18、その精神状態の原因は何か

 金曜日だが、休みだ。美紀との件は3日前、火曜だった。水、木と仕事に出て、また休み。僕は朝起きてからずっと落ち着かなかった。何かをしたいのだが、何をすればいいのかわからない。

 とりあえずジーンズを履きシャツを着て、『純粋理性批判』をカバンに入れ、初夏の日差しの中へ紛れ込んだ。こうなるとだいたい行先は図書館だ。だが、あまり良い行先には思えなかった。僕は途中で考えをあらため、喫茶『バイロン』に行くことにした。なぜか図書館を避けている自分――しかし、理由は半分わかっている。美紀だ。図書館はダイレクトに美紀を感じてしまう。だが、あの喫茶店だってそうだろうし、むしろあそこから関係が本格化したじゃないか。なぜ喫茶店には行くのだ?

 かと言って、他に行くべきところはなかった。あのが僕の心を落ち着かせてくれるところであり、それ以外の場所には不可能だ。しかし、あの二ヶ所には今、美紀の生霊が漂っている。そしてどちらかと言えば喫茶店のほうが行く気になれた。


 僕は美紀を避けたかった――そのはずだったが、一方で美紀に狂おしく会いたがっているのかもしれなかった。こうなるとマズい。これが女に惑わされた男の憐れな姿だ。自分を客観視できているものの、結局どうすればいいのかわからない。

 ――カント先生、僕はどうすべきなのでしょう? こんなときこそ、カントだ。カントの答えは決まっている。至極明快だ――美紀を避けろ――。

 そりゃそうだよな、と思う。僕は愚かしい真似をしている。道徳的にも、年齢差を考慮すると褒められたもんじゃない。だが、教えに従うことが難しいほど、僕は美紀に惹かれていた。修業が足りないのだろうか? しかし、ここまで強く惹かれると、そういった本能的なものを正当化し、カントの教えの欠陥を見つけ出し、欲望にまっしぐらになりたくなる。カントだって人間だし、絶対的なものなんてこの世にはないんだ、などと考えて――まったくいい加減なもんだ。


 僕は答えが出ないまま、喫茶店のドアを開け、うつむき気味のまま席に着いた。店内は少しクーラーが効いていた。「ブレンド」とキリッとした若いバイトのウェイターに告げ、テーブルに肘をついて頭を抱えた。

「あれ、どうしたの?」

 頭上で声がした。見ると以前もここで会った、〈同志〉の小太りの男がいた。

「ああ、こんにちは」

「頭抱えちゃって」

「いやあ、疲れですかね?」

「若いのに?」

「いや、そんなに若くないんです」

 男は僕の脇で立ったまま話していた。新聞と伝票を手にしており、ちょうど帰り際だったようだ。

「図書館は? もう行ったの?」

「いや、行ってません。今日はここでいいかなと思って」

「ふうん」彼は、『それは寂しいな』というように眉を寄せ、口を少しとがらせた。

「これから図書館に行くんですか?」

「そう。……たぶんあの子、今日もいるだろうな」

「あの子って、あの、大学生ぐらいの――?」

「そう。僕はもともと毎日のように行ってたけど、あの子珍しく、昨日も一昨日も来てたんだよね。長いこといたよ」彼は笑顔で言った。

「そうなんですか……」僕は美紀にまったく連絡していないことを思い出した。

「行ってあげたら?」彼は僕に秘密のアドバイスをするように言った。

「え? あ、行ければ……はあ」僕は肯いた。

 小太りの男(未だに彼の名前を知らない)は、新聞を軽く掲げて挨拶代わりとし、会計を済ませて去っていった。彼を見送ったあと、僕の頭は彼の言葉の意味の解明に躍起になった。美紀は図書館で待っているのだろうか? 彼は僕たちのことを知っているのだろうか? もしかして美紀が、彼に僕たちのことを喋ったのだろうか? それとも……?


 最終的に僕は、彼の軽い調子からして、よく顔を合わせていた〈同志〉として、現在のようになっている美紀に、ご挨拶がてら顔を出してはどうか、という程度の意味で、おちゃらけて言ったのだろうと結論付けた。その結論が出たとき、コーヒーはほとんど飲み干していた。僕は何度か肯きながら、今はもうこの場にいない彼に『言いたいことは分かりました。でも、今日は行きません。彼女にはそのうち挨拶しに行きます』と、心の中で告げた。

 そしてブレンドのおかわりをし、読書に取りかかった。だがいつも以上に内容が頭に入らなかった。もし美紀が、自分から連絡することができず、僕に会うために図書館にいるのだとしたら――その可能性は高い。あの日以降、図書館にいるのだから。そう考えると美紀が健気けなげに思え、情が湧いた。この〈情〉は、慈悲の意味ももちろんあるし、実際それが先に湧いたのだが、ほぼ同時に〈情欲〉も意味していた。『今日は図書館に行かない』というのは揺らがなかったが、『帰宅してから、昼過ぎにLINEでも送ろう』と思った。すると心が落ち着き、読書がはかどった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る