かくて蜂巣に至るまで(草稿)

宵部憂(しょうぶ・うい)

序章 天上楽土に慈悲は亡く

第1話 天上楽土に慈悲は亡く

 淡雪が降っていた。

 牡丹の花びらに例えられるそれは、なんの変哲も無い人気の無い、あったとしても生気の薄い顔をして歩いていく人がまばらなばかりの街に、ささやかな可憐さを添えて、積もることすらなく消えてゆく。地面に落ちて踏み荒らされることのない花弁は夢幻そのもののようだった。綺麗なところだけを見せて、汚れる前に消える。ずるい雪だ、と小峰蓮こみね・れんは思った。

 小峰蓮は舞台役者だった。また齢十六の少年だった。年頃の青二才らしく捻くれたことを考えていた。花びらだとか、綺麗なところだけをとか消えるとか、二年前に死んだ友人を思い出すようでかぶりを振った。青みがかった早朝の街を、ずんずん早足で歩く。特徴的な--小峰蓮の象徴たる、所々愛くるしく跳ねた黒髪に淡雪が降りかかってくるのを、蓮は目を細めて耐えた。

 色々ありすぎた人生だったな。

 朝食を食べていないので腹も減っているし、こうも青く沈んだ景色を見ていては、妙に気落ちしたことばかり考えてしまう。それでいて空気は清冽で、考えたことすべてが真実みたいに感じられてしまうからが悪かった。

 色々ありすぎた人生だった、と蓮はぼんやりと考えていた。過去形になったのは別に終わらせるつもりがあるからではなく、ただこれまでのことを振り返らざるを得ない状況になってきたからだ。十歳で生家を飛び出して、芸の研鑽を積んで四年。友人の、いやおそらく親友の、浅香桜あさか・さくらと出会って、たったさっきまで世話になっていた劇場に引き抜かれてその一年後に浅香が死んで、忘れたくて、いや逃れたくて、その引き抜かれた劇場で物語に溺れて二年--そして今日、蓮はそこを追い出されることになった。

 蓮は物語を愛していたけれど、同時に憎んでもいた。「教訓」なぞが添えてある物語が大嫌いだった。小さな子どもの頃から、そんなものを語り聞かされてはヘソを曲げていた。今が年頃であることを差し引いても、可愛げのない子どもだった。顔かたちはそれはそれは愛らしかったけれども、文章を好み、芸術を好み、風変わりな内世界を構築してそこから一般世界を見るさまは、同じ年頃の少年達や立場のある大人達には迫害を受けるばかりだった。押し付けられる道徳がひどく下劣に思えた。それは本当は「思いやり」や「絆」などではなく、ただ服従と統制なのだと、彼はかなり早い時期から肌で見抜いていた。愛も勤勉も、教えられて何になると言うのか。物語が汚される。そう思った。教訓物語に登場する彼や彼女は、誰かの教訓になりたくてそうしたわけじゃないはずだ。それを他人が勝手に解釈して、さらに他人を縛るために使うなんて、自分がその立場なら居心地が悪くて仕方がない、というのが、未だに変わらぬ蓮の持論である。蓮が劇場を後にせざるを得なくなったのは、全くその性質のためだった。

 蓮が世話になった劇場は名を「雲上座」と言う。雲の上の名に相応しく、この日の出の国で最も煌びやかで、豪壮で、富んでいて、客も役者も座員も調度ももてなしも、一流を片っ端からあるだけかき集めたような場所だった。客達に完璧に完成された一夜の夢を売る場所で、役者である蓮もまたその夢の中にいるようだった。演目は一つの作品が七日間続き、それが終わったかと思えば別の場合わせが二十日間、そしてまた七日間の本番を繰り返す。引き抜かれて初めのほうこそ蓮の予定にはやや空きがあったものの(公演に出なければその場合わせも本番もまるきり休みだ)、頂点に立ち、劇場の事実上の稼ぎ頭となってからはほぼ毎回の演目で舞台に立っていた。けれどもちょうど浅香を亡くして、そのことを考える時間ができてしまうことが恐ろしくてならなかったので、蓮にはむしろ都合が良かった。そうでなくとも、蓮は己の限界を知っていたし、搾取されることが大嫌いだったので、また限界を超えるとどうなるかは親友の死で身を以て知っていたし、浅香の衰弱死は蓮だけでなく業界内外の誰もが知る有名な話だったので、休みの時間はそれなりにあった気もする。現に身体を壊すことはなかった。休みの日は泥のように眠り、眠り尽くしたら本を読み、姉のように慕っている役者仲間の優里亜と、兄のように慕っている同じく役者仲間の懸二とレコードを聴いたり、優里亜の演奏を聴いたり、面白かった本を紹介しあったり、芸術や夢や愛や社会について語り合ったりした。それでもやってくる空白の時間に、途方もない辛苦に苛まれては、また優里亜や懸二の部屋を訪ねて手を握ってもらったことは数え切れない。

 そんな風にして過ごした場所を追われた。支配人の日呉ひぐれが言うには、役人どもの風紀の取り締まりが喧しくなってきたのだと言う。そんな話は確かに、一年ほど前からじわじわと聞こえてきていたけれど、演目の内容にまで、しかも天下の雲上座の演目にまで口出ししてくるようになるなんてことは思いもよらなかった。おそらくまた、対外戦争をする気だからだろう、ここ数年、景気も民衆の手詰まりな空気も随分ひどいものになっている、ここで大きく「公共事業」を行ってどちらもを回復させようという魂胆で、しかし景気も民情も落ち込んでいるのだから奮い立たせねばならないので、そうだ演劇や文芸や……つまるところ芸術を使おう、ということじゃねえだろうか--と日呉は語った。その結果が、教訓物語である。教訓物語の上演である。見るもおぞましい台本が蓮の手に渡った。その瞬間に蓮の中で何かが切れてしまったのだった。

 ざけんじゃねえ。

 蓮のその時の心中を表すならただこの一言であった。

 蓮は上述のように同世代の少年らしからぬふうに育ってきたので、あまり汚い言葉を使うことはないのだが、汚くない言葉でグサリと突き刺す芸風で有名なのだが、今回ばかりはそれだけ激怒していた。

 物語を汚されるばかりでなく、雲上座すら汚された気がした。揺れ動く世相の中で今までの雲上座を守り抜き、現状維持では結局のところ後退するばかりだからと、雲上座のさらなる発展と成長のために不断の尽力をしてきた日呉も。旧華族の上流階級から、己の意思で芸の道を志し、切り開き、蓮や懸二とともに二大役者と呼ばれ、蓮が来る前から今に至るまで、演目の中で人々の心を奪い続け、その凜とした生き様で劇場に規律と安らぎを与える優里亜も。蓮が来るまで、長年雲上座の頂点で鷹揚に役者たち、座員たちを見つめ、その人徳で彼らの心を一つにして、己も己の技と存在を磨き続けてきた懸二も。割愛するが役者仲間で言えば当然まだまだいる。それから蓮の後輩で、真面目で聡明だけれど蓮の教育のせいなのかこのところすっかり可愛くないことを言うようになった鸞汰らんたと、彼が率いる少年コーラス隊も。蓮に気を遣っているのか怯えているのか、あまり深く会話をしたことはないけれど、座員一人一人だって相当の精魂を込めてこの場所で仕事をしているはずだ。

 その夜、蓮は優里亜と懸二に向かって喚き散らした。こんな酷いことは無い、物語への冒涜だ、雲上座への冒涜だと。芸は確かに人間の心を動かし、ひいては人生まで揺るがすこともあるだろう、けれどそれはこんな形でなされるはずのことじゃないのに、と。優里亜は心なしかいつもより一層きれいに背筋を伸ばして「そうね」と言った。懸二は真剣な表情で、いつもの穏やかで純朴な瞳で「そうだな」としかと頷いた。蓮は親友の死を思い出して少しだけ泣いた。優里亜と懸二は優しく手を伸べてくれたが、蓮は、今は決然とするときだからと己を奮い立てて、少し泣いたら腹を決めた。

「僕はもうここには居られない」かくて蓮は荷物をまとめた。

 そういう意味では追い出されたわけではないのだ。けれど、蓮がそういうものを嫌っていると知っていながら、日呉は干渉を受け入れた--受け入れざるを得なかったのかもしれない。どちらにせよ、前者の場合は日呉によって、後者の場合は顔も知らぬ役人たちによって、蓮は雲上座にいられなくなったので、どうしても、追い出された、と感情的には受け取ってしまう。

 雲上座は、浅香を亡くした後の心の支えだった。間違いなく。目まぐるしい日々だったけれど、その目まぐるしさに救われていた。あの完璧に完成された夢の中が、確かに蓮の帰る場所だった。

 己の性質のせいとはいえ、蓮は少し疲れてしまった。

「じゃあ、次はどこに帰ればいいんだろうね」

 はぁ、と吐き出した息が白く煙った。

 見上げると、駅舎の屋根が黒くそびえている。もう着いたのか、と蓮は現実に引かれ戻る。駅舎の屋根の向こうに、夜のような顔をして上弦の月が光っていた。

 屋根をくぐると、硝子窓の向こうに駅員が、眠たげな顔で「やすめ」の姿勢で立っていた。乗車券を切ってもらって、彼の横を通り過ぎ、乗降場まで歩いた。駅員氏の横を過ぎるとき、少し緊張した。硝子に自分の姿が映る。ギザギザした大きな襟の、丈の短い白いコートの上に、緑色のマフラーをぐるぐる巻いて、動きやすい黒いズボンを纏った姿は、人々の知る「小峰蓮」からはかけ離れていた。実際、駅員は蓮の顔を見ても、いやまともに見ていなかったかもしれないが、とにかく何の反応も示さなかった。

 国一の劇場の頂点に立つ俳優となれば、当然蓮は顔が売れていた。それこそ、雲上座への入場料、観劇料を払えぬ庶民にも、新聞や映画を通して広く顔が知れていたし、ラジオに声が乗ったこともままある。テレビジョンに映ったことも少なくはない--いや、これに関しては庶民の中でも高給取りにしか回らない品物なので周知度にはあまり関わりないか。良くも悪くも有名で、良くも悪くも話題になる人物である自覚はあったので、厄介な事にならずに済んで蓮は胸を撫で下ろした。

 乗降場のベンチに腰を下ろし、薄藍の空を見上げた。座面の冷たさが肌に沁みた。

 水を打ったような静寂と、ようやく鳴き出した鳥たちの囁きが聞こえる。

 やがて騒々しい音を立てて、列車がやってきた。


 おはようございます、朝の新聞はいかがですか、と声をかけられて、蓮は目を覚ました。

 目を覚ますとそこはまだ汽車の中で、乗り込むや目を閉じたことを思い出す。車窓から見える景色はもう白く光の色に満たされていて、完全に朝になっていた。

 蓮は乗務員に小さくおはようございますと返して、軽く会釈をして、差し出された新聞を受け取った。ポケットから小銭を取り出し、代金を差し出す。何気なく新聞の一面に目をやれば「小峰蓮電撃退団」の字がでかでかと殴りつけてきてドッキリした。思わず目を見開いてしまってから、恐る恐る乗務員を見やると、彼は代金を鞄に納めたら蓮への興味を失ったかのように次の乗客を目に入れていて、礼儀だけの会釈をして去って行った。

 蓮はふぅ、と詰めていた息を解放した。冷や汗をかく思いだった。マフラーに口元までうずめて、人相を隠す努力をはじめた。

 マフラーは優里亜からの餞別だった。懸二からは手袋をもらった。鸞汰は突然のことで何も用意できなかったじゃないですかと口を尖らして恨み言を吐いて、後で送りますから、コーラス隊の奴らも皆手紙書くんだって言って聞かないんですから、鈴谷さん(優里亜の姓だ)と鈴木さん(これは懸二の姓)に住所伺って絶対に送りますからね!!と啖呵を切られた。新聞やら雑誌やらで散々書かれる通り、我儘で野放図で苛烈で好き放題な生き方をしてきたのに、こんな風に好いてくれる人ができるなんて、二年前の自分が見たらびっくりするに違いない。

 素直じゃなくて捻くれていて、舌鋒鋭い性格で有名だけれど、……素直に、嬉しいと思った。舞い上がるような嬉しさとは違う、じわりと身体の底から温まるような感情だった。

 列車は揺れて、小気味良い音を鳴らしている。蓮は鞄から一枚の葉書を取り出した。

 車窓から溢れる光にかざし、そこに書かれているあまり綺麗とは言えない……はっきり言って汚い字を目で読んだ。

 それもまた、我儘で野放図で苛烈で好き放題な少年が掴んだ絆の現れだった。

 色々なものを失くして駆け抜けてきたけれど、掴んだものも確かにある。

 と、蓮は誰に言い聞かせるでもなく思った。

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