第3話 先輩の涙

 逃げるようにリビングから出た僕は、二階にある自分の部屋に向かった。

 その場の空気に耐えられなくなったのではなく、ただ単純に普段着に着替えたかったからだ。

 制服を着るのって……結構疲れるんだけど。わかってくれる人はいるかな?

 そんなことをぼーっと考えつつ、部屋着に袖を通していく。


(やっぱり、制服より落ち着くんだよな……っ)


 それにしても……今日はとんでもない日だ。

 放課後の教室で女の子から謎の告白をされたり、そのあと家に帰ったら、なぜかその子がいたり……。あとは、一人暮らしをしているはずの姉さんが、急に家に帰ってきたり……。

 決して災難というわけではないのだけど。日々の生活とのギャップがありすぎる一日だったのは間違いない。


(そういえば、確かあの人……一つ上の先輩だったっけ)


 敬語で話していたから、すっかりそのことを忘れていた。


一条いちじょう先輩……)


 あの人については、気になることがまだまだたくさんある。


(……とりあえず、話を聞いてみるしかないか)


 僕は、部屋で着替えを済ませると、二人のいるリビングに戻るために部屋を出た。




 リビングに戻ると、先輩と姉さんがソファーに向かい合って座っていた。


「あっ! よ~しっ、来たなぁー」


 そう言って姉さんが手招きをしてきたので、促されるように隣に座わった。


「それじゃあ、彩音ちゃん。話を聞かせてもらおうかな」

「……ちょっとその前に、姉さんに一つだけ聞きたいことがあるんだけど」


 姉さんが今回の話について切り出す前に、僕には、どうしても聞きたいことがあった。


「ん? なに?」

「……どうして姉さんは、今日、急に帰って来たの?」

「え。どうしてって、それは……あ」


 すると、姉さんはなにかを思い出したのか、デニムパンツのポケットからスマホを取り出した。


「あぁ……。それはねぇー……」


 そう言って見せてくれたのは、母さんから送られてきたメールだった。

 母さんは、スマホではなくガラケーを使っているので、連絡するときはメールを使っている。


「実はさ、大学の昼休みのときにメールが来たんだ」


 僕は、そのメールの内容を隣から覗き込むようにして読んだ。


『急なことで悪いんだけど、美奈みなにお願いがあるの。実は今日、翔太郎より一つ年上の女の子が家に来るから、様子を見に行ってくれない?』


 ……ということは、つまり、母さんはこのことを知っていたんだ。


(でも、どうしてそのことを黙っていたんだろう……って)


 メールの下には、まだ続きがあった。


『翔太郎も男の子だから、年頃の女の子と二人だけにするのは、イケないからね♡』


 僕は、他の二人に聞こえない小さな声で言った。


「……余計なお世話だよ」


 たとえ、女の子と二人っきりになったとしても、急に手を出したりなんてしない。……たぶん……いや、絶対!


「っ……か、母さんは、先輩が居候することを知っていたんですね?」

「……はいっ」


 力のない声が返ってきたけど。これで、先輩がこの家にいた理由がわかった。なら、


「質問していいですか、先輩」

「なんですか?」

「……先輩と母さんは、どういった関係なんですか?」


 この質問を選んだ理由は、ただ気になったのだ。この人と母さんがどういった関係なのかを……。

 すると、先輩はかすれた声で話し始めた。


「……奈津子なつこさんと私の母は、高校の同級生で、小さい頃から何度か会ったことがあります」

「え、そうなんですか?」


 先輩は、コクリと頷いた。


「細かいことは、この場では話せないのですけど。今回の居候の件について奈津子さんに相談してみたら…――」


『そんなことがあったのなら、早く言ってくれれば良かったのに! そうね……あっ! だったら、私の家に居候すればいいじゃない!』


「――…そのときの奈津子さんの一言がきっかけで、私はここに居候することになったんです……」


 僕と姉さんは、先輩の話を聞いて言葉が出てこなかった。

 まったく知らないところで、こんなにも大きな話が進んでいたのだから。

 先輩と母さんの関係や、居候するまでの過程……。


 このとき、ふと疑問が頭に浮かんだ。


「先輩は、どうして居候しようと思ったんですか?」


 僕が素朴な質問をすると……。


「――…そ、それは……ッ」


 血の気が引いたように、先輩の顔が真っ白になっていく。

 微かに震えているのか、自分の体を腕で抱きしめていた。


「………………」


 もしかすると、僕は、とんでもない地雷を踏んでしまったのかもしれない。


「あの……先輩?

「バカァ!」

「痛たッ!?」


 気づいたときには、姉さんに思いっきり頭を叩かれていた。

 そんな姉さんは、アイコンタクトでなにかを言っているようだった。


(お前は、バカか!?)


 こっちもアイコンタクトで応える。


(僕は、ただ気になったことを聞いただけで……)

(それが余計なの! あんたもわかるでしょ? あの子の手が、さっきから震えているのを……)

(え? …………あっ)


 姉さんが言うように、先輩の手は震えていた。

 このとき、僕は、言ってはいけないことを言ってしまったのだと気づいた。


「す、すみません……」

「いえ……気になさらないでください……」


 僕と姉さんは、先輩が落ち着くのを待った。


「……もう大丈夫です」


 本人は、大丈夫と言っているが、明らかに大丈夫には見えなかった。


「すみません……先輩」


 僕がもう一度謝ると、先輩はニコリと笑った。


「居候させてもらう身として、全力で頑張ります……っ!」


 そう言って先輩は、僕と姉さんを交互に見る。


「なので……私がこの家に居候することを、許して……くれませんか……?」


 それは、先輩にとって決意の一言だった。

 でも、その目は決意に満ちていたが、どこか不安が窺える。


 僕は、言葉を選びながら自分の思いを伝えた。生半可な返事をしないように気をつけながら――。


「……僕たちはまだ、先輩のことをよく知りません。でも……母さんが認めているのなら、僕たちに拒否する理由はありません」

「私も、翔太郎と同じ意見。私たちに、母さんの決定を拒否することはできないからさ」


 そう言って頷くと、先輩と目を合わせた。

 

「僕たちは、先輩の居候を認めます。だから、先輩……この家で一緒に暮らしましょう!」


 先輩は驚いたように目を丸くしながら、僕の顔を見てくる。

 その瞳から、一筋の涙が頬を伝って流れていく。


「…………っ」


 そして、先輩は涙ながら大きな声で言った――。




「こ、これから……精一杯頑張るので……よろしくお願いします……っ!」

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