鴉との取引

 卒業式に出席しないまま、わたしは町を去った。


 父親の手で重傷を負ったイザクは意識が戻らず、わたしが出発の日まで目を覚ますことはなかった。そのことに少し安心していたわたしは、初めての手紙を万年筆でひとことだけ書き置いた。


「さようなら、お元気で」──と。




 母の仕事をすぐには受け継ぐことができなかった。史上最年少で暗部の諜報員エージェントとなったわたしは技術も知識も体力も未熟で、しばらくは訓練の日々が続いた。


 辛いとは思わなかった。心が空っぽになって、何も感じなかった。表情の作り方を忘れてしまったけれどかえって好都合だった。諜報活動をする上で感情豊かな表情は邪魔になることが多いから。






 国の中央区から西区まで覆う深い森で一人暮らしを始めた頃、〈イーグル〉が魔力回復役を連れてきた。

 ひょろりと背の高い、わざとらしいほど肌を見せない男の人。



「あんたが〈オウル〉か。辛気くせえ顔してやがんな、ガキのくせに」



 開口一番そう言った男はカラス面を被っていた。イーグルがぺしっとその頭をはたく。



「一応彼女の方が先輩だ、〈クロウ〉」

「へーへー。何でもいいけどよ」

「オウル、彼はクロウ、今日からお前の回復役となる。“ネクロ・メモリア”は莫大な魔力を消費する、足りなくなったら遠慮なく彼を使いなさい」

「そうそう。魔力ありすぎて持て余してんだ。タンクぐらいに思ってくれや」



 カラス面で顔こそ隠れているけれど、軽快によく回る舌が不気味さを吹き飛ばしている。イーグルは溜息をついた。……イーグルが呆れるのを、わたしはその時初めて見た。



「少々口数が多いのが欠点だが……退屈しのぎにもなろう。さて、私はもう行くよ、仕事が詰まりに詰まっているのでね」



 イーグルは多忙だった。エージェントたちの取りまとめ役なため、黙っていても仕事がかさばる。小屋から溶けるように消えて、カラス面とわたしだけが取り残される。



「なあ、これ、あんたの名前で間違いないか」



 突然カラス男が何かを差し出してきた。

 何通かの手紙だった。差出人は、



「……どうしてわたしの名前を」

「カラスは何でも知ってるのさ。あんたの本名も、町に残してきたっていうボーイフレンドのことも」



 ──イザクからの手紙だった。



「任務で人捜し案件があってね。行方不明になった重要参考人の手がかりを宛先不明の郵便に求めてみたら、近々回復役にあてがわれるって同僚の本名を見つけた。そのイザクって奴、ずっと手紙出し続けてたらしいぜ」

「そう……生きてる、のね」



 何年ぶりかに、わたしの顔にぎこちない笑みが浮かんだ。

 胸がほわりと温かくなった。凍っていた心に光が灯ったような気がした。手紙には何ということはない、季節の挨拶や簡単な近況報告がしたためられていて、だけれどその何でもないことが、ひどく懐かしくて暖かった。

 インクで書かれた文字を指でなぞる。上品な艶を放っている。あの万年筆を使って書いたのだろうか。突然姿を消した……父親に手を下す切っ掛けとなったわたしとの約束を、彼は守ってくれているのか。


 わたしが手紙を読むのを、クロウは何も言わずにただ見ていた。そして、出合い頭の軽薄な調子ではなく、どこか緊張感を孕んだ声を発した。



「……なあ、オウル。取引しねえか」

「取引?」

「そう。日付を見る限り、そのボーイフレンドは今でもたまに手紙を寄越すらしい。そいつの手紙、オレがお前ンところに運んでやる」

「……本当?」

「おう。ただし一つだけ条件があるんだが、承諾しねえと条件については話せねえ」



 カラス面から覗く口元は真一文字で、表情が読み取れない。

 怪しさしかないその取引を、わたしは、



 ──呑むことにした。



「その前に一個だけ」

「あァ?」

「……『わたしを裏切らないで』」



 相手の記憶を消さずに“言霊ロゴス”を使うのは、それが初めてだった。手足の長い、細身で長身の男が光を帯びる。



「『イザクに会っても、わたしのことを話さないこと』」

「……ッ、お前」

「『わたしに』……『イザクを会わせないこと』」



 エコーがかかって二重の響きを持ったわたしの声を、元に戻す。クロウの体を包んでいた光が、それに合わせて黒制服の胸に吸い込まれていった。

 真っ直ぐにカラス面を見上げる。戸惑うようにひとしきり口をパクパクさせていたクロウだったが、やがて呆れたように言った。



「一個って言ったろお前。三個じゃねえか」

「本当だ。ごめんなさい」

「まったくだぜ。しかも何だ、これ……こんなものが存在すると知れたら、王が黙っちゃいねえぜ」

「そうね。だから裏切らないでって」

「……反則技じゃねえかよ……まあいい、そういう便利な力があるなら、ますます取引のし甲斐があるってもんだ」



 切り替えの早いカラスは、ニヤッと口を歪めた。

 そうして、わたしとクロウは同僚となり──になったのだった。

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