第三話 素直な気持ち

「色々とごめんなさい」

「いえいえ。お気になさらないで下さい。明日からまた、よろしくお願いします」

「うん。じゃあ」


 楽しく食事をしていた時間など嘘のように、駅の改札が近付くにつれ、彼女はよそよそしい態度へと変わる。仕事の時のように、また敬語を使い、朔太郎との距離を徐々に離しているように見えた。

 もう少し一緒に居たい。まだ陽は高く、そう言っても彼女は笑って受け入れてくれる気がした。日曜日だから酒は誘わないとしても、散歩して茶を飲むくらいは、と思えたのだ。

 しかし、彼女は既に線を引き始めている。もう完全に仕事相手としての『田中さん』へと、シフトチェンジしているのである。だからもう、気軽に「朔」とは呼んでくれない。何も気にせず、サラッと誘えばいいだけ。そう思えるのに、簡単にそうすることが出来なかった。理由は分かっている。


 これ以上二人の距離を縮めてしまったら、初めに危惧していたことがきっと起こる。ポロっと私生活を覗かせるような関係をどちらかが口にすれば、何かが崩れてしまうのは目に見えているのだ。海がこれまで築いて来たものを、フラッと帰って来たような朔太郎が壊すわけにはいかない。真面目で、一生懸命で、それでいて男運がなくて。周りにそうやって認められて来た『木下海』という存在。その彼女が二人の関係を仕事に引き摺りたくないのなら、朔太郎はそれを尊重したい。そう、思っている。

 ただそんなもの壊したところで、大して支障が無いことも同時に理解している。多少仕事をしにくくなるかも知れないが、実際はなってみないと分からない。そういうものだが、朔太郎は結局また踏み込めなかった。海が仕事をしにくくなる、ということだけは確かだからだった。


やってみなきゃ分からない。

きっとどうにかなる。


 いつもそうしてやって来たのに、これだけは出来そうにない。この気持ちは、拒絶されればもう次はないのだ。 あぁいつからこんなに臆病になったんだろう。


「あぁ。クッソ……」


 ガタンゴトン、と音を立てる電車に身を委ねる。その音に耳を傾け、少しだけ目を瞑った。今思い浮かんでいるのは、まだ制服を着ている海。あの頃、二人肩を並べてこの音を聞いた。ただ懸命に走る電車の鼓動だけを、何も言わずに耳を傾けていた。


 あの若かった頃の二人には、今更二度と戻れない。今日彼女の部屋で意識したように、簡単に男と女の関係に戻れるくらい、二人は随分と大人なのだ。静かに彼女を押し倒していたら、関係などあっという間に変わっただろう。そしてそれは、あの頃に戻ったわけではない。新しい、今の二人の関係を構築したまでである。

 頭の中はもう、そんなことで一杯だった。くだらなくて、馬鹿らしくて、それでいて愛おしい。そんな大切なことを考えている。


 自分の胸に手を当てた朔太郎は、素直な気持ちに問い掛けた。それが答えなのだな、と。未だに高いところから射し仕込む太陽を、朔太郎は大きく目を見開いて捉えた。

 今すぐに手を伸ばすことは叶わない。仕事がひと段落した時、この気持ちを解放出来れば。今言わないのは恥ずかしいことではない。大人としての配慮なのだから。


「うん、よし」


 確認出来た自分の気持ちに、清々しい思いがする。小さく出た言葉に隣に座った子供が驚いたが、朔太郎は流れるビルに目をやって誤魔化した。


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