第47話 ジャック、フィオナをさらう
外には都合よく辻馬車が待ち受けていて、飛び込んだフィオナを乗せて、あっという間に何処かへ走って行ってしまった。
「え? おい、フィオナは?」
アンドルーは、フィオナが突然出て行ってしまったので、ひと呼吸遅れたが、あわてて部屋を出て執事に聞いた。
「旦那様、フィオナ様は出て行ってしまわれました」
「ど、どこへ?」
「ちょうど折り悪く、辻馬車が停まっておりまして、乗ってどこかへ行っておしまいになりました」
どこへ行くと言うのだ……
アンドルーは、呆然とした。
「あの、旦那様……それで、今、お客様が……」
執事が何か言いかけたところで、アレクサンドラが様子を覗きに来た。
「フィオナは?」
夫の機嫌が最悪なのは気が付いていたが、聞かずにいられなかった。
「何処かへ行ってしまった……」
アンドルーは、初めて妻に向かい合った。
彼も妹とどこか似ていて、アレクサンドラのような烈しい気性を相手にすると尻込みしてしまうのだ。だが、今はそんなことは言っていられない。
「アレクサンドラ、フィオナに何を言った?」
アレクサンドラは、少し赤くなった。
「あら。私はフィオナの願いを叶えようとしただけですわ」
「グレンフェル侯爵との結婚か? お前が勧めたのか?」
「とんでもないわ。修道院へ入るように勧めたのよ」
「ジャックとの結婚が決まっているのにか?!」
さすがにアンドルーが顔色を変えた。婚約が決まっている娘を、理由もないのに修道院に入れとはどういう理屈だ?
「もともと修道院に行きたいと言っていたんですよ? 入会金の目処が立ったんだから、希望を叶えてやろうと思ったのよ」
「ジャックと結婚すれば、ジャックの家から支援が受けられるんだぞ?」
「だってそんな金額よりフィオナの遺産の額の方が大きいじゃないですか。修道院に入ったら、入会金以外はお金がかからないでしょ? 残りは全部私たちがもらうべきよ。あなたもフィオナも喜んでくれると思ったのよ」
「アレクサンドラ、お前はひどいことを言うな」
アンドルーはアレクサンドラに向かって言った。
「それは、フィオナでなくても怒るだろう」
「あら、フィオナが怒ったのはあなたのせいでしょ? 気の進まない結婚をしつこく勧めるからよ。パーシヴァル家からの援助をあてにして」
「ジャック・パーシヴァルは立派な男だ。結婚を勧めたのはそれが理由だ。お前とは違う。妹の遺産を自分のものにしようと画策するだなんて、ひどい女だ」
アレクサンドラの顔色が変わった。アンドルーにそんなひどい言葉を投げつけられたことは、それまでなかった。
「なんてことを!」
彼女は泣き出した。それでなくてもフィオナと一戦交えて興奮状態だったのである。
「アンドルーなんか! 小銭に目がくれて、妹を愛してもいない男に売ろうとしたくせに。そんな人間に罵しられる謂れはないわ!」
誰も聞きたくもない言い争いだった。
しかし、生憎、この日に伯爵邸を訪問してしまったばっかりに、一部始終を聞かされる羽目になった人物がいた。
渦中の人、ジャックである。
彼は、フィオナとアンドルーの舌戦の終わりかけの頃にダーリントン伯爵家を訪問したのである。
何やら取り込み中のようだったので、辞去しようかと思ったが、フィオナらしい声がするではないか。
彼は執事から今日のところはお引き取りくださいませと、ものすごく勧められたのだが、本日ばかりは何があっても帰る気はなかった。客間の置物と化しても、伯爵邸に粘る気だった。
フィオナがいる! それなら何があってもこの家から離れるつもりはない。
帰りにはフィオナを連れて帰るくらいの気合いだった。パーシヴァル家の母に預ければいいのだ。クリスチンのご乱行(意味は少し違うが)に、常々手を焼いていた母は、被害者のジャックの願いを聞いてくれるだろう。
なにしろ、婚約するつもりの若い娘が、音信不通になってしまったのだ。普通なら失踪事件で、大スキャンダルである。にも関わらず、誰も騒がないのは、連れ去ったのが自分の姉で言わば未来の家族。そのため娘の家族も婚約者の姉と一緒ならと、妙な納得をしている。
行き先も帰宅の時期も分からなくて、ジャックが困り果てていることを、彼の母は知っていたし、姉のクリスチンの悪戯だと言うこともわかっていた。
これ以上、姉に口出しされたくない。フィオナだって、ジャックの姉からの申し入れだから、断れなかったに違いない。
フィオナが見つかったなら、一番安全なのは、姉のクリスチンを見るたび説教をかます母の手元だ。
しかし、そのジャックの耳に届いたのは、フィオナが繰り返す言葉だった。
「私はセシルと結婚します」
ジャックは呆然とした。
フィオナが自己主張の強い女性だと思ったことは一度もなかった。
だが、彼女はアンドルーが興奮して「ジャックと結婚しろ、家長としての命令だ」と大声を張り上げて叱り飛ばしているのに、全く動じず、「セシルと結婚します」と繰り返している。
誰かに言わされているのだろうかとジャックは気を回したが、そんなわけはない。
ジャックは、聞いていられなかった。
「セシルと結婚します」
そのうち、騒ぎは最高潮に達し、アンドルーが声を限りに「出て行け!」と怒鳴ると、パタパタと軽い足音がして、ジャックの部屋の前を誰かが走って行った。
ジャックは後を追った。
伯爵家の誰かと暇乞いのあいさつすらしなかった。
フィオナがセシルに夢中なら、ジャックもフィオナに夢中だった。
伯爵邸の前に、辻馬車が一台止まっていた。
おかしい。家の馬車があるのだ。誰も利用するはずがない。しかも、いかにも客を待っているかのように御者が顔をダーリントン家の扉の方に向けて待ち構えている。
ジャックは直感した。フィオナを待っているのだ。
彼はフィオナより身が軽かった。当たり前だ。ドレスを着ているわけじゃない。
彼は走って、階段を三つ飛ばしで飛び降りて、フィオナの直ぐ後から強引に馬車に乗り込んだ。
御者はお嬢様を一人乗せて行けと言い含められていたらしい。ジャックに驚いて、車を走らせることも忘れて、どうしたらいいか二人の顔を見比べた。
「いいから、走れ!」
ジャックは御者に向かって怒鳴った。
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