第5話 通学パニック


 その日は急な腹痛に見舞われ、普段より一つ遅い電車に合わせて家を出る事になった。


 HR《ホームルーム》にギリギリ間に合う時間の電車。早く学校へ着いたところで特にやる事もない俺が普段それに乗らないのは、その時間が最も混雑の激しいためである。


 そんなわけで、少しだけ憂鬱な気分で玄関を潜り、住宅街を歩き始めると、同じ通り沿いにある一軒の民家から、見知った人物が現れる。


 あちらもこっちに気がついた様子だったが、ぷいとそっぽを向き歩き始めたため、俺も敢えて話かける事はなくその後ろへ続いた。


 前を歩くイケてるJK、日和ヒヨリとは、あの日以来、言葉は交わしてはいなかった。つまり高校へ入学してから続いている関係が、変わったわけではない。


 また。あれから数日が過ぎたが、富士があの日のように直接接触してくるような事はなかった。それでも時折こちらへ鋭い視線を向けてくる事があり、目的の分からないその行動が、毎日俺の繊細な神経を刺激する事となっていた。


 そうしている間に、二年生に進級して間もなく転校してきた高嶺さんはみるみるとクラスに溶け込み、今や学校のマドンナ的存在になりつつある。


 彼女に近づくためにスクールカーストの上位を目指す事を決めた俺だが、その進展が感じられないどころか、寧ろ彼女との距離が日に日に離れていっているような気もしていた。


 このままではマズイ。何か手を打たなければ。


 考えながら、いつもの通学路を進んでいく。


 住宅街を抜け、寂れた商店街をすすんだ先の駅で、電車に乗り込んだ。


 車内は予想通りの混雑。普段の時間ならば運が良い日は椅子に座れる事だってあるというのに、一つ遅くしただけでこうも変わるものか。すし詰めという程までいかないが、各乗客同士の間には十センチ程度の隙間もない。


 こんな苦しみを受け入れてでも学校へギリギリに到着をしたいという考えるのは、余程怠惰な奴なのだろう。尤も、俺にとってはこちらの電車に乗る方が、早起きするよりもずっと面倒な事に思えるのだが。


 人波を掻き分けながら、比較的密集の激しくない中央付近まで移動する。それでも腕を上げるのが困難な程には込み合っている。


 目の前にはスーツを着たオジサンの光る頭。その間近へ顔を置き続けているのが苦痛で、体を反転させると、今度は花のようなシャンプーの香りが鼻に届いた。


 ドキッとして目線をやや下に動かすと、こちらを見上げている日和の顔。


 お互いの視線が重なると、日和はその整った二重瞼をキリッとつり上げた。


「ちょっと! そんなにくっつかないでよ」


 小声で日和は言ってくる。


「し、仕方ないだろ。こんな混雑しているんだから」


 この時、俺の胸から下の筋肉はこれでもかという程に酷使されていた。電車で踏ん張るにはコツがいる。足を広げ、腰を低くして、なんて体勢は出来ない。足の親指を床へ引っ掛けるように力を入れ、尻をエクボが出来るくらいに引き締め、それでも動こうとする上半身を腹で支えなければならない。


 しかしいくらそうした努力をしようと、どうにもならない事もあるわけで……


 電車は急カーブに差し掛かった。同時に車内にいる全ての人間の体は傾き、俺の足は一歩前へ。


「よ、寄って来ないでってば!」


「わ、悪い」


 日和へのし掛かるように動いた体を、慌てて立て直す。すると今度は反対のカーブ。


「キャッ!」


 トンッと、胸に飛び込んで来る小柄な体。


「お、おい」


「仕方ないないでしょ! 揺れたんだから」


 俺の胸元で体を起こそうとする日和。しかし日和は、体勢を崩したところへ後ろにいる他の客から体重を掛けられ、動けなくなっているらしい。


「ねえ! そっちが離れてよ」


「いや、でも。このまま動いたらお前が倒れちまうだろ?」


 日和の重心は俺の体に支えられている格好になっている。横にズレても、後ろへズレでも、彼女はそのまま前のめりに倒れ込んでしまうだろう。


「いいから退いてって!」


「出来るわけねぇだろ。怪我でもしたらどうすんだ!」


 強めに言い返すと、日和はそれ以上何も言ってくる事はなくなった。鎖骨の辺りに頭を押し付けられている格好のため、その顔色は伺えない。


 ど、どどどど、どうしよう!?


 頭の中はパニックだった。


 鼻に届く強烈な香り。反射的に出した両手が掴んだ彼女の肩は温かく、そして胸の辺りには柔らかい2つの感触がある。


 打開策云々といった以前に、頭が正常に働かなかった。少しでも気を抜いたら、このままその体を抱き締めてしまいそうだった。


 抱き締める?


 何を思っているんだ俺は。


 相手はあの日和なんだぞ。あの幼なじみの。


 それに俺には、高嶺さんという心に決めた相手がいるではないか。


 しかしこれが男の悲しい性というやつだろうか。そうやって幾ら自分に言い聞かせようと、悶々とした思いはこみ上げてくるばかりだった。


 柔らかい日和の体。胸に当たる膨らみからは、力強い鼓動が伝わってくる。


 これだけの特殊な状況である。周りの客に押された事すれば、少しくらい……


 そんな邪な考えが浮かんで、目をギュッと瞑り、歯を食い縛った。


 匂いを嗅いではダメだと鼻での呼吸を止める。足や腹や顔面、日和に触れる両手を除いた体中の筋肉へ力を入れて、彼女へ触れている箇所からの意識を遠ざける事に、力を尽くした。


 結局、俺達はそのままの状態のまま、学校の最寄り駅に到着するまでの時間を過ごす事となった。


 その間、誘惑に負けずに理性を保ち続けた自分を褒めてやりたいところだったが、駅にたどり着いた途端、顔を真っ赤にしたまま逃げるように駆けていった日和の事を思うと、そんな陽気な気分にはなれなかった。


 俺と密着していた事が余程の苦痛だったとみえる。おそらく、日和がこの前のように俺を助けようとしてくれる事など二度とないのだろう。


 その出来事が頭から離れず、この日は1日中ボンヤリと過ごした。


 授業もまるで頭に入って来ず、その声をBGMのように聞き流しながら、窓の外ばかりを眺めていた。


 まさか日和があんなに女らしくなっているとは。胸に当たっていたあの感触を思い出すだけで、心臓が煩くなる。


『ねぇ。ノボルって、好きな人いるの?』


 中学三年のあの日。日和はそう言った。


『別にいねぇけど。まぁ、少なくとも日和みたいな男っぽい奴はゴメンだな』


 ほんの冗談。いつもの軽口。二人にとっての当たり前の会話。


 そのはずだったのに……


 泣いて走り去って行ったあの日以降、日和は何度謝ろうと、何を尋ねようと、俺と口を利こうとはしなくなった。

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