ昼間だが繁盛しているのか客は大入りだった。

 ビールを頼むと出されたおしぼりで顔の汗を拭き、そして僕は彼の方を見た。

「じゃ・・前のソファで雑誌を読んでいた柔道の雑誌を見ていた男が・・刑事だったわけだ」

 彼はコクリと頷いた。

「そうなのですよ。しかし張り込む刑事があんまりにも古い雑誌を読むなんて・・もし少しでもあの禿げ頭の男が用心深くて知恵のある男だったら・・僕の側にいる男が古い雑誌絵を読んでいると思ったら、もしかしたら張り込まれていて、そいつが刑事だなんて分かりそうになるものではないですかね?・・だから田中さん、僕は不機嫌になったのです」

(そうか)と僕は心の中で頷く。

 確かに、まぁ囮といえば、彼はその囮だった。図書館と言う海に蒔かれた餌だろうし、当然それを食しに来るのは獰猛な巨大魚だったわけで、そうなれば彼自身の心を思えばまぁ余命と言えば大げさかもしれないがいくばくもない状態だっただろう。

 そうこうしているうちにビールが運ばれて来た。それを僕達は手に取ると無言でグラスを合わせた。

 喉を過ぎてゆくビールの味がとても心地よかった。

「もう一つ聞くけど、どうしてあの傘が仕込みだなんていつ分かった?」

「ああ、それですか・・」

 彼は口元についたビールの泡を舌でぺろりと舐めるとグラスをテーブルに置いた。

「大正駅に着いた降りた時、小雨が降ったと言ったでしょう?」

「うん」

 相槌を打つ。

「僕は雨が降り出したものだから傘を開こうとしたのです。そしたら先程の図書館の様に傘が一向に開かないじゃないですか。それでおかしいなと思うのと降り出した雨と、それに友人との待ち合わせに遅れたのもあって苛立ちが募ってしまって、この野郎って気持ちで思わず傘の先で力任せに地面を叩いたのです。その時ですよ、傘の握りが急に浮かび上がった感じがして・・」

 僕は無言で彼の表情を見ていた。彼は喉が渇いたのかそこで一気にビールを飲んだ。

「何かが落ちて来たのです。小さな錠剤の様なカプセルがね・・」

 僕もそこでビールに口をつけた。何とも言えない苦みが口中に広がると直ぐに喉を過ぎて消えて行った。

「僕は急いでそいつを拾ったのです。それで完全にこの傘が何かとても犯罪の道具の様な匂いを感じたのです。だから僕は急いで大正駅の駅長室に向かい、何か京橋駅で傘の忘れ物の連絡がないか聞いてみたら、案の定、その連絡があった。駅長が預かりましょうか?と言ったのだけど、僕はその傘を渡しはしなかった・・」

 「どうして・・?とても危険な話じゃないか・・一歩間違えたら・・」

 彼は首を振った。

「そう、確かに・・田中さんの言う通りです、だけど実はですね。僕がその日の日曜日に会うと言っていた友人は・・実は警察に努めている友人なのですよ」

「ええ?そうなの?そんな偶然があるのかい?」

 彼も不思議そうな目で僕を見ていた。

「あるのでしょうね。そうとしか言いようがないですよ。だって今日も図書館で田中さんに会ったのも偶然じゃないですか。偶然と言う何か必然ともいうべきルーレットの上を僕達はまるで生きているみたいなものでしょうね。そう・・あの禿げ頭の男もね。あの男、きっと今頃刑事にとっ掴まっているでしょうね。図書館にはあの体躯の良い蟹股の刑事以外にも数人いましたから・・」

「しかし・・それでも危険だよ」

 僕は彼に言った。

 そう言った時、彼の携帯が鳴った。鳴り出した携帯を手に取ると、席を外した。

 その電話が恐らく警察からだと僕は思い、彼が戻って来るまで静かにビールを飲んだ。

 彼が戻ってくると、果たして警察だったようで、何も言わずに座ると僕に目で答えた。

「終わったようです」

 僕はそれを聞いてビールを一気に飲み干した。そして彼の方を見て言った。

「どう、四十川君、ビールをもう一杯飲まないか?この物語、とても面白かった。完全に僕の負けだ。今日はおごるよ」

 それを聞くと彼は満面の笑顔を見せたが、しかし手を大きく振った。

「いやいや、やはりここは僕がおごります。だってこうした謝礼も入ったのだし」

 そこで一つ彼は咳をした。

「やはり・・僕はダークホースでしたね?」

 僕も彼に釣られるように笑顔で聞いた。

「どうしてそう思うのかい?」

 彼はそこで手を上げて店の子を呼んだ。

 彼の上げた手を見て、店の子がこちらにやって来るまでの数秒、彼は僕に言った。

「だってあの禿げ頭、まさか警察じゃなく、一般市民の僕の罠に掴まったわけでしょう。それこそあの男から見れば、僕はダークホースだったわけでしょうから」

 これは後で聞いたのだが、あの男を捕まえる為に自分が囮になると警察の友人に話を持ち掛けたのは、彼、四十川の方だった。全ては彼のアイデアによるもので、そして、その一年後の夏、彼はとても良い内容の推理小説を書き、その年の暮れに、大きな賞を獲った。 不思議なことだが、その時の彼の賞の獲り方は、誰にも期待されていな新人で、まさにそれこそ文学界のダークホースともいうべき存在の扱いだった。

(終わり) 

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