第四章 ⑨


 返事はなかった。マリールの両肩がガタガタと震える。心臓まで達した恐怖は人から熱を制限なく奪っていく。

 手が氷水に突っ込んだかのように、すっかり冷たくなっていた。

 リジェッタが手を握っても、マリールの反応はない。気付いていないのだ。それだけ、動揺と恐怖が脳味噌に染み込んでしまったのだ。

 愚かといえば、どうしようもなく愚かだった。個が組織を相手にすれば、圧倒的に不利であることは絶対だ。

 それも、リジェッタのように元から個ならともかくマリールのように組織に属している人間が個として動くのは性質が悪い。自分だけの罪だというのに、罰は組織にも向けられるからだ。

「ふう」

「ぎゃああああっ!? ひぎっ!?」

 マリールが身体を仰け反らせ、だがリジェッタに手を握られていたせいで強制的に固定される。肩と肘にかかった負荷に、少女の目に涙が滲んだ。

「なな、なにをするんだ《偽竜》。痛いではないか!」

「やっと、私の方を見てくれましたね」

 マリールが目を点にした。手と手が触れ合う温かさにようやく気が付いたかのように、視線を下げた。

「よく、聞きなさい」

 ゆっくりと、努めて優しい口調でリジェッタは言う。

「あなた、とんでもないことをしてしまったのですね」

 マリールが喉を詰まらせた。

 道理で、ワイバーン騎士団が全額を負担すると言ったはずだ。どうせ返って来ると分かっている金なら、いくらでも負担出来る。

「それで、どうするつもりですか?」

 残酷な問いだった。

 答えなど、あるわけない。

 少なくとも、マリール個人では。

「……ちゃんと、ケジメはつける」

「どうやって?」

「だから、ケジメはつけると。痛っ!?」

 リジェッタの手に力が込められた。マリールが振りほどこうとするも、鰐に噛み付かれたかのように外せなかった。

「こ、この離せ!」

「この程度で〝負ける〟ようなら、ワイバーン騎士団を相手にするのは無理ですね」

 マリールが顔を恐怖で歪めた。怒りが滲むものの、虚勢となにも変わらない。力なき怒りに、なんの意味があるというのだ。とうとう、少女の目に涙が浮かぶ。泣いてはいけない。泣いてしまえば、本当に無力な子供になってしまう。頭では分かっていても、心まではどうしようもない。

「どうして、私を頼らないのですか?」

「えっ」

 リジェッタがマリールから手を離した。

 代わりに、そっと頬に触れる。こぼれた涙を人差し指で拭った。

「《魔狼》が、あなたの行動やワイバーン騎士団の企みに気付いていないはずがない。そのうえで、私に任せたのです」

 つまりは、そういうことなのだ。

「マリール。あなたは私の問いに答えるだけで良いのです」

 色々と納得した。

 いや、安堵したというべきか。

「助けてほしいですか?」

 はっきりしている。大きな組織、街の今後、魔造手術、自分の頭の上で色々な思惑が飛び交っている。ちょっとだけ、食傷気味だった。しかし、これなら分かる。なんとシンプルで分かりやすいことか。

「《偽竜》……」

 マリールが、喉奥を引きつらせた。

「すまん」

 自分で招いた問題への羞恥。自分で解決出来ない無力さ。マリールの恐怖と葛藤は、今にも心臓を握り潰さんばかりに膨らんでいるはずだ。

 今は、意地を張る時ではない。

 だから、どうか言ってほしい。

 マリールが奥歯を強く噛んだ。

 そして、

「助けてくれ」

 小さな声だった。それこそ、虫が鳴くような。

 いつの間にか、ベンチに他の修道女達が集まっていた。心配そうにこちらを見ている。友達が泣かされたと勘違いしたのか、リジェッタを睨む者までいた。

 この《偽竜》を睨むか。

千人束になっても勝てぬ非力な騎士見習いだとしても、その心は立派な騎士だった。

「分かりました」

 リジェッタが立ち上がる。

 緋色に限りなく近い濃い橙色の双眸が見詰める先にあるのは、赤マントと初めて出会った場所だった。全ての元凶は、そこにある。

ワイバーン騎士団は私の相手だ。

「この私が、最高のパーティーを開催いたしますわ」


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