第30話 闇の白魔(二)
城下町を取り囲む城壁に氷がうっすらと張り付き、赤土色の壁面が白く変わっていく。壁の内側に並び立つ木々は一日中降り続いた雪を乗せ、その重さに耐えられなくなった枝はたわみ、時折りどさりと音を立てて幹の根元に小山を作った。
トーナの国境、ジモーネの街。城壁沿いにある市門は四季の日照時間に基づいて開閉する。急に季節が変わったとしてもこの世界ではよくあることで、市門の開閉に戸惑う役人も市民もいない。星読みの報告や気象博士の観察により四季の変化が住民へ伝えられると、その日からすぐに門の開閉時間を新しい季節に合わせるだけである。時間の切り替えは市門に備わる鐘で知らされ、その音は、北は平野を抜けて、南はリーニ山の山頂にまで届くという。
このたびの冬期の訪れもまた同じ。その時間が近くなれば、役人は早足で市門を目指してくる住民を急かし、慣れた手つきで帳簿を記す。
どんどん激しくなる雪に、役人は灰色の空を仰いだ。太陽は隠れてその姿は見えないが、過去の記録の蓄積から学者が日の入りの時を割り出している。役人は市門の時計の針が定められた時刻に近づくのを確認し、閉門を告げようと角笛を取り上げた。もう届出のあった市民たちは皆、市門を通り抜けて家路についた。この時間に辿り着く行商人もあるまい。儀礼的に吹き鳴らすだけである。
役人は笛の口を空に向け、雪に音が吸われて消えぬようにと、冷たい空気を肺に深く吸い込んだ。
その矢先である。
降りしきる粉雪の先に何かが見えた。トーナを見下ろすリーニ山脈から市に向かう道である。次第に近づき、輪郭がはっきりとしてくる——人影か。
役人は角笛を掲げた腕を下ろし、腰へ手をやって佩いた剣がそこにあるのをしかと確かめた。
閉門前後の時間、城壁の内側の道々には、料理屋へ連れ立っていく仕事終わりの勤め人や学び舎から家路へ急ぐ青年などが行き交い、一日の務めを終えた人々の足取りや会話が、辺りを開放感で満たしていく。太陽に代わり街灯や家屋から漏れる柔らかな明かりが道を照らし、昼とは違う騒がしさが街に活気を与える。
そのうちの一つ、市門から真っ直ぐ市の中央へ伸びる道の途中で、厚い毛の外套を羽織った婦人が緩やかな歩調で歩いていた。目深に被った帽子と房のある襟巻きの間からほんの少しだけ覗いた肌は白く、唇にはその白に映える薔薇色の紅を差している。
ふと、婦人が立ち止まった。門からさほど遠くなく、目の良い者なら検問所の役人の顔も確かめられる程度の位置である。
「いかがされましたか」
急に歩みを止めた婦人に、その後ろについていた供の者が声を掛ける。こちらはまだ若い女性の声だ。
「もう閉門時刻をまわったというのに、何か揉め事かしら?」
婦人は市門の方を見つめたまま口を開いた。供の者が婦人の視線の先を見れば、周囲の喧騒で気がつかなかったが、確かに担当官が相対した者に向かって何やら口やかましく問うている。
「聞いて参ります」
供の者はそう告げ、雪道を小走りで市門へ近づくと、役人と二、三言交わしてすぐに婦人のもとへと戻り報告した。
「閉門ぎりぎりに旅の二人連れが入門しようとしたらしいのです」
「二人連れ? 旅券は」
「ええ……所持してはいるのですが、それが……旅券が本物と信じるにはどちらもあまりに若く、身なりも不相応だと係の者が訝しがり……」
そう言いながら、供の者は自らも怪訝そうにもう一度門の方へ目をやった。
「その者達の素性は聞いたの?」
「ええ、実は……」
自分たちの周りに人がいないのを確かめ、供の者は声音を落として婦人の問いに答えた。すると、それを聞いた婦人の瞳が一瞬だけ大きく開き、睫毛が瞬いて改めて市門の方を見た。
「役人に、これ以上の詮索はせず、二人を市内へ通すよう告げなさい」
有無を言わさぬ婦人の語調に供の者は一礼し、市門の方へ再び足を向ける。その背中に向かって婦人が言い添えた。
「何も聞かずに、ですよ。それから……気取られないように二人を追って。宿を突き止めなさい」
静かだが決然たる主人の命に供の者は黙礼すると、雪を踏みつけて市門へ走って行った。
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