第29話 流転の時代⑫ 🌸秘密の愛息・龍千代





 

 回想から醒めた目の端に、ふいに愛らしい影が映り込んだ。


「叔母上さま、ご機嫌よう。龍千代にございます。ただいま江戸から参りました」


 道々、繰り返し練習させられて来たのだろう、教えられたとおりの言葉を慎重に述べ終えると、花緑青はなろくしょうの幼い法衣が、ぱっと華やかに翻った。つぎの瞬間、熱いかたまりが五六八姫の腕のなかにあった。


「よう参られたな、龍千代どの」

「はい」

「叔母はな、それこそ一日千秋の思いで、そなたの着到を待ち焦がれておったぞ」


 馨しい日向の匂いを放つ小さな身体を抱きしめ、五六八姫は歓喜の声を放った。

 くすぐったそうに身をよじりながら、6歳の少年は唐突に訊ねて来る。


「仙台にも曼珠沙華がありますか?」

「なに、曼珠沙華とな」

「大悲願寺には、いっぱい咲いておりましたよ」


 生後ただちに母親から離され、真っ白な産着の身柄を運び込まれた山中の古刹をわが家として育てられた愛児の、仏門の子どもらしい質朴な質問を、このうえなく不憫に思いながら、五六八姫は黙って首を縦に大きく振った。


「おや、叔母上さまが泣いておられます」


 困ったように振り返った龍千代に、付き添いの墨染めがやさしく教えた。


「大丈夫でございますよ。悲しくて泣いておられるのではありませんよ」

「では、なぜ泣いておられるのじゃ」


「人はうれしくても泣くものなのです」

「ふうん、そうなのか」


「人の心とは、そういうものなのです」

「そうか。やっぱり秀雄しゅうゆうは物知りじゃな」


 あっさり納得した龍千代は五六八姫の腕から滑り出て、庭園の探索を始めた。


「うわあ、すごい! 広いお庭じゃなぁ」

「これこれ、走ってはなりませぬ。庭石につまづいたら危のうございます」


 秀雄が墨染めの袖を広げる間もなく、小さな法衣は軽快に飛び跳ねて池の畔に立った。「あっ、見て見て! 赤や黒のお魚が、あんなにたくさん泳いでいるよ」


 池の鯉どちも小さな帰還者を歓迎しているのか、龍千代の足許にいっせいに群れ寄ってきて、厚い口をパクパクさせている。のちのちまで記念日として記録されることになる母子再会の図を、少し離れた木蔭で、侍女・茜音が涙ぐんで見ていた。



 忠輝と離縁になった五六八姫は、江戸の伊達下屋敷でひそかに男子を出産した。

 かねてより父・政宗が用意周到に手筈を整えておいたとおり、生まれた子どもはただちに連れ去られ、江戸郊外の真言宗の古刹・大悲願寺で秘密裏に養育された。


 同寺では、政宗より7歳下の弟・秀雄が僧籍を得ていた。

 血縁関係が入り組んだ奥州の大名のお家芸とも言われる跡目相続争いが伊達家にも発生したとき、政宗の母・義姫の実家でもある隣国最上氏の介入を慮り、表向きは兄弟喧嘩の末に兄・政宗が弟・秀雄を斬殺したことにして、秀雄を武蔵の寺院に逃した。30年前に仏門に入った伯父の縁を、姪の五六八姫が頼ったことになる。


 忠輝の幼名を拝して龍千代と名づけられた男児は、1歳、2歳、3歳と誕生日が巡って来るごとに、またその合い間にも折りを見ては秀雄が背に負い、手を引き、ときには旅の猿楽師父子を装って、江戸の伊達下屋敷まで連れて来てくれていた。


 親子の名乗りは許されず、五六八姫は幼いわが子から「叔母上」と呼ばれた。


 一向に先行きの見えぬ娘の行く末を案じる政宗の奔走で御公儀の許しを得た元和6年9月12日、五六八姫は単身で江戸を発ち、26日、仙台城西屋敷に入った。


 その母を追いかけるようにして、秀雄に伴われた龍千代が仙台にやって来た。

 相変わらず名乗ることも同居も許されぬ母子の、新たな生活の始まりだった。


 

 ところで。

 五六八姫にとっては愉快でない、できれば忘れてしまいたい事実があった。

 大坂冬ノ陣の前の慶長19年(1614)夏、忠輝の側室・竹ノ局が長男・徳松を出産した。


 忠輝の改易後、母子は武蔵3藩のひとつ岩槻藩主・阿部山城守重次に預けられたが、御公儀から押し付けられたお荷物として厄介者扱いされていると聞いていた。


 現役時代は夜ごと嫉妬を募らせていた竹ノ局とその子が、不遇な境遇に置かれている現実は、五六八姫の正室としての誇りを著しく傷つけずにはおかなかった。


 認めたくはないが、まぎれもない身内である親子に手を差し伸べず、不遇に放置したままにしていることを忠輝が知れば、なんと不甲斐ない正室かと嘆くだろう。


 かといって、すべてを父に頼っている現在の自分にはなにひとつ援助できない。

 どうしようもできぬ現実が、幼児にもどって地団太を踏みたいほど歯痒かった。

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