第一章 夜叉の目覚めた日(11)


「──お待たせいたしました」


 襦裙の長い裾を引きずって正殿の広間に戻ると、沙夜の支度を待っていた緑峰が、感心したように「ほう」と声を上げる。


「見違えたな。よく似合っているじゃないか」


 何と答えていいかわからず、「お褒めにあずかり光栄です」と返す。慣れない真似をさせられたせいで自然と頰が熱くなった。

 中庭での一件を終えた直後、天狐が沙夜の手を引き、「こういうときにはハッタリを効かせるもの」と言われ、無理矢理着替えさせられたのである。貧相なこの身にはとても似合わないような、涼やかな薄藍色の襦裙にだ。母が着ていたものだと天狐は漏らしていたが、果たして本当だろうか。

 後宮勤めをしていたとはいえ、母は妃ではなく女官だったはずだ。なのにこんな高そうなしようを普段使いにしていたとは到底思えないのだが……。


「馬子にも衣装というやつですかねぇ」


 などと、続けて失礼な発言をした人物は、黒ずくめの宦官だった。


「久しぶりですね、沙夜。お元気でしたか?」

「お久しぶりです綺進様。いつこちらにお着きに?」

「つい先程ですよ。寝耳に水というやつでね。禁軍が無法を働いているというので、急いで駆けつけたというわけです。もちろん私はあなたの味方のつもりですよ?」


 それはどうも、と沙夜は返す。ならもっと早く来て下さいよ、と心中で愚痴もこぼしておく。

 綺進は内侍省の役人であり、宮女の人事権を持つ人間だ。そもそも沙夜が後宮に入るきっかけとなった人物でもあり、これまで数回ほど様子を見に来たことがあるので顔は覚えていた。決して心を許せる相手ではないが。


「禁軍は陛下の勅命を受けて動いている。貴様に許可を得る必要などあるまい」


 簡素な丸椅子の上で足を組み、緑峰は不満げな声を綺進に叩きつける。

 なるほど、勅命か。つまり皇帝の命さえあれば、宦官でない男性も後宮内に出入りすることは可能なわけだ。もちろん緊急事態の対応のみではあるのだろうが。


「配慮はしていただきたいものですね」と綺進は返す。「宮女たちはみな、男という生き物に免疫がないのです。力ずくで身柄を拘束されては怯えるばかりですよ。それではあなたの職務にも差し障るのでは?」

「減らず口を。なら取り調べに立ち合うなり何なり、好きにすればいい」

「もちろんです。聞きましたね、沙夜。今後こういった場には私が同席しますので、何も心配することはありませんよ?」

「はあ……。そうですか」


 正直、綺進は苦手である。如何にも宦官といった印象の優男で、色白で瘦せぎすで目元が常に糸のように細められている。だから何となく腹黒な印象があるのだ。

 ただし、いまこの場に限っては心強い。緑峰と二人、隣り合って着席しているところを見ても、彼らの対等な力関係が窺えるからだ。

 ちなみに禁軍の兵たちは、みな壁際に直立していた。警戒しているというよりは、そもそも椅子が足りないからである。しばらく人の立ち入りがなかった白陽殿はほぼ廃墟であり、広間にもじゆうたん一つ敷かれていない。だから仕方がないのだ。


「ところで夜叉殿はまだですか?」


 綺進は声を上擦らせてきょろきょろ視線を巡らせる。この人まさか……。

 口では禁軍の横暴から宮女を守りにきたようなことを言っておいて、本当はそっちが目当てではないのかと邪推せざるを得ない。


「少々準備があると仰っておられましたので、もうじきいらっしゃるかと」


 沙夜が唇を尖らせて答えた直後、奥からとてとてという軽い足音が聞こえてきた。


「ふむ。待たせたかな」

「なっ」


 驚愕の声を上げたのは緑峰と綺進。しかも二人同時だった。

 それもそのはず。いま言葉を発したのは人ではない。一番遅れて広間に現れたのは、豊かな毛並みをした一匹の白猫だったのである。

 沙夜は早速紹介する。若干不本意ながらも。


「こちら、白陽殿の主であらせられます、ハク様です」


 言いながら、頰の筋肉がってぴくぴく動いたのを感じた。

 事前に説明を受けたときには、さすがに耳を疑ったものだ。実は昨夜、白陽殿で簪をくわえて逃げたあの猫は、ハク自身がへんしたものだったのである。


「もちろん世を忍ぶ仮の姿ではあるがな」


 と、彼は偉そうに口にした。ふうていに全く似合わない理知的な声で。


「術を用いてれいかくを下げねば、我のように崇高な存在が常人の目に映ることは有り得ぬからな。ありがたく思うのだぞ」

「……だそうです」


 行儀良く四つ足で胸を張る姿は、威厳があるというよりは滑稽である。

 霊格うんぬんの話はまだ理解が追いついていないのだが、ようするに妖異が都会の人に見えないのはそれが関係しているらしい。霊格が高ければ高いほど見えない人が多くなり、低ければ見える人もいる。だからハクは術を用いて白猫の姿に身をやつしているそうだ。

 この姿ならば緑峰たちにも見えるだろうという話だったが、口を半開きにして驚く彼らの反応からして、どうやら正しかったようだ。


「さて。これで沙夜が、妖術を用いて其方らを惑わせたわけではないとわかっただろうか? では今度はこちらから訊ねさせてもらう。何の用があって我が白陽殿に踏み入ってきたのかを」

「……沙夜、ちょっといいですか?」


 そこで綺進が小さく挙手をして訊ねてきた。


「主殿は何と仰っているのですか? にゃにゃにゃ、としか聞こえませんが」

「えっ」


 沙夜の目が点になる。まさか……。


「ふむそうか。姿は見えても言葉はわからんか。これは誤算だったな」


 よく耳を澄ましてみると、猫の鳴き声とハクの言葉が重なって聞こえた。となるともしかして。


「ちょ、ちょっとハク様? この声ってわたしにしか聞こえてないんじゃ!?」

「どうやらそのようだ。仕方がない。其方が通訳して聞かせてやるがいい」

「無理ですよ通訳なんて! いやできますけど、どうやって信用してもらうんですか!? 普通の方はにゃーにゃー聞こえるだけなんですよね!?」

「腕の見せ所であるな。其方の初仕事というわけだ。せいぜい気張るがよい」

「……あのう、ちょっといいですかね?」


 再び綺進が口を挟んできたので、沙夜はそうはくになりつつ「どうぞ」と口にする。


「何となくですがわかりますよ。普通の猫と違うということはね。何か喋っている風でもあります。内容は全くわかりませんが」

「面白いじゃないか」緑峰は何故か嬉しそうだ。「是非通訳してくれ」

「え、えええ……?」


 沙夜はどん引きである。何故か二人ともまるで動じていない。むしろ興味を抱いた様子ですらある。

 莫迦な小娘が何を言い出すのか、しばらく泳がせてみようとでも思っているのかもしれない。けれどあちらの思惑が何であれ、こうなったらやるしかない。

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