第3話 大坂夏ノ陣② 🌼真田を守る父と母の覚悟






 阿梅姫の感傷を破るように、つと面を上げた信繁が真剣な眼差しを向けてきた。


「そうではない。共に果ててはならぬ」

「は? いま、何と仰せられましたか」

「よいな、そなたは落ち延びるのじゃ」


 尊敬する父の口から転がり出た意外な言葉に、阿梅姫は思わず息を呑んだ。


 ふるさと紀州を捨て大坂へ出て来たときから、真田一家はどこまでも運命を共にする覚悟ではなかったのか。


 狡猾な古狸にまんまとしてやられようとしている年若な秀頼さまを、みなで身を挺してお守りする。一途な思いで巌よりも堅く結ばれていたのではなかったのか。


 なのに、いまさらわたくしだけ落ち延びよとは、はて、如何にも納得がいかぬ。


 ――第一、何処へ?


 次々に湧き上がる疑問を封じるかのように、信繁は峻厳な面持ちで語り継いだ。


「まあ、聴くがよい」

「はい、しかと」


「ことここに及んだ経緯いきさつを鑑みるにつけ、豊家と御運を共にする真田はわしと嫡男の大助で事足りよう。そなたら弟妹はどこまでもしぶとく生きるのじゃ。なんとしても生き永らえ、真田の血脈を、たしかに後の世に伝えるのじゃ。よいか、わかったな」


 思ってもみなかった父の説諭に、阿梅姫はわっと泣き崩れた。

「いやでございます、さようなこと、絶対にいやでございます」


「これ、落ち着け。そのように駄々をこねて親を困らせるものではない」

「わたくしとて武家に生まれた身、ぱっと潔く、爽やかに散りとうございます」


 頑是ない幼児を宥めるように諄々と説く父に、阿梅姫は甲高い声を迸らせた。


「そなたは……そなたは父の心を……」


 思わず口ごもる信繁に替わり、やさしく諭し始めたのは母の芳野だった。


「これ、赤子のようなことを申してはなりませぬ」

「母上まで、さようなことを仰せになりますか!」


 すでに事の次第を聞かされていたのか、芳野は驚くほど冷静だった。

「父上のご真意を理解できぬそなたでもあるまい。いや、理屈ではとうに理解しておるのに心の臓が、このあたりがどうしても納得したがらぬ。な。そうであろう」

 たしかに母の言うとおりだった。


「なに、案じることはない。父上がこれと見込まれた敵方の将に、すでに話をつけてくださってある。なにも心配せず、そなたは今宵を最後にこの城を発つのじゃ」

「では、母上さまもご一緒に?」


 反射的に飛び出た阿梅姫の問いに、芳野は黙って首を横に振った。

 母のさびし気な笑顔を見た阿梅姫は、ひとしお滂沱の涙に暮れた。


 泣き濡れた顔を上げ、母のとなりに端座する祖父の高梨内記に助けを求めると、信繁が生まれ落ちたときからの篤実な傅役もりやくにして舅でもある信濃産の古武士は、武骨な双眸を真っ赤にして、しきりに頷いてみせた。


 追って発せられた信繁の言葉に、阿梅姫の驚愕はいよいよ最高潮に達した。


「心して聞くがよい」

「はい、なんなりと」


「今宵以降、この父に替わって今生でそなたを守ってくださるのは、伊達政宗さまのご配下にして、智将の名をほしいままにされている、片倉小十郎重長どのじゃ」

「えっ、まさか! 道明寺の戦いで殿しんがりの父上が対峙された、その片倉さま?!」


 華奢な上体をのけ反らせた阿梅姫に、信繁は、にやりと髭面をほころばせた。


「おおよ。まさにその小十郎どのじゃ」

「まさか、そんな……」

「敵ながらのおとこぶりに惚れ込んでのう、先夜、ひそかに話をつけておいたのじゃ」


「わたくしとしたことが、父上のお近くにおりながら、少しも存じませんでした」

「敵を欺くにはまず味方からと申すではないか」

「それはそうなれど……」


 やや不服顔の阿梅姫に、信繁は明るく笑ってみせた。


「まあ、許せ。それにしても何食わぬ風を装い、敵にも味方にも聞こえる大音声を張り上げながら撤退してみせねばならぬ状況は、武辺一辺倒なわしには相当に骨が折れたぞよ。やたらに鞭を入れられた月影も、さぞかし迷惑したであろうがのう」


 ――文字どおり生きるか死ぬかの緊迫した状況下、敵のみならずお味方まで欺き通し、わたくしひとりが生き延びる手立てを整えてくださっていたとは……。


 いっときの激情から醒めた阿梅姫は、ほとほと温かな思いに満たされていった。



 いまから十五年前。

 関ヶ原合戦後の残党狩りで、所領地の近江古橋村に潜んでいるところを捕らえられた敗軍の将石田三成は、同じく罪人となった小西行長や安国寺恵瓊あんこくじえけいと共に洛中を引きまわされ、六条河原の刑場に連行された。いざ斬首というときも日頃と変わりのない飄々とした態度を貫き、従容として死に赴いたと聞いている。


 死を覚悟の決戦に挑まれる父もまた、まったく同様の境地にあられるのだろう。

 昨冬の戦い以来、一気に老け込んだ父を、阿梅姫はまじまじと見つめ直した。


「これこれ、妙齢の姫が、さように人の顔をまじまじ凝視するものではないぞよ。いかな父親といえど、ない穴を掘ってでも入りたくなるではないか」


 いつもの軽口にもどった信繁に、阿梅姫も努めて明るい口調できり返した。


「しかと承りましてございます。きっと首尾よく逃げおおせてご覧に入れます」

「よし。頼んだぞ」

「はい、ご安心くださいませ。わたくしが必ず真田の、父上の血を守り抜きます」


 年端もいかぬ姫の健気な覚悟を聞いた信繁の顔が、突如、くしゃっと崩れた。


「くう……。よくぞ申した。それでこそ、天晴れ、わが姫じゃ」

「おそれ入ります」

「そなたはまこと、父の……真田一族の誇りじゃ」


 戦場では鬼とも化するであろう猛将の荒々しい双眸が、堪え性もなく堰をきる。

 だっとばかりに滴り落ちる涙の滝が、苛烈な日々でめっきり嵩を減らした膝頭をしとどに濡らしていった。


 そんな父のとなりで共に泣き崩れた母の嫋々じょうじょうとした姿に、阿梅姫は、いまは昔となった遠いふるさと紀州での一景を物悲しく思い出していた。

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