第8話 大坂夏ノ陣⑦ ❀秀頼の妻・千姫の決意





 

 慶長20年(1615)5月7日(新暦6月3日)未の刻。


 雨霰と撃ち込まれた弾丸に生身の肉体を射抜かれた死体が随所に転がっている。

 紅蓮の炎のなか、頬を引きつらせ、唇を戦慄かせた侍女たちが逃げ惑うている。


 いまや阿鼻叫喚の砦と化した大坂城本丸の奥御殿。

 もっとも安全と思われる最奥の、皮肉にも、こんなときは亡き太閤好みの豪奢な設えがいっそうの悲哀を誘わずにおかない淀ノ方の居室で、19歳の千姫が23歳の夫・秀頼と、いずれ劣らぬ豪奢な小袖の膝を向き合わせていた。


 7歳で当城に嫁ぎ、大人になるびんそぎの儀を執り行った16歳を機に、実質的な夫婦になってのちもなお、生娘のような初々しさを失わずにいる千姫は、草原に群れ遊ぶ丹頂鶴を金糸銀糸や色糸で縫い取りした一斤染いっこんぞめの小袖をまとっている。


 かたや、千姫の生母のお江ノ方の長姉にして姑でもある47歳の淀ノ方は、昨今にわかに嵩を増してきた豊満な肢体を太閤桐紋入りの白羽二重でゆったりと包み、年輪を重ねた大樹の幹を思わせる堂々たる腰廻りには、涼しげな花緑青の搦織からみおりの打掛を巻いていた。


 可憐な千姫には、45歳の乳母・刑部卿局ぎょうぶきょうのつぼね、同じく幼時からの小姓(遊び友だち)で通称おちょぼこと17歳の松坂局、嫁ぎ先の豊臣家で就けてくれた16歳の侍女・早尾の3女が附き添っている。


 他方、貫禄たっぷりの淀ノ方には、謀反の嫌疑をかけられて敵方へ逃亡した家老の片桐且元に替わって城内を一手に仕切る47歳の大野修理おおのしゅり長治と、その母にして淀ノ方の乳母でもある大蔵卿局おおくらきょうのつぼね、同じく老乳母の饗庭局あえばのつぼねが就いていた。


 妻と母はそれぞれ、絶対の信頼を置ける家臣や侍女に囲まれているのに、肝心の秀頼には小姓以外に頼りになる側近がひとりもいない。目を覆いたくなる寒々しい現実が、のっぴきならぬ現状を招いた因を遠回しに物語っているようでもあった。


「あのなぁ……」

「はい」

「そなたにな、折り入って頼みがあるのじゃ」


 ためらいがちに切り出した秀頼の口許が震えている。


 ――ついに来た!


 千姫の脳裏を、鋭い緊張が奔った。


 生家と婚家の争いに翻弄される不運を気遣ってだろう、

「つまらぬことで姫さまのお耳を汚してはなりませぬ。凶事はお伝えせぬように」

 心配性の刑部卿局の発案で申し合わせでもなされたのか、だれからも何も告げられぬが、大坂城を取り巻く戦況の悪化を、千姫は痛いほどに肌で感じ取っていた。


 ゆえに、いまも一瞬にして豪奢な帯の下の丹田に力が入った。


 ――花の19歳で散るのだ。武家の女として立派な死に際をお目にかけよう!


 だが、渾身の覚悟は椿の花弁のように儚く打ち砕かれることになった。


「そなた、御祖父さまの御前に赴き、母上とわしの助命嘆願を行ってくれぬか」


 男子おのこにしては濃くて長過ぎる睫毛にくっきりと縁取られた二皮目ふたかわめを畳に落とした秀頼の語尾は、消え入るように細くなった。


 ――何と! この期に及んで命乞いとは!


 千姫は自分の耳を疑った。


 ならば、なぜもっと早く徳川方の妥協案を呑まなかったのか。

 方策も持たず、いたずらに事態を引き延ばした結果がこの窮地ではないのか。

 つまらぬ意地を張らず、今朝方、天王寺へ出陣して行った真田左衛門佐らの進言に耳を貸すだけの度量があれば、最悪の事態は避けられたかもしれぬのに……。


 千姫のなかで、だれにとも知れぬ憤怒が猛然と湧き上がって来た。


 わたくしは何も知らぬ人形ではない。

 わたくしにも目が、耳が、頭が、心がある。

 肌の下には赤い血が通い、全身で感じる知覚がある。

 重要事の相談ひとつかけられぬ惜しさに、いまさらながら身を揉む思いだった。


 その自分に使者に立てよとは……。

 ついに豊臣も行き着くところまで行き着いたのだ。


 渦巻く怒りを封じ込め、客観的に思い定めてみると、かえって肩の力が抜けた。


「お話、承りました。善は急げのことわざもございますれば、いますぐにわたくしをお遣いに行かせてくださいませ。必ずやお役目を果たしてご覧に入れます」


 気丈に答える千姫に、秀頼は「ううむ」と低く唸り、苦し気な息を吐いた。


「すまぬ。行ってくれるか」

「たしかに承知仕りました」

「すまぬ……いや、なに、その、わしはともかく、修理がな、うるそう勧めるのじゃわ」


 ――いまさら言い訳がましいお言葉は聴きとうない。


 だれにも気取られぬよう、かすかに眉を顰めた千姫は、ごく浅く頭を下げた。

 黙って夫婦のやり取りを見守っていた淀ノ方が、やっぱりな口を挟んできた。


「まことに無念至極じゃ」

「御意にございます、母上さま」

「かような事態に立ち至ったのはひとえに、近頃ますます狸爺の呼び声かしましい大御所どのの、まことにもってその名にふさわしい、狡猾極まりない腹芸にたぶらかされたがゆえ……と申せば、孫のそなたにはいささか気の毒であろうな」


 嫌味を言いながら、淀ノ方は横目で千姫の顔色をうかがった。

 だが、姑の視線の先の千姫は、美しい眉の毛1本動かさない。


「ま、本音を申せば、わが方の人智に恵まれなかったがゆえ……。いやいや、そうではない。すべての咎はわらわにこそある。わらわに賢明な采配がとれておれば、罪もないこの子を、かように酷い目に遭わせずに済んだものを。ああ、情けない」


 いい歳をした息子を幼児の如く庇いたがる親馬鹿も、いまは淡々と聞き流せた。


 目に入れても痛くないひとり息子への偏愛ぶりばかりは玉に瑕だったが、女だてらに豪放磊落な姐御肌で、すかっと快活な諧謔家でもあり、わずか7歳で政略の具にされた姪をことのほかに不憫がり、実の娘同様に大切に愛しんで育ててくれた。


 さような淀ノ方を、千姫もまた、実の母同様に敬い慕っていた。


「母上さま、もはや何も仰られますな」

 千姫はやさしく姑の心労を労わった。


「大丈夫でございますよ、わたくしがきっと殿をお救い申し上げますゆえ」

 いまや唯1本の藁となった千姫に、淀ノ方は縋るような哀願の目を向けた。

「どうかよしなに。そうじゃ、この際じゃ、阿督おごう(お江ノ方)にも力添えを乞うてな、何卒よしなに頼むぞ」


 戦国の姫を代表する生々流転の末に、いまや江戸城大奥の御台所として君臨する実母のお江ノ方は、夫の2代将軍・秀忠を完全に尻の下に敷き、ただひとりの側室も許さぬ猛女として喧伝されていることを長女である千姫も十分に承知していた。


「お任せくださいませ。あらゆる伝手を遣い御家の存続を図らせていただきます」


 戦場から遠く離れた江戸への連絡は至難とも思われたが、いまとなってはほかに頼る手段を持たぬ淀ノ方に少しでも安心してほしくて、千姫は力強く返答した。


 12年前、大坂城へ嫁ぐとき、


 ――これからは母代わりにするのですよ。


 お江ノ方が持たせてくれた持仏の阿弥陀如来像が守ってくれそうな気がした。

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