新たな物語
大地を見下ろす星の転換が、秋を夏に、夏を冬に、冬を春に変え、再び秋が訪れた。
ユークレースの海は今日も穏やかで、沖へ行くほど碧から青へと色を変えていく
砂浜の上から海を見下ろすリアの城は、窓辺という窓辺が色とりどりの花と紅葉で飾られた。今日は亡き王妃の誕生日。ささやかながら、いまは神々に列し国を見守る妃の御霊を、城を上げて寿ぐ日。
「ラピス、どうですか」
縁を銀糸で飾られた檳榔子の上着という正装で、クエルクスはラピスの部屋の扉を軽く叩く。右胸には月長石が留められ、その下に金糸でユークレースの徽章が縫い取られている。
「どうぞ」
柔らかな服の色は、色艶を取り戻したラピスの雌黄の髪色に映え、その姿は目を奪われるほど美しかった。
「うーん、母様ほど器量も良くないし……どうかしらね」
鏡を見ながら、ラピスは左右に体を揺らして不安げにあちこちを検分する。ラピスが動くのに合わせ、胸元でアネモスがくれた紅葉色の宝玉が踊った。
「ねぇ、クエルクス?」
「あ、はい」
思わず言葉を失っていたクエルクスは、慌てて返事をする。だが、思ったことを正直に口にするにはどうにも勇気が必要で、適当な答えを探した。
「いいんじゃ、ないですか」
「なによそれ」
むくれるラピスだったが、クエルクスは壁の時計の方へ首を回し、朱が走った顔を隠した。
「準備が出来たら行きましょう。皆様、揃っていらっしゃいますよ」
「アネモスさんたちも?」
「ええ。ヒュートスさんはグラディと料理談義。アネモスさんはトーナ女王と一緒に、宰相とお話なさっています」
あの一件のあと、国王は全ての経緯をクエルクスから聞かされた。王は、クエルクスも宰相のことも咎めなかった。逆に、自分たちに復讐を企てるほどまで宰相を追い詰めた先代の非道を改めて詫び、自身もいたく心を痛めた。そして犠牲になった者たち全てを弔うために、当時も一度は行った追悼の儀をもう一度厳粛に挙行した。その上で、宰相の政治的手腕そのものは他に代え難いものとして、引き続き自分を支えてほしいと頼んだのだ。
その後、トーナとユークレースに対するパニアとの問題は、まだ解決には至っていない。だがそれはこれからの課題であり、ユークレース王が関係改善の糸口を探っている。おそらく、時機が訪れた時にはラピスの外交能力も試されることだろう。
だが、いまのところは状況が悪転する兆しは見られない。快復後のユークレース王が行った数々の施策のうちにパニアの利になる計らいがあったこともあって、むしろ隣国からの融和姿勢が期待できる平穏な日々が続いていた。
今日の祝典は、その平和に感謝するものでもあった。
「もうそろそろ開式ですね。陛下も広間へいらっしゃる頃合いのはずです」
「それはいけないわ。早くしないと遅れちゃう」
ラピスは白い肩掛けを椅子の上から引っ掴み、クエルクスに走り寄る。
「行きましょう」
真昼の廊下は、壁の白い石が窓からの光を反射して明るい。海を向こうに眺めながら、二人は大広間へと急いだ。
歩きながら、クエルクスはふと、ずっと気にかかっていたことをためらいがちに口にした。
「えっとラピス……ところでですね、どうしてあの時……陛下に林檎を食べさせたのです?」
伝説から理解していたのとは逆に、自身、林檎を食べて息絶えたはずのラピスには、林檎の忌まわしい魔力がわかっていたはずだ。それにも関わらず、なぜこともあろうか王を死に追いやるような真似をしたのか。
そして一方で、もう一つ疑問もあった。林檎を食べてこと切れた国王は、再び目を覚ましたのち、長らく患った病による不調も全て無くなっていた。息を吹き返したあとの身体の状態が息を引き取る前よりも良好になったのは、秋の国で林檎をもぎ取り苦痛に蝕まれていたラピスも同じだった。これは、言い伝えられた林檎の力に合致する。
相反するように見えるこの二点が、あの日以来クエルクスの頭に絶えず引っかかっていた。だがなにしろあの時に自分がラピスに対してとった行動が行動である。どうにも言い出しにくく、聞かずじまいでいてしまったのだ。
するとクエルクスの懸念に反し、すぐにあっけらかんとした元気な声が返ってきた。
「あら、私と父様のこと? だって私、神々の伝説や、お姫様の話や、林檎の話もそうでないのも、トーナの色々な物語で読んだのだもの」
ラピスの瞳の瑠璃色が、クエルクスの顔を見て輝く。
「どんなものでも、ひとたび神々の力や悪い魔法にかかるとね」
そしてやや伏し目がちになり、はにかみ気味で続けた。
「最愛の人の口づけで、その人の本来あるべき姿を取り戻すのよ」
——え。それは、つまり。
言葉の意味がすぐに理解できず、クエルクスの足が止まる。二、三歩、先に進んだラピスが、振り返ってクエルクスの手を引いた。
「なにしてるのもう、ほら早く行きましょう」
くるりと前に戻した顔を見ると、いつもは色白の頬が、ほのかに桜色に染まっている。
——まったく、これだから……
「本当に、敵いません。ラピスには」
取られた右手が温かい。柔らかく細い指を、自分の手のひらに包み込む。
漣は耳に心地よく、波の白珠が目に眩しい。
握り合った手の温もりが、確かにそこにあるのを感じながら、海風に髪を遊ばせて、二人は渡り廊下を走った。
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