第三話 この気持ちに名前を付けるなら


『しーちゃん』


 そう呼んで朔は、海の築いている防護壁を、いとも簡単に越えようとした。バクバクと大きな音を立て、響く鼓動。熱くなり始める頬。あまりにヒョイっと気軽に飛び越えて来たものだから、そういうものか、と一瞬受け止めそうになってしまった。逃げるようにカフェを出て、会社まで冷めた歩道だけを見つめて歩く。周りを見る余裕など、無かった。


 もう終わったこと。好きだという感情が騒いだとしても、それは片想いのまま。彼とまた、上手くいくことなんんてないのだ。性格も何もかもが合わない。だから、一緒にいれば大抵は、どちらかが我慢している。自分にないところを相手の中に見つけては、凄いなと思う反面で、自分には出来ない事も判ってしまう。一緒にやってみよう。一緒に乗り越えていこう。そうしてみても、結局はどちらかが窮屈になってしまうのだ。結局は、凄いね、と認めるだけ。本当は、諦めてしまうことが常だった。

 大体、朔太郎はどんな気持ちで言ったのだ。何の考えもない思い付きで、思い出話をしたかったのか。そんなの、冗談じゃない。悔しいけれど、こっちは十二年経っても前に進めていない。夢にまで見ては泣いていたのだ。気軽に昔話など、出来る心境にはない。そんなこと、朔太郎には分かるわけもないが。



「海さん、お帰りなさい。って、大丈夫ですか。何かありました?酷い顔してますけど……」

「あぁ、ごめん。怖い顔してる?ちょっと、考え事して帰ってきたからさ」

「と、とりあえず。私コーヒー淹れて来ますから。飲んで落ち着きましょう。私も飲もうかな」


 鞄を置く海を見届けて、優奈は直ぐに席を立った。何だか気を遣わせてしまったな、と反省はするものの、机に突っ伏した顔は上げられない。そんなに酷い顔をしているのか。 眉間に力が入っていることには自覚はあるが、怖くて鏡など見られない。一先ず大きく息を吸って、心のモヤモヤを吐く息に乗せた。


「木下、何?この世の終わりみたいな、その顔。精気ないけど大丈夫?生きてる?」

「千佳さん、生きてますよ。大丈夫です」


 顔を横に向けて辿った声の主は、千佳子である。辛うじて返答を絞り出したが、その反応は本当に心配をしている。一呼吸しもう一度、大丈夫です、と背筋を伸ばした。


「何か分からないけど、大変な所ごめんね。今度の試食会なんだけど、誰か呼ぶ人いる?」

「試食会、ですね」


 そう復唱しながらも、誘ってしまった後悔が頭の中をグルグル巡っている。千佳子は先程の心配など忘れ、子供たちを連れて来る、と楽しそうに話した。上の子は、もう来年小学校に上がるくらいだったか。カフェには色んな年齢層の来訪があるわけだから、子供の意見も重要だ。時には子供が「あそこに行きたい」と大人に声を掛けるかもしれない。そう話すと千佳子は、まぁ休日のランチ代わりだけどね、と戯けた。


「さっき田中さんにお会いしたので、お声掛けしたんです。うちの野菜をちゃんと食べたことがないっておっしゃっていたので」

「あぁ、バイトくんか。食べたことなかったっけ」

「そうみたいですよ。枝豆だかを食べた記憶はあるけれど、生野菜はないんだって言ってましたから」

「了解。一般男性の意見って貴重だし。うちの若手じゃ食べ慣れてるからね。じゃあ、後で日程とか連絡してあげてくれる?」

「はい。じゃあ、詳細が出たら教えてください」


 了解、と手をヒラヒラさせて帰って行く彼女を見送る頃には、大分落ち着きを取り戻していた。きちんと仕事モードの自分を取り戻したのである。入れ違いに戻って来る、両手にコーヒーを持った優奈。あぁ悪いことをしてしまったな、と反省が色濃くなった。



「千佳子さん、試食会の件ですか?私、今回はパスなんですけど、海さんもでしたっけ?」

「あぁ、うん。そうだったんだけどさ。さっき田中さんが一緒で、お誘いしたんだ。まぁ一般男子の意見も必要だしさ」


 まるで突っ込まれる前に、言い訳を並べているようだった。優奈は何かあると今でも、朔太郎と海を近付けようとしているのだ。ただ今は、最もそっとしておいて欲しい一件である。


「そうでしたか。森本さんご夫妻は、別件でダメなんですよね。田中さん、いらっしゃるといいですね。ね、海さん」

「何、その言い方。優奈、こら」

「だって、海さん。田中さんの事、めちゃくちゃ意識してたじゃないですか。私は、恋ではないか、と思っています」


 優奈はそう言いきり、カップに口を付けた。呆れた顔を見せた海を見てはいないようだ。

 彼女はと言うと、最近友人の紹介で出会った男性とデートしているらしい。元気な事に変わりはないが、紅の色や髪型、雰囲気に少し変化を見せている。海は淹れてもらったコーヒーを口に入れると、ふぅ、と短く息を吐いて立ち上がった。


「有難うね。さて、午後も頑張りますか」



 これはもう、きっと恋ではない。彼の良い部分も知っているけれど、さっきのような嫌いな部分だって、よく覚えている。

 これはもう、恋ではないのだ。

 朔太郎は時折昔のように振る舞うが、あれはきっと何も思い出せていない。どこかで我慢をして、苦しくて。でも、ぶつけられなくて、飲み込んで。そうやって過ごした時間もあった、と言う事を。何もかも合わない、彼がそう言ったのは一度ではない。それをどう受け止めていたのかは分からないけれど、苛ついていた事だって何度もあったはずだ。


 青春時代の思い出。それは、彼の中で美化されている。キラキラと輝いていたであろうあの頃に、触れられたような気がしているのだろうか。そんなに美しい思い出ばかりではないのに。

 今、この時間と気持ちに名前を付けるなら。それは『彼を忘れるための猶予』だ。

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