1:暮明を照らす

 イルルンカシウム大陸の夜には、一つの月が浮かぶ。

 太陽と同じく、東から昇り、西へと落ちていく夜空の瞳。太陽と違い、日々満ち欠けを繰り返す彼女は、今日はわずかにまぶたを落として、冷たく淡い視線を大地へ注いでいる。

 今夜のポールスモートは明るかった。

 月が見つめているせいばかりではない。

 白くやわらかな光の粒が、街の空に漂っているのだ。

 水面に広がるがごとくのそれらの中心には、翼を広げる人影があった。

 月にも負けないほど美しい、金の瞳を持つ天使が。

 歌声に光の粒を乗せて、深夜を迎えるポールスモートの隅々へと漂わせていく。

「……歌声に宿る力か……あれは、余技なんだろうな」

「いいじゃねぇか。あのキセキのおかげで、オイルが節約できんだ」

 執務室の窓から歌う天使を見上げるカチェスに、ソファに巨躯を沈めるエリオットが愉快そうに体をゆする。

 場所は職場といえ、時間は勤務外。議長はお気に入りの黒スーツで、自警団長は白シャツにベストという、私服姿だ。

「代わりに、寝付けなくなったぞ」

「そりゃ、俺らみたいなのだけだ。カミさんは、天使さまが見守ってくれているわ、ってすやすやよ。おかげで夜の営みが邪魔されちまった」

「は。そいつはキセキのせいじゃあないな」

 互いに、へ、と口の端だけで笑いあう。それだけでも相手の喜色は伝わる仲だ。

 と、エリオットがあくびをしながら背を伸ばし、

「しかし、魔王の監視役が、こんなところに居ていいのかね」

 天使は、大陸に巣食う五人の魔王を監視するために遣わされた存在である。正教の聖典に記された、彼女たちの職務だ。

 けれども、信仰を斜めに見据えるカチェスには倦むような疑いがあって、

「……誰が言い出したんだろうな。その話は」

「あ? そりゃあ、お前……誰だ?」

「誰かが天使から聞いたのかもしれないが、そんな伝承、聖典にしかない。いつの間にか現れ、魔王の動きを監視している。もしかしたらだがな、正神教の捏造ではないか?」

「勘ぐりすぎじゃねーか? と素直に言えるほど、クリーンな連中じゃねぇからな」

 キセキの独占のために巻き起こした悪名高い『歌刈り』に、それを主導した最強硬派『血十字軍』、魔術研究への異様なまでに苛烈な弾圧、そして彼らが直面している人柱を求める『名誉の白羽』。

 五百年前に誕生し、文化や哲学へさまざまな貢献をしながら爆発的な成長を遂げたこの宗教は、しかしその陰で多量の血を啜ってきた。

「五百年前に降臨した神、これは事実だ。あらゆる文献を当たっても、雲を渦巻かせたという記録は克明に描かれている。中にはいくつもの絵画として残っていて、矛盾がない」

「その事実が、教会で読まれる聖典の中身が事実である証にはならない、か」

「私も、今日天使に会うまでは疑ってもいなかったさ」

「は、よく言うよ。興味がなかっただけだろ?」

 中年の鋭い指摘にカチェスは、見る人間によっては敵意に見える半笑いを浮かべる。

「スイギョクの疑いに、メノウの言動の不安定さ……直に話してみて、思うところがな」

 夕暮れの空へと飛び上がる直前、メノウの言い残した言葉が、彼女には忘れられない。

 ……魔王を倒したなら、この地に平穏が訪れるでしょう。父がそう望まれたのですから。

 寒気がした。父とは神のことだろうが、言葉を見ればこれは盲信。スイギョクとは違い、疑いを持たず、勇者の道程を祈り、そして魔王の成敗を目指している。

 根拠など、まるで必要としていない。

 カチェスの理性とは、まったく逆に位置していた。

「私たちが思っていたほど、完璧な生き物ではなさそうだ」

 ふむ、とエリオットは顎をさすり、頬にわずかながら賛同を示す。

「で、その天使さまから逃れたあいつらは、どうしてるんだ?」

「東門から出て行ったらしい」

「魔城方面か。カオルの奴、ついにホームシックか?」

 冗談を八割に、エリオットが笑う。

「魔城の手前に、小さな農村があるのを知らないか? エインジドという」

「あの辺に飛んでいるでかい鳥の名前じゃねーか。その村が?」

「前に聞いたんだがな、知り合いがいるらしい」

「ああ。時々、女に逢ってくるって何日かいなくなるが、それか?」

「きっとな」

 若いな、という呆れ笑いを背に、女は夜の空をもう一度見上げた。

 そこでは天使が、優しげな声で歌っている。

 彼らは、食事も睡眠も必要ないという。

 ならば、彼女の夜は長い。

 カチェスは己の身へ照らし、天使の不憫に憐れまずにはいられなかった。


      ※


 なぜ、こんなことになってしまったのだろう。

 私は魔王を倒すべく、天使に会わなければならなかったはずだ。

 こんな主幹道から外れた粗末な舗装路で、どうして鉄杖を握らなければならないのか。

「私は、こんなところで何をしているんですか!」

「こないだの魔族に遭遇してんだよ!」

 悔恨極まりない眉間で叫ぶクリーティアの耳に、カオルが放つ怒声と炸裂音が響いた。

 カオルとエイブスに引きずられながらポールスモートを離れ、一晩が明けた昼。目的地もはっきりと教えてもらえないまま街道を外れ、森が深くなりつつあるところで、木々の向こうから蛇頭の巨体が現れたのだ。

 先日にポールスモートでクリーティアと鉢合わせた、あの魔族だ。

 カオルに追い払われ、しかし魔城へと帰ることもせず、この森に潜んでいたのだろう。

 すぐさま戦闘職二人は本職に移行し、そうでないエイブスはいつのまにか姿を消した。

 教会に選ばれた勇者として、クリーティアも鉄杖を振りかざしたのだが、

「うわあ、熱い! カオルさん、熱いのですが!」

「火だからな! ちびっ子は近づくんじゃないよ!」

「その言い草はなんですか! 未熟ながら、魔族を討つは私の使命で、アツ!」

「火を見たら日和れよ! ケダモノ以下じゃねぇか! いいから離れろ! 危ないから!」

 空を舞うカオルが放つ、音ばかりが大きい火球の爆発に、近づけないでいた。うう、と唸りながら、突撃の隙を窺うことしかできない。

 木々を蹴って浮遊する体の慣性方向を自在に操りながら、火球を放つ。飛び火を恐れているのか、前回ほどの火力はないが、確実に魔族の行く手を遮っていく。威嚇の一手だけで逃げ道を唯一だと思わせるように誘導する手腕は、彼の経験値そのものだ。

 だが、そのさまを見つめるクリーティアには、やはり理解のできない行為である。

「カオルさん!」

「うん?」

「魔術を止めてください!」

「な!? おい、待て!」

 作戦が終了段階に入ったカオルの余裕のある返事に、勇者は強く要求をし、駆け出した。

 荷馬車がようやく、という程度の粗末な石敷きに駆ける靴底を噛みつかせるクリーティア。

 すでに放たれた火球は止める術がないらしく、間近で炸裂し、鼓膜を麻痺させた。が、焼けた空気をかきわけ、彼女は魔族へと詰め寄る。

 戦意を失い、誘導された逃げ道に潜り込んだ蛇頭は、無防備な背中を見せていた。

 鉄杖を振りかざし、歯を食いしばる。狙うのは、ふくらはぎ。差のありすぎる体格から、ここしか狙えないのだ。

 迷いはない。この一撃で速度を奪い、魔族として滅する。それが自分の使命だから。

 得物を握る手に肩に力がこもり、

「ダメだっての! 落ち着けよ!」

「か……カオルさん!」

 体が羽交い絞めにされ、腕までも掴まれてしまった。

 舞い降りた彼の顔は見えないが、しかし、やはりクリーティアが魔族を討とうとした出会いの日と同じく、悲しい顔をしているに違いない。

 二人の身動きが取れないでいると、魔族は森の中へと姿を消していった。

 クリーティアの腕からは諦めのために力が抜け、それを確かめて、カオルも羽交い絞めの力を緩める。

 安堵の息を隠しもせずに。

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