第一章 夜叉の目覚めた日(13)


「最も簡単なのは、ふんじんを使う方法だな。必要なのは火のついた蠟燭と、目の細かい可燃性のある粉末だけだ。宮殿には吊り灯籠がたくさんあるだろう。あれをいくつか部屋に持ち込み、床に置く」


 吊り灯籠と言われて、沙夜は昨夜の情景を思い起こした。朱色のお宮がさらに燃えるような朱に染まった姿は本当に美しかった。


「灯籠はその構造上、てつぺんと底が開いて吹き抜けになっている。その上から粉末を、たとえば小麦粉を振りかけたらどうなると思う?」

「燃えるかと」と綺進。「……なるほど。一瞬のうちに連鎖的に燃え、大きな火柱が上がるかもしれませんな」

「そうだ。なかなか優秀な答えだな。香妃とやらは私室に籠もってのち、粉末の入った袋を振って宙に撒いたのだ。それに火がつけば、瞬く間に部屋中に広がったはずだ。ただし火の勢いは強くても、一瞬の熱だけでは人は死に至らない。せいぜい肌の表面が熱いと感じるくらいだ」

「だろうな」緑峰もまた興味をかれたようだ。「続きを聞こう」

「なに、理屈は単純だ。人間はな、大気の中に棲まう精気を体内に取り入れなければ死んでしまうのだ。そのために呼吸をしているわけだが、粉末によって燃え上がった火は瞬時に精気を燃やし尽くしてしまう。そうなれば数回呼吸をしただけで、簡単に意識を失ってしまうだろう。ただし、それだけではせいする可能性もあるが……」


 ハクは一度口を閉じて黙考し、それから続ける。


「石炭の粉を使うのがいいだろうな。石炭は燃えると毒気を放つ。意識を失ったあとに毒気を吸入すれば、ごくわずかな間に死に至る。我ならそうするが、香妃とやらも似たような準備をしていたのではないか?」

「なるほど……。調べればその痕跡は見つかるかもしれませんね」


 綺進が口元に手を寄せて、真顔になって考え込んだ。

 だが沙夜は別のことを考えていた。いかにハクと言えど、火事の現場を検めもせず断定ができるとは思えない。彼の推測が当たっている可能性は低いだろう。

 であれば、どうしていまそんなことを口にしたのか。

 決まっている。ハクの目的が、知識をひけらかすことだからだ。

 恐らく彼は、この場の誰よりわかっていた。こんな怪しい猫と下級宮女の言葉がれられることの難しさを。信用を勝ち取ることの厳しさを。

 だから知識を披露した。十五歳の小娘が知り得るはずもないような知識をだ。

 つまり彼にとって、真実を言い当てられるかどうかなんて、どうでもよかったのだ。ただ知見の深さを見せつけ、二人に認めさせようとした。この場にいる鬼神の存在をである。


 ただし、結果がどうなるかは微妙なところだ。もし目の前に座っているのが見ず知らずの相手だったなら、あるいは信じたかもしれない。

 だがこの二人は沙夜が科挙を受けたことを知っている。その点がもしかしたら不利に働くかもしれないが……。


「今後の捜査の参考にはさせていただこう」


 緑峰は濁りのない目をして言った。


「ではそろそろ、こちらから訊ねてもいいだろうか」

「え……。はい、どうぞ」


 そう言えばそういう約束だった。沙夜は何を訊かれるのかと身構える。


「君は確か言っていたな? 昨夜は白陽殿で過ごしたので桂花宮に戻っていないと。つまり普段からここに住んでいるのか?」

「いえ、それはですね」


 考えてみればそこに追及が向くのは必然だった。事件の当夜のみ外泊したとなれば、それはそれで疑われる要素になる。

 ただ下手な言い訳はできないと思った。緑峰も綺進も、先程のハクの説明を理解しているくらいなのだから相当に頭が切れる。隠し事をすれば見透かされてしまう。

 ならば打ち明けるしかない。ありのままをだ。

 ここで協力的な姿勢を示しておかなければ、今後にも響くだろう。だから意を決して沙夜は口を開いた。


「実は昨夜のことなのですが──」


 そう前置きをして、順を追って全てを話していく。

 昼間の香妃との一件。そこで蘭華という侍女を怒らせてしまったこと。

 日が落ちてから白陽殿に連れてこられ、母の形見の簪を敷地内に投げ込まれたこと。

 それを拾うためにここに侵入して、書斎でハクに出会ったこと。約定があるから守ってやると言われたこと──


「ん……待て。約定とは何だ?」

「わたしにもわかりません。母とハク様が古い知り合いらしいのですが……」


 緑峰に答えつつ、ちらりと隣の猫を見る。

 こういう話の流れにすれば、自然にハクが答えてくれるのではないか。そんな打算を込めてのことだった。

 しばし返答を待っていると、


「別に、其方たちにとってはどうでもいい話だが」


 と、ハクは威厳を取り戻した声になって切り出した。


「いまから十五年前、我らはとある約定を結んだ。沙夜はその代償として我に捧げられた供物なのだ」

「供物……?」


 その単語を耳にした瞬間、それまで自分が抱いていた甘い考えをあざわらいたい気持ちになった。

 ああなるほど。それならうなずける。

 ハクは別に守ろうとしてくれたわけではない。己に捧げられた供物を奪われたくなかっただけに違いない。だからいまだけ力を貸してくれているのだ。

 その事実を認めれば、全ての謎が解けていく。絡み合った糸が解けるように。

 わかってみれば単純な話だった。きっと母には何か叶えたい願いがあったのだろう。女官になりたいという夢を抱いた、いまの沙夜と同じようにだ。そのためにやがて生まれてくる娘をいけにえに差し出したのだ。


 思えば、母が皇帝陛下に仕えろと遺言を残したのも、ハクに代償を差し出すためだったのかもしれない。

 実に滑稽なことだ。そうとも知らず莫迦みたいに張りきって、必死に研鑽を積み重ねて沙夜はここにやってきた。ただハクに喰われるためだけに……。

 どうしようもなく悲劇的な真相だ。けれど心が疲れていた沙夜にはもう、それでもいいかなと思えてしまう。ここまでがむしゃらにやってきて、ついた先が夜叉の胃袋だというなら、それはそれでおつなものだ。

 もうどうでもいいや。脱力感に襲われていると、綺進が「お聞きしてよろしいでしょうか」と口を開いた。


「申し訳ありませんが夜叉殿。沙夜はうちで雇っている宮女でして、勝手に食べられては困るのです。代償と仰いましたが、ならばあなたは何を叶えたのですか? それが彼女の命に値するものでなければ納得しかねますが」

「そうであろうな」


 ハクはこくりとうなずく。そこへ緑峰も続けて訊ねる。


「何を願われ、何を叶えたのだ」

「まだ叶えてはおらんが、この世で一番曖昧な願いだよ。面倒臭くて敵わん」

 ふうと鼻息をこぼしてからハクは答える。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る