ふたたび、春の雨の中で

 

 前が霞むほどの雨が降っていた。

 赤い傘を差しながら、大学から下宿先のアパートまでヴァイオリンケースを担いで帰っていた。


 私は音大生。

 最近、不思議な体験がきっかけで数年間のスランプから脱却したのはいいものの、別の問題が発生してしまい、困惑している。


 初めて意識したのはいつものレッスン中のこと。さあ、今日も頑張ろうとヴァイオリンを構えようとしたところ、音楽講師が放った言葉から判明した。


「元山君の将来は有望なんだろうねえ」

「は? え、そうでしょうね」


 最近、名のある海外のピアノコンクールで入賞した同期の名前を出された私は、何の他意もなくそう言った。


「以前からコンクールでもよく見かける名前でしたし、来年から拠点をフランスに移すと噂で聞いています。先生もご存知ですよね」

「うん」


 先生は頷き、もったいぶった言い方をする。


「でも君と元山君がそういう関係だったとは知らなかったなあ」

「そういう関係?」


 含みがあるように聞こえた。


「元山君が、君のボーイフレンドなんだってね。さっき、ほかに受け持っている子から聞いたんだよ」

「ボーイフレンドということは……私の彼氏であるか、ということですか?」

「そうだね。まあ学生の色恋にあれこれ口を出す気は毛頭ないけどさ。セクハラになっちゃうし。でも、君の場合は、あの大スランプから大きな飛躍を遂げているから、気になってはいたんだよね。君が突然醸し出したあの艶の源泉はどこにあるかなってね。答えは……元山君だったのかな。まあ、彼はモテそうなやつだよね」

「先生」


 私はとりあえず話を遮った。


「そんなことより私のレッスン時間をへんなおしゃべりで削らないでください」

「……そうかい。そうだよね。うん」


 先生も気を取り直したように私の指導に身を入れる。実は、ヴァイオリンコンクールが近いのだ。私には久々の晴れ舞台になる。

 これまで今の君ではコンクール優勝は絶対できないよ、と断言され、先生に出場を止められていたのだ。

 私は、年中アロハシャツを着る先生の人柄はともかく、その耳は信じている。同じくヴァイオリンを愛する者同士、音楽については嘘はない。

 コンクール解禁を告げられた時は嬉しかった。それは先生も自分の弟子として外に出しても恥ずかしくないと思っているということだからだ。


 今回のコンクールで優勝すれば、海外留学の援助も受けられる。これは滅多にないチャンスだ。

 海外で、ヴァイオリニストとしての自分を試してみたい。もっとヴァイオリンが上手くなれば、プロへの道も開かれる。

 これ以上ないほど、やる気に満ち満ちていた。将来がかかった大一番。練習に熱が入るというものだ。


 ただ周囲は放っておいてくれなかった。私が雑音だと思って無視している間に誤解が誤解を呼び、噂も尾ひれと胸びれ、ついでに足まで生えてきた。


 私は元山くんが好きらしい。元山くんも私のことが好きらしい。将来有望、東京の一等地に家があるお金持ちの家柄、イケメン。この三拍子揃った元山くんが、なんと私との関係を否定しなかったという。


 羨ましさと憎しみ混じりの女の子たちの視線は一気に私に集まってきて、さすがに居心地が悪くなってきた。



 いっそ付き合っているの、と聞いてくれれば否定するけれど。嫌な感じに視線を向けているところにつかつかやってきて、「違います」と主張するのも変な話だ。



 私の気分と同じく、近頃はしきりに雨が降っている。春なのに。つらつらと考え事をしていると、後ろから肩を叩かれた。


 え、と身体が跳ね上がる。噂の張本人がそこにいる。


「高野さん。久しぶり」


 黒い傘を差した元山くんが片手を上げている。


「どうしたの」

「いやね、今日帰国して大学まで来たんだけれどさ、高野さんがもう帰ったと聞いて」


 元山くんは困ったように頭をかいている。彼はしばらく海外に行っていたため、噂のことも知らないのだろう。のんきそうに人の好さそうな笑顔を向けていた。


「それ、その袋、買い物帰り?」

「急に林檎が食べたくなったから」


 スーパーで買った林檎が二つ、袋に入っている。あとでワイルドに丸かじりしようと思う。


「持とうか」

「大丈夫」


 そこで元山くんは沈黙するから、思い切って話を切り出した。


「元山くん。確認したいんだけど、私と元山くんは付き合っているわけではないよね」

「それは……」

「私と元山くんにそんな噂があるんだけれど、元山くんは知ってる?」


 元山くんはうろうろと目を迷わせながら、


「俺、高野さんに謝りたくて。当時付き合っていた彼女がなかなか別れてくれなくて、高野さんの名前を思わず……」


 私の名前を出してしまったと。火のない所に煙は立たぬというのはそのとおりだ。すべては彼が言い出したことだったのだ。合点がいった。


「あの、声楽科のマドンナ的な彼女ね。美人の」


 こちらも校内で有名な人だ。元山くんと合わせて、大学内で有名なカップルらしい。らしいというのは自分の身に火の粉が飛んでくるとは思わなかったから気にしなかったのだ。


「いや、そうではなくて、ピアノ科の子で……。声楽科の子はとっくに別れているよ」


 私にはどちらでもよかった。


「事情はわかったよ。今度、それとなく私とのこと否定してくれればいいから。じゃあね」


 なぜか相手が引き留めてきた。


「え! ちょっ、待って。せっかくだし、近くでお茶でも……」

「コンクールが近いから」

「なぜ僕が君の名前を出したのか、聞きたくないの」

「聞きたくない。それは元山くんの事情だもの。私とは関係ない。また今度ね、元山くん」


 相手を振り切ると、どっと疲れた。

 彼のことは嫌いではないが、特別好きということもない。

 ただ、ショックだったのも事実。私も誰かに好意を寄せられるのは素直に嬉しい。

 嘘だろうと思いながらも、本当に好かれているかもしれないという可能性。そのほんの少しの可能性は知らぬ間に私を動揺させていたらしい。


 結局のところ、私は別れ話の方便に利用された。きっと私なら巻き込んでも大丈夫だと思われたのだ。


 私を勝手に矢面に立たせておいて、自分だけ一人悠々と海外のコンクールへ行っているなんて、元山くんは人を馬鹿にしている。それもしっかり結果まで出している。

 私にも尊厳があることを、恵まれた彼にはわからないのだろうか。


 無自覚な傲慢さに腹が立ってきた。

 同時に人に振り回された、情けない自分に対しても泣けてくる。こんな自分は嫌だ。ひたすらにヴァイオリンに没頭して忘れてしまいたい。



 ぐっと、涙腺をこらえていると、降り続く雨の音はますます激しく、足元のアスファルトを跳ね上がる様子までくっきり見えるようになっていた。


 前方はぼんやり霞がかったようになっていき。赤い傘にぶつかる粒は、ほとんどの聴覚を奪ってしまっている。


 足を止めた。

 ふと傘を上げながら後ろを振り向けば。

 そこはもう、私の知る日常ではなかった。


 ――竹林の中に雨が差し込むように降っている。勢いは少し止み、風がさあさあと鳴きながら走る。足元はぐちゅぐちゅとぬかるみ、アスファルトと違う、えもいわれぬ土の匂いが鼻につく。


 ここはどこだろう、と思った。そして、あの場所だろうかと期待した。


 自分を顧みた。すると、すぐに気づいてしまった。ヴァイオリンがない。落としたかもしれないと辺りを探すが見つけられなかった。


 代わりにあったのは、買い物袋の中の林檎二つ。


 私は途方にくれた。以前のように、剥き身でヴァイオリンを持ち歩くよりはいいが、そのものがなかったら私の方が心細い。


 どうしようと思いながら、私は前のように竹林を彷徨った。


 するとほどなく、竹の隙間に黒い人影が動くのを見た。追いかける。


 近くまでくると、その人影は頭をつるりと剃り上げ、黒い袈裟を纏ったお坊さんの後ろ姿だとわかる。


「だれかいるのかね」


 その声。振り向いた顔。唖然とした。

 冬の終わりに出会ったあの人がいる。

 しかし、その時は烏帽子をかぶり、髪もあった。服も墨染でなかったのだ。


 あの人の正面に回り、その顔を間近に見た。やはりこの顔だと確信する。


 だが、この人は私のことを覚えているだろうか。ほんの少しだけ言葉を交わしただけの仙女もどきを。


「……こんにちは」


 赤い傘を差しかけて、恐る恐る口を開く。途端に、彼の表情は和らいだ。


「一度聞いた声がするね」


 手が伸びて、私の顔の凹凸をなぞった。その手は冷たく、雨で濡れている。もう片方の手には木の杖があった。


「やはり仙女様だね。また仙郷から迷い出てしまったのですか?」


 盲目の人は、私のことを覚えていた。


「私がわかりますか」

「わたくしの耳と、この手の感触でわかります。それに、いつぞやは大変典雅な音色の楽器を奏でていましたから」


 私がヴァイオリンを弾いたことも覚えていた。


「ヴァイオリンですね」

「そう。言葉の響きが耳慣れないのでよく覚えてしますよ。今日もお持ちなのですか?」

「いえ……今日はありません」


 自然と声が落ち込む。ああわたしのヴァイオリン。


 彼は話題を変えた。


「わたくしも楽器を嗜むのですよ」

「どんなものですか」

「何でも。一通りは。琴や、笙、篳篥、横笛……しかし、得意は琵琶です」

「琵琶、ですか」


 私は雅楽を専門にしているわけではない。思い浮かぶのは、正倉院に収められた国宝の琵琶や、 平家物語を語る盲目の琵琶法師の存在。大学ではたまに練習室から琴や笙の演奏が聞こえることもあるけれど、身近に感じたことはなかった。


「いつかあなたに聞かせたいです。あなたがわたくしに聞かせてくれたように」


 でも、今は素直に聞いてみたいと思った。この人はどんな演奏家なのだろう。


「それは……はい、ぜひ」


 雨はこの間にも降り続いている。空は灰色で、止む気配はなく、竹林の中はひんやりと冷気の衣をまとっているようだった。


 赤い傘の下。ふと会話が途切れると、目の前の人はこれからどうするのだろうと気にかかる。


 私は墨染の衣の袖を、確かめるように触れた。


「服が、びしょびしょに濡れていますね。これから、どこに行くんですか?」

「宇津田山の頂上へ」


 彼の表情は柔らかい。だが、澄み切った目の奥に針先のような鋭さが見えた気がした。


「ここは宇津田山のふもとです。頂上はこの先にある石段を登っていくと着きます」

「それは確か……前にも話していた、蓬莱山が見えるという? 遠くないですか」

「遠いですよ。石段は八八八八段もあります」

「はっせ……えっ?」

「覚悟して登らなければなりません」


 視覚に頼れず前方を探るように杖をついている彼を見た。

 石段は八八八八段あるという。

 登るのに過剰な気負いや自信を持っている様子はなかった。ただ、自分の心が何があってもそうするのだと、覚悟を決めてしまった。そう見えた。


 私が音楽で身を立てると決めたように。


「雨が止んだからではだめなのですか?」

「家人にも何も言わずに出てきました。見つかったら連れ戻されて、動けなくなってしまうのですよ」

「道はわかるのですか?」

「何とか。昔、まだ目が辛うじて見えた時に通ったことのある道です。それに、石段までたどり着けばほぼ一本道ですよ。ひたすら登ればいい」


 しかし、それでもハンデは大きいことに違いない。

 傘も持たずに濡れている人をこのまま黙って見送るなんてできるはずがない。


「私も行きます」


 彼は少し表情を変えたようだったが、やがてにこりと笑う。


「では石段の下まで手をお借りしてもよろしいですか?」



 ◇

 それは忽然と、竹林が二手に割れた先に現れた。


 斜面に張り付くようにまっすぐ伸びた石段を下から見上げても、先は木々の枝に隠されて何も見えない。


 八八八八段。あまりにも遠すぎる。


「助かりました。礼を言います」


 彼は私の手をゆっくりと離し、差しかけていた傘の外に出た。

 そして、木の杖で前を探りながら、一段目に足をかける。

 雨は前より激しくないが、ぽつぽつと大粒の雫を散らし、しっとりと湿ったままの袈裟を濃く濡らしていこうとする。



「本当に登るんですか」


 私は思わず聞いていた。


「登らなければならないのです」

「どうして」


 彼は首を振った。答えたくないという。

 驚いた。彼がそんな態度を取るとは思っていなかったのだ。


「仙女様。この先は険しくなります。天の羽衣を持たない限り、仙女様の足には酷な道です。だから、こたびはこのぐらいでお別れにいたしましょう」


 やっぱりそうか。

 私も行きますと言い、彼は「石段の下まで」と答えた時、何となく彼がここで私と別れを告げるつもりだと察していたのだ。

 返事は、もう決めていた。


「私もついていきたいです」


 私も石段に足をかけた。石段はちょうど人二人歩くには十分な大きさだった。これで一つの傘を共有できる。


「私はよくわからないままここに放り出されました。来たところも、帰るところもどこにあるのか知りません。ここで知っている人はあなただけなのに、置いていくなんて言わないでください」


 私の言葉に、彼は申し訳なさそうに眉根を下げた。


「どうやら、仙女様への配慮が欠けていましたね。そういうことならば、あの庵に引き返しましょう。あそこなら、仙女様一人を世話するにも不便はありません」


 そのままくるりと反転して、石段を下りようとした。

 慌てて、「そういうことではないんです」と止めた。


「邪魔をしたいわけではないんです。偶然ここに行き会っただけの私のために、やりたいことをやれなくなってしまうのは駄目なんです。だから、私も一緒に石段を登ります。足手まといにはなりませんから、ついていってもいいですか?」

「いけませんよ」


 だが彼は押し殺した声で拒む。


「仙女様の気持ちは嬉しく思います。しかし、女人の足には辛い道です。男子(おのこ)でさえ、貴人は輿に乗りますし、それでも担ぎ手を何度も代え、休み休み行くほどです。わたくしと違い、仙女様がそれに付き合って苦労する必要はありません。そうあってほしくありません」

「違います。そうではなくて」


 自分の中でも言葉を探しあぐねて、言いよどむ。


「私は、ここで会ったことにも何か意味があると思っています。一度ならともかく、もう二度目です。二度目なら、私にはここでやるべきことがあるのかもしれません。ただ、あなたの所でお世話されるだけではきっとないはずなんです。そして、二度目に会ったあなたはこの石段を登ろうとしていました。なら、私もそれについていくのも、私がここで「やるべきこと」だと思ったんです。いつまでいられるかわかりませんが、それまでは一緒に」

「仙女様……」


 黒い瞳が迷うように揺れる。


「わたくしと仙女様が共にあるのも、確かにその通り、そうあるべき宿世があるように思います。それがどんなものかは存じません。悲しく、辛いものであるかもしれません。ですが、縁(えにし)が引き合わせている限り、離れずに傍にいてわずかな時を惜しんで過ごすことも、また定められているようにも感じております。だから、わたくしは……仙女様の望みを叶えて差し上げたくも思います。この身は不便極まりなくありますが、それでも、望むことが許されるならば」

「望んでください。望まなければ、何も変わらないんです。望んで、足掻いて、足掻いて、苦しんで絶望して。それでたとえ何も手に入らなかったとしても、後悔はせずに済みます」

「仙女様には頭が下がります。ならばわたくしも小さな願を掛けて石段を登りましょう。それぐらいならばわたくしにもできるものですから」


 彼は見えない目で遥か上の石段の先を仰いだ。

 草鞋を履いた足元を一度踏みしめてから、一段上がる。

 私もその横につく。

 どれくらい時間がかかっても構わない。ゆっくりと、着実に上がっていく。

 ――けれど、神様。

 せめて、この人が頂上に辿り着くまでは、見届けさせて。


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