20、閉塞と打破

 僕は重量を感じさせるノイズに包まれ、さらに僕の内側からも相容れないはずのたくさんの感情が湧いてきていた。恍惚、恥じらい、不安、心配、高揚……。そのせいか、僕は早くもかなり疲れていた。目の前の美紀が若すぎて、自分の老いっぷりを無意識に強く感じたせいかもしれない。晃子と一緒ならば、たとえ疲れたとしても気にならなかっただろうけれど、美紀の内側からほとばしる活力の前だと、『自分はもう若くないのだ』という厳然たる事実を突きつけられている気がした。

 それでも僕は簡単にへこたれたりはしなかった。このくらいの屈辱は何でもないのだ。水準を下げておけば、あらゆる精神的衝撃は和らぐ。いや、〈水準を下げる〉というネガティヴな表現は避けよう。僕は建設的に――カント先生の教えを大切に――生きていくのだから。

 つまり、僕は経験したことのない新たな衝撃(ここでは、自分が決して若くはないと思い知らされたこと)をも、まるでベテランのボクサーが華麗に軽々と相手のパンチをかわすように、やり過ごせるようになっていたのだ。その点は年の功だ。若いころのように、いちいちそんなのを引きずらない。僕の頭の中に、〈アプリオリ〉や〈エステティーク〉などの言葉が、意味もなく漂った。

 そして僕は、こうなりゃ無理せず省エネでいて、あとは美紀の若さに身を預けてしまえばいいと思った。美紀のエネルギーについていけないときは、もうついていかない――こういうスタンスでいよう。こんなふうに、スタンスを決めてしまうとラクになる。美紀を高そうな店ではなく、マクドナルドに連れてきたことだって、気に病むこたあない。

 それにしても、図書館でたまに会っていただけのとしての美紀からは、現在のような生き生きとした姿は想像できなかった。あのオジサンたちは、こんな美紀を見たら驚くだろう。僕たちはいかに彼や彼女の一側面しか見ていないことか――いや、そんな普遍的な結論など出さなくていい。単に美紀のギャップが人一倍大きいだけだ。


 僕はハンバーガー(ピクルス多め)とホットコーヒーにしていた。美紀はエグチとかいう安めのセットだった。支払いのとき、僕はな感じがイヤで、照れもあり、おごらなかった。それでも食べているうちに、美紀はまた元気になってきた。お洒落をして、渋谷あたりで男と店に入っているというだけで幸せなのだ――たとえ相手が僕のようなオッサンでも。

 この歳になってようやく、女のこういうミーハーなところをかわいいと思うようになった。嬉しそうな顔を見たいばかりに、若い女に高価な宝石や時計やマンションなんかを買い与えるオッサンたちの気持ちがわかったし、むしろそんなオッサンたちの純粋さこそかわいらしいと思った。それはまるで孫にお菓子を買ってあげるおじいさんやおばあさんのような、見返りを求めないピュアな愛情のようだ。だがオッサンの大半は、いわゆる〈ヤリもく〉で若い女に貢いでおり、まったく不純だ。それが現実だ。

 ひるがえって僕はどうなのだろう? 残りのコーヒーを一口すすり、目の前の美紀を見た。あらためて、僕たちはアンバランスだ。客観的に見たら、美人局つつもたせに引っかかったオッサンではないか? ヤリ目で近付いて痛い目に遭う、愚かで憐れな中年男性――そう思ってハッとし、その可能性を考えてみた。しかし、美紀はどう考えてもそんなことをしそうになかったし、それが目的であればこんな遠回りな方法は取らないだろう。だいたいターゲットたる僕が貧乏だ。そんな可能性を考えたこと自体、美紀に対して失礼なことだった。

「また何か考えてるね」美紀はハンバーガーを食べ終わって、ポテトをつまんでいた。

「ああ、このあとどうしようかなって」

「そんなこと考えなくていいのに」

「――あ、あのさあ」僕は、閉塞感を打破したくなり、美紀に顔を向けて言った。だが、そのあとの言葉が浮かんでこなかった。

「何?」美紀はあまり気にしていないようすで、スプライトを飲んだ。

「あの……、俺、さっきは適当に渋谷なんて書いて送ったけど、渋谷のいい店とか、何にもわからないんだ」

「何も計画立ててないの?」美紀はいたずらそうに言った。「ま、別にいいじゃん。ブラついてれば」

「いやあ……」

 最終的には美紀の気を損ねず、楽しんでもらえればいいのだが、どうすればいいのだろう? 一番ネックなのは、僕が金をケチっていることだ。血気盛んな男なら、ハッタリでも高い店に連れて行ったり、高くつく遊びをするのだろう。僕はまったくそんなタイプの人間ではない。年々、そんなところから遠ざかっている。


 僕は、渋谷に誘ったことを後悔した。身の丈に合った、よく知っているところで良かったのだ。オッサン臭くともダサくとも、高田馬場あたりで安くビリヤードやらボウリングをしているのが楽しいのだ。晃子とはそんなふうに過ごすことができた。気を張って渋谷なんて言って集まっても、出オチだ。出オチ? いや、竜頭蛇尾? この場合何て言うんだっけ?

「ねえ、どうしたの?」

「え?」

「さっきからおとなしいじゃん。まだ考え事してるの? つまんない?」

「いや」僕は手と頭を振った。「そんなことない。うーん……まあ、久々の渋谷で緊張してるんだな」そう言ってしまうと、ラクになった。

「何年も東京にいるのに?」美紀は笑った。

「そういうもんだよ。それにいつもはサラリーマンだらけのとこにしか行ってないし、俺たちんとこも静かだろ」

「まあそうだけど……」美紀は周りを見た。そして確かに僕の言うとおりかもしれないというように、肯いた。

 僕も周りを見ると、左手の少し離れたところにいる若い男たちと視線が交わった。彼らは僕たちをずっと見ていたようだ。美紀が魅力的だからだということはすぐにわかった。そしてそれは、その向かい側にいる男(つまり僕)は何者なのだ、という視線でもあった。

 僕は知らんぷりをしていたが、やがて美紀が食べ終わるのを待たずに、「出よう」と言った。

「まだ残ってる」

「美容のためにも、全部食べなくていいよ」

 美紀は笑った。

「ボウリングでもしよう」

「ボウリング?」

「そう。やったことある?」

「何年か前に、一回だけ」

「面白かっただろ?」

「まあね……」

「まだ面白さがわかってないな。ボウリングと、ビリヤードもやろう。教えてやるよ」

 美紀の表情が、ハチ公前で見せたように明るくなった。

「じゃあ、渋谷にオサラバだ。電車に乗るよ」

 僕たちは席を立った。去り際にチラと見ると、やはりは僕たちを見ていた。追われる心配はなかったが、逃げるように外に出た。渋谷に来るようにと言っておきながら、マクドナルドに入っただけで去るというのは、我ながら身勝手で大胆だと思ったが、そうでもしないと息が詰まりそうだった。だが美紀の手を引いて小走りで駅に向かっていると、ようやくデートらしくなってきたと感じ、心が軽くなった。美紀のほうを振り返ると、同じ思いを抱いているように見えた。

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