第六話 試練の始まり

「ご足労いただいてすみません」


 朔太郎がやって来たのは、あの電話から一時間経つ頃だった。緊張ばかりもしていられない。海にとっても、今後の方向性を定める大事なものなのだ。結婚してもしなくても、仕事を続けて行くために。


「いえ、言い出したのはこちらなので。かえってお時間をいただいて、すみません」


 真面目な顔で、朔太郎は軽く頭を下げた。そんな事ないです、と海の方がペコペコ頭を下げてしまう。顔を合わせるなり謝り合った二人は、周囲の視線にハッとする。


「あぁ、すみません。こちらです」


 慌てて顔を上げれば、朔太郎は少し表情を緩めていた。優しい視線に簡単にドキリとしてしまう。気を取り直し歩き始めると、彼は後から付いて来る。会議室までの短い距離。特に話さなくてもいいが、間があることが息苦しい。パニックになって、関係ないことまで聞いてしまいそうになる。

 元気にしてた?スペインってどんな国なの?昨日一緒にいたって言うのは、彼女? と。



「こちらです」

「わぁ、こんな風になったんだ。バイト辞める頃に改装になってたんだ」


 昔を思い出す朔太郎がそう言うと、「そ、そうですか」と面白くもない返事が出た。室内を見渡す彼に一声掛けると、海は逃げるように部屋を離れた。懐かしさに頬を緩める彼。あんな顔をされたら、昔みたいに話してしまいそうになる。ダメだ。神様の与える試練に、いとも簡単に負けそうになる。


「海さん、ちょっと」

「ん、どうした?」


 会議室を出たところで呼吸を整えていると、優奈がパタパタとやって来た。顔を向けた海の手を引き、彼女は慌てて給湯室に引き摺り込んだ。


「海さん、ダメです。ちゃんとリップケアしてください。ほら、持って来ましたから」

「え、なんで。そんなにカサついてる?」


 唇に手を当てたが、特に乾いた様子はない。朝塗って来た桜色の紅が指に付く。乾いているわけでもなかった。


「違います。もう少し、グロスとか塗ってくださいよ」

「いや、今グロス塗る必要ないでしょ。仕事中なんだから。それだけ?まったくもう」

「海さん。私は、田中さん良いと思います。彼女いますけど……私、応援しますから。なので急いでグロス塗ってください」

「え?いや、意味が分からない。デートする訳じゃないでしょう」


 適当に否しながらコーヒーの準備を始めても、優奈は諦めることはなかった。キラキラした目で、「チャンスは活かさなきゃ」とじっと海を見ている。『海と田中をくっつける作戦』を一人企画した優奈は、とてもしつこい。こうなった彼女の扱いは、もうこちらが折れるしかない。私生活に関しては、彼女の方が一枚も二枚も上手である。


「あぁ、もう分かったわよ」


 目を輝かせながら優奈は、「そう来なくっちゃ」と鼻歌交じりにグロスを塗ってくれた。海にだって、下心がないわけではない。少しでも大人になった自分を見て欲しいと思う気持ちは、御多分に洩れず存在していた。


「バレない程度に可愛く塗っておきました」

「はい、有難う。もう、あの書類確認しておいてよ。まったく」

「分かってますよ。それとこれとは別問題ですから」

「はいはい。分かりましたよ。えぇと、ミルクと砂糖……」


 トレーに乗せた二つのコーヒー。そこへ必要なだけのミルクと砂糖、マドラーを添えた。ふぅん、と覗き込んだ優奈は、給湯室から一歩出て立ち止まる。それからクルリと体を回転させて、拳をグッと握り「健闘を祈ります」と満足げに笑った。



「失礼します」


 会議室に戻ると、彼は鞄から資料を広げている所であった。きっと唇の変化になど、気付かないだろう。そう分かっていながらも、恥ずかしくて下を向いてしまった。


「少し離れたところに置いておきますね。ミルクと砂糖もこちらに」

「あ、有難うございます」


 朔太郎は海の視線を辿り、自分のコーヒーを確認する。すると、そこを見つめたまま止まった。「何か」と問うてみるが、こちらを向いた彼は苦笑しているように見える。紅茶の方が良かったのか。何だろう。そう疑問の表情を浮かべた海に、いえ何でも、と彼は答えた。 腑に落ちないが、広げる話題でもない。海も資料を並べると、パソコンを開いた。


「早速ですが、この屋内栽培が大きく左右すると考えています。これは、マストだという認識でよろしいですか」


 朔太郎の一声で、スッと仕事の顔に戻る。互いに一線を引いた取引先の相手。昔付き合っていたなんて、誰も気付かないだろう。


「そうですね。そこから収穫したものを食事に入れて、出来れば子供たちに興味を持ってもらいたい。意外とどんな風に出来るものなのか、知らない子って多いでしょう?」

「うんうん、なるほど。そうすると、やはりカフェの方に客が流れて欲しいですよね。そうなると……」


 朔太郎は鉛筆を握り、サラサラとデッサンを始める。あぁ昔も良くこうして、彼は絵を描いていた。入学試験の練習だというそれを見ることが、海はとても好きだった。彼の少し骨ばった手が、魔法のように描いていく。あの頃と同じように、朔太郎はいとも簡単に描き上げ提示した。


「こうして、キッチン側の壁に付けるんです。フロアに並べてしまうと、誰かが触ったり、気になりませんか」

「あぁ、確かにそうですね。なるほど。キッチン側に付けることで、事前に収穫をしなくても良い。より採れたてが提供出来るわけですね。なるほど」


 始まる前の緊張など、あっという間に消えて行った。一つのプランについて話しているからか、提案は尽きない。変わっていない部分に気付いたって、二人共しっかりと大人になっているのだ。


カフェスペースからは、外の公園の木々が見える方がいい。

レジであまり並ばないように、配置をこうしよう。

カフェの方はアースカラーなんかで、少し落ち着いた色合いが合うかもね。


 二人で話すだけで、次々と案が浮ぶ。これまでの打ち合わせではなかなか言い出せなかったような思い付きも、臆せず言えたのだから面白い。時折描かれる簡単な図面やラフ画は、今も海をワクワクさせた。いつからか会議室の小窓から見える同僚たちを気にすることもなく、二人の話は速度を上げ進んで行った。


 打ち合わせを始めて一時間少し経ったろうか。トントン、と扉を叩く音で会話が止まる。見ると、扉の小窓から野村が手を振っているのだ。「どうぞ。結構捗ってますよ」と招き入れるなり、彼は朔太郎に向って手を伸ばした。


「おぉ、バイトくん。久しぶり」

「野村さん、お元気でした?変わらないですねぇ」


 二人は握手をしながら、互いの変化点を探している。朔太郎はそれほど変わったようには見えないが、野村はどうだろうか。海が入社した時点からは、多少老けただけのように見える。


「そうか。少し腹が出てきて悩んでるけど」

「ぷっ。そんなの気にするタイプでしたっけ」

「いやぁ、娘に言われちゃうんだよ。パパ、おデブって」

「結構、ズバッと言いますね。娘さん」


 野村は楽しそうに目を細めた。朔太郎もまた、懐かしい顔に再会したことで緊張がフッと緩んだ様に見える。海はそれを微笑ましく見てはいるが、また一つ気になっていた。


「野村さん。彼は、バイトくんじゃないって言ったじゃないですか。田中さんです」

「お、そうだった。すまん、すまん」

「いや、いいですよ。まだ今月はバイトなんで」


 朔太郎の優しい言葉に甘えてしまうから、多分野村は今後も彼をバイトくんと呼ぶだろう。そしてきっと、朔太郎もそれを気にしない。


「それで、どこまで進んだんだ」

「ええとですね、これはここの壁に設置して、摘み取りながらカフェで提供をする。そうすることで、より新鮮なものを出すことが出来ますし、お客様が触ったりすることもなくなります」


 野村へ朔太郎の描いたラフを提示しながら、簡単に説明をした。窓からの景色や販売所の配置など、打ち合わせの内容を凝縮して伝える。何てことない、いつものやり取りだった。そこへ聞こえて来たのだ。「木下さんは、真面目なんですね」と言う朔太郎の声が。

 真面目。それは誉め言葉ではないことは、海は瞬時に察した。昔、彼には良く言われていたのだ。それも少し呆れながら。その記憶が蘇ると、一気に血の気が引くように青褪めていった。


「そうなんだよ、バイト。木下は少し硬いんだよなぁ。よく分かったね」

「あ、いや。細かに説明されていたので、つい。すみません」


 野村の大らかな反応に対して、彼は慌てて謝る。つい、ではない。絶対に、昔のことを思い出したのだ。「いえ、いいんです」と言いながら、泣きたくなる。あれから大人になったと思って欲しかったのに、何も変われていないことに気付かれた。それが絶望のようで、逃げ出してしまいたかった。


「昔から真面目で融通が利かないって、皆に言われてきましたから」


 そう笑って誤魔化すしかなかった。朔太郎を責めているのではない。実際にそう言われて来たのだ。理沙にだって、佐知にだって、良く言われた。海は真面目なんだから、と。どうしたらいいのか分からないんです、とつい漏れた言葉が本音だ。だけれど、丸い物は丸いし、四角い物は四角い。悪いことは悪い、のだ。それを我慢しては、自分ではなくなってしまう気がしてしまう。


「でもな、バイト。木下は、ちゃんと周りを見てる。今は誰をフォローすべきか、きちんと見てるんだ。真面目だからミスも少ないけど、ちょっと抜けてて可愛いところもちゃんとある。な。だから、あんまりズバッと突っ込まないでやってくれよ」


 野村はそうやって自分を見てくれていたのだと知る。単純だから、泣いてしまいそうになった。ごめんなさい、と朔太郎は謝るが、真っ直ぐ見ることが出来なかった。情けないことに、昔の記憶に呼び止められてしまったのである。

 「よし、今日はこれくらいにするか」と直ぐに野村が言ったのは、落ち込んだと捉えたからだろうか。彼は朔太郎の頭をぽかっと小突き、スッと立ち上がった。片付ける朔太郎に横やりを入れながら、野村は海をチラリと見てくる。大丈夫、と目配せをすると、「あ、そうだ」と漫画のように左の掌に右の拳をポンと弾ませた。


「バイトの歓迎会するか。会いたがってる奴らもいたし。森本さんたちと皆でさ。どう?」

「本当ですか。じゃあ開いてもらおうかなぁ。木下さんも来てくれますか」


 さっきの誤魔化しだろう。朔太郎が素直に誘ってくれたのかも知れないのに、そんな捻くれた考えしか浮かばない。「勿論です。参加させていただきますね」と余裕ぶって微笑み返すのが精一杯だった。

 次の予定が入っている野村は、連絡するから、とせかせかと背を向け去って行った。そこには、気不味いままの二人が取り残される。入口まで一緒に行くが、互いに何も言えない。それでは、と形式ばった挨拶を交わした後だ。朔太郎が何かを思い出した。


「あ、そうだ。今日名刺が出来たんです。改めまして、森本デザイン事務所の田中朔太郎です。よろしくお願いします」


 朝受け取って、そのまま鞄に放ったのだろう。輪ゴムで留められた箱から、彼は一枚とって差し出した。それが微笑ましくて、彼らしくも感じる。ありがとうございます、と受け取りながら言う声色が少し弾んだ。やはり単純だな、と思った。

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