第50話 愛の真証(二)

 何回、何十回、名前を呼んだか。

 頬を触れても、手を握っても無駄だった。ラピスの顔はみるみるうちに色を失い、いつも優しく笑っていた唇の桜色は、どんどん薄くなるばかりだ。

 微かに残っていた脈動は、一回一回、脈打つごとにその間隔を空けていく。そしてやがて認識するのも難しくなり、遂に止まった。

「ラピスっ……!」

 握った細い手から振動を感じなくなったのは、きっと自分の感覚が鈍っただけに違いない。そう信じたくて、耳元で呼びかけ、体を繰り返し揺すった。肌が冷たくなってきたといっても、まだほのかな温かさは残っているのだ。

 それでも瞼は閉じられ、ぴくりとも動かない。どんなにクエルクスが呼んでも、瑠璃色の瞳が再びこちらを見ることはなかった。

「……嘘だ」

 ラピスの胸の上で、アネモスがくれた紅葉色の珠が秋の陽を反射する。

「嘘だぁっ!」

 クエルクスの膝が床に落ちる。ラピスの枕元に額を押し当て、拳を寝台に叩きつけた。

 守ろうと思ったのだ。

 城を出る前に真実を告げれば、ラピスは城に残ると言い張っただろう。その状況で宰相を糾弾しても、証拠がなければ否定されるだけだ。さらにそうなった時には、むしろ城内にいる方が命を狙われただろう。

 だから宰相の手の届かないところまで離して、生き延びさせようとしたのに。

 ——もっと早くに告げていれば。ここになど戻らなければ……

 ユークレースに帰るといったラピスを止めていれば。

 トーナ女王に会った時点で、女王の居所に留まらせていれば。

 神の国に立ち入らずにいれば。

 そもそも秋の国など、目指さずにいれば——

 ユークレース国王は、かつて両親と自分を救った。だからこそ今度は、できるのならばその恩義に報いなければならないという思いが消えなかった。救えるかもしれないという希望があるのに、国王の病状悪化を黙って見たままには出来なかった。

 だが、ラピスもユークレース王も、どちらも救いたいと思うのは欲が過ぎたのか。だから神の制裁を受けたのか。

 神々の力を、人間が軽々しく借りられると安直に信じた。そのこと自体が愚かだったのだ。その傲りの結果がどうだ。

 この手で、ラピスを殺したのだ。

 この手こんなものは壊してしまいたい、そう腕を振り上げる。

 だが強く握りしめた拳は宙で止まり、そのまま無為に込めた力で震えるだけだった。

 そんなことをしても何にもならない。もう全て無駄なのだ。

 力なく手を下ろし、のろのろと顔を上げる。幼い頃からずっと見てきたラピスの顔がすぐそばにあった。さきほどまでのように苦痛に歪むこともなく、見るに耐えない痛ましさも浮かんでいない。穏やかで、ただ眠っているだけかのようだった。長旅と心労のせいで雌黄色の髪は艶なく痛み、丸みのあった頬の肉も落ちてしまった。それでも、クエルクスの目に映るラピスは美しかった。

 ぼうっとする頭のまま立ち上がり、そっと頬に触れると、白い肌がクエルクスの指を冷やした。閉じられた瞼を縁取る長い睫毛が、うっすら影を作っている。呼びかけたらいまにも目覚めて、明るい声で微笑みそうだ。

 だがもう、あの声を聞くことも、あの笑顔を見ることもできないのだ。こんなにも近くにあるのに、もう届かない——他でもない自分のせいで。

 視界の中で、ラピスの姿が滲む。

 どんなに辛くても、決して自分からは逃げ出そうとしなかったラピス。涙も隠して、毅然と立っていようとした少女。

 出来ることなら手を伸ばして、その細い肩には重すぎる荷を軽くしてやりたかった。許されるならこの腕に抱いて、せめて震える身体を止めてやりたかった。そんな小さなことすら、してやれないで。

 こんな形で失うことになると、知っていたら——

 強くて気高く、脆くて優しい、かけがえのない存在ひと

 ただ愛しくて、ひたすらに愛しかった。そしていまもなお——

 クエルクスは両の手のひらで、ラピスの頬を優しく包み込んだ。そしてゆっくりと、その小さな唇に、自分のそれを重ねた。

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