第17話

 


 その日の夜、柴田が帰宅していないという電話が美音からあった。美音からも遠慮のようなものが窺えた。本来なら、下校時に私のアパートに寄って、夕食を共にする期待もあったに違いない。仮に図々しいと思い、アパートに寄るのを躊躇ためらったとしても、私からの食事の誘いを待っていたに違いない。


 純香は心で美音に詫びながらも、柴田との関係がギクシャクしてしまった以上、積極的な関わりは避けようと思っていた。


「何か食べた?」


「うん、食べた」


「のんべえにでも行ってるのかも。心配しないで。分かった?」


「うん、わかった」


「じゃあね」


「……うん」


「……」


 純香は、美音が電話を切るのを待った。間もなく置かれた受話器の音は、気持ちの隅にある、美音の不平のように聞こえた。――


 そのノックがあったのは、純香が寝付いた時分だった。柴田なのは見当がついた。泥酔した柴田は、純香の開けたドアから倒れるように入ってきた。


「大丈夫?」


「すまない、水を一杯くれ」


 柴田は玄関のマットに腰を下ろすと、純香が手渡したグラスの水を一気に飲み干した。


「……俺はバカな男さ」


 柴田の背中がいていた。


「……」


「許してくれとは言わないよ。だが、君を失いたくない」


 肩を落として項垂うなだれた柴田の背中があわれだった。


「君なしの人生なんて、もう俺には考えられない。虫がいいのは分かってる。責められても何も反論できない。自業自得さ。酒の力を借りなきゃ何も言えない、情けない俺さ。……純香。こんな男、嫌いになったか」


「……」


「嫌いだろな。弱くてだらしない男だからな。……君と居る時、心が安らいだ。こんな女房が欲しいと思った。いや、面接で初めて会った時から好きだった。一目惚ひとめぼれって奴だ。フン。四十男がガキみたいに恋するなんて、滑稽こっけいだろ? ……そして、いつの頃からか求婚しようと思っていた。……その矢先だ。バカなことをしちまった。ハア~」


 柴田はため息をついた。


「……明日、会社の帰りに寄っていいか? ……もしいいなら、俺の肩に手を置いてくれ。……それで、俺もケジメをつけるよ」


「……」


 純香は迷っていた。一度別れを決めながらも、それほどの固い意志ではなかった。そこにはまた、相手次第という純香のずるさが顔を出していた。頭を垂れた柴田は荒い鼻息をさせながら、純香の返事を待っていた。間もなくして、純香は柴田の肩に手を置いた。柴田はホッとしたのか、肩の力を抜くと、純香の手を強く握った。


「……おやすみ」


 柴田は一度も顔を向けずに帰って行った。――


 柴田の肩に手を置いたのは間違いではないか、と後悔しながらも、柴田と別れたくない、というのが純香の正直な気持ちだった。


 翌日の夕刻、三人分の食事を用意して待っていた。予想通りの時刻に、そのノックはあった。柴田は照れ隠しのような弱い視線を向けていた。


「食事、美音ちゃんを呼ぶ?」


「いや、今日はいいよ」


「じゃ、持ってって。多めに作ったの」


「じゃ、いただく」


「中で待ってて」


「あぁ」


 柴田は気兼ねをするかのように靴を脱ぐと、炬燵に入った。


「……昨夜ゆうべは悪かったな」


「ううん」


「久しぶりに飲み過ぎた」


「……」


 酢豚とツナサラダをタッパーに入れながら、


「フライパンでサッと火を通して。酢豚」


 と付け加えた。


「分かった。……後で来るから」


「……ええ」


「あいつ、喜ぶな。君の料理の大ファンだから」


 柴田は照れを隠すかのようにお世辞を言って帰って行った。――


 純香が食事を終えた頃、柴田がやって来た。


「あいつ、ペロッと食べやがって、俺は残りを少しいただいただけ」


「美音ちゃん、食べ盛りだもの。今度から、もう少し多めに作るわ――」


 と言った後、純香はハッと思った。それはまるで、柴田との関係をこのまま続けることを示唆しさしていたからだ。

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