双翼の墓標②

 宇宙飛行士コスモノートになりたかった。


 63年、まだ十歳を過ぎたばかりの少女だった頃、ワレンチナ・テレシコワが宇宙に行ったのを知った。

 史上初の女性の宇宙飛行士。男女平等の実現を声高にアピールする党の宣伝も耳に入らず、彼女の語る宇宙の世界にばかり魅せられた。


 誰も手の届かない場所に行きたかった。地上にはしがらみが多すぎる。

 大祖国戦争で得た勲章を誇るばかりの父、今の生活を失うまいと必死な母親、なにより双子の姉だ。姿かたちは瓜二つでも、ふたりの間には決定的な差があった。


 エカチェリーナは姉に勝てたことがない。一度も。勉強、運動、友人関係……同じことを同じようにやっているはずなのに、明らかに姉の方が優れていた。

 それでいて姉は誰からも愛されるから嫌になる。明るくて甘え上手で鈍感だ。「お姉ちゃんはのんびり屋さんだからあなたが支えてあげるのよ」と母に何度言われたことだろう。敗者が勝者の何を支えるというのか。


 要は現実逃避だったのだろう。姉の手垢がついた世界から飛び出して、果てのない無重力を遊泳したかった。


 男性宇宙飛行士には飛行機乗りが多いから、エカチェリーナも軍事航空学校から空軍に入った。

 血の滲むような努力でテストパイロットの座を掴み取り、職務に打ちこみながら機を待ちつづけた。

 やがて女性の宇宙飛行の計画が上がり、その候補に選抜されたとき、エカチェリーナは生きていてよかったと心底思ったのだ。


 だがその高揚も、他の候補者と顔を合わせた瞬間に地に堕ちる。


「あっ、カチューシャ! やっぱりカチューシャもいるんだ、よかった!」


 姉がいた。

 コンビナートに勤め、若くして役職付になったらしい姉が、なぜか同じ場に存在していた。


 聞けば職場のクラブでパラシュートをはじめ、各地の大会を見る間に制覇したらしい。その流れで選ばれたとのことだった。

 滅多に帰省しなかったから知らなかった。女のパラシュート乗りが宇宙飛行士の候補となるのはテレシコワの時代と同じだったが、なぜよりにもよって姉がそれを選んだのか。なぜ候補になることを承諾したのか。なぜ姉はいつもエカチェリーナの前に立ちはだかるのか……


 どうして。


 自分の聖域が踏み荒らされるような胸潰れる心地、宇宙を目指す根源となった原初の感情。

 軍に入って以来忘れていた気持ちに、エカチェリーナのすべてが喪われていく気がした。


 候補数百名の中から選抜された訓練生数名の中に、姉は当然のように含まれていた。二年にわたる訓練期間をともに過ごし、ふたりで切磋琢磨して、しかし結果は最初から分かっている。

 姉は宇宙へのチケットを手にして、エカチェリーナはバックアップクルー――補欠の二番手。代用品として同じ訓練と準備を重ねながら、天を見上げて地上で手を振ることしかできない。


 自分の人生はなんだったのだろう。姉が旅立った後、膝を抱えて考えた。視線は知らず台所の刃物の方を向いていて、あのままならば一時の衝動に身を任せてしまったかもしれない。


 けれど今、エカチェリーナは早まった真似をしなくて良かったと思っている。

 「スティナ」がなくなること、宇宙そらへの憧れを叶えること以上に、姉の破滅を見たいと望んでいる。


 きっとエカチェリーナは焼き切れてしまったのだ。無邪気に夢を摘み取られて、夢だったものの花冠を身につけた姉がいて、嬉しそうにエカチェリーナの名を呼ぶ。ならば燃やし尽くしてしまいたかった。


 「壁」はソ連内では一般報道されていない。だから宇宙飛行士の家族として呼ばれたのも元々バックアップクルーとして関わっていたエカチェリーナだけで、姉が通信する際の相手となることを許されている。この幸運を逃しはしない。


 決めた。

 最後の通信では、このどす黒い想いをすべて告げて突き放す。

 寄る辺なく、絶望に心巣食われる無明の闇で、何を呪えばいいのかも分からないまま、泣きながら死ね。


こちらヤーコマドリザリャンカ……カチューシャ、聞こえる?』

「ええ、聞こえるわ……大丈夫?」

『なんとかねぇ』


 ノイズに紛れた姉の声には、明るさでも隠せない疲弊があった。


 「壁」ができてから二週間。「食料はあと一週間分」と話したあの日から約十日が経っていた。地上の状況は相変わらずで、「壁」を打ち消す方法の目処はたっていない。

 事態は絶望的だった。少なくとも、国の希望を背負って宇宙に上がった彼らにとっては。


『今日……もしかしたら昨日かもだけど。船長が死んじゃった』


 ろれつが回らなくなりかけた報告に、管制室の面々がざわりと声なき声をあげた。

 一瞬の驚愕を挟んで、むせび泣く者、悔しげに拳で机を叩く者、密かに胸で十字を切る者。そんな景色を知ることなく、姉は無線の向こうから語りかけてくる。


『起きたらね、もう冷たかったの。缶詰の蓋で首切ったみたいで、血がぷかぷか浮いててね、昔カチューシャとやったシャボン玉みたいだった。でも全然割れてくれないの。あと血って飲めるんだよ。生臭くて、まずくて、でも喉渇いてたから飲んじゃった。こんなにがぶがぶ水飲めたの、いつぶりかなあ。

 遺書もあったよ。残りの食べもの全部あげるから、遺言を伝えてくれって……』


 その先は涙声に消えていった。聞くだにやりきれない話だ。宇宙の闇でも耐えられるよう訓練を受けた宇宙飛行士のリーダーだろうが、避けられない死を前にしては冷静になれなかったらしい。あるいは、冷静だったからこそか。

 死者は初めてではない。五日前、宇宙服を着て船外に出たクルーがパニックに陥り、そのまま行方不明になっている。今頃は生命維持装置も停止して宇宙のどこかで窒息死しているだろう。


 姉は貧乏くじを引かされた。この宇宙ステーションサリュートに残された生者は、今や姉だけなのだ。


『ねえ、カチューシャぁ……あたし、ひとりになっちゃったよぉ』


 すすり泣く声に合わせてノイズが揺れる。姉の泣き言など、いつぶりに聞いただろう。


 気分がいいとは思わなかった。むしろ昔を思い出して嫌になる。

 姉がよく泣くものだから、エカチェリーナはそのたび手を引いてやった。どんなに疎ましい存在であっても見捨てるのは気が引けて、そんなかつての自分の情が、今のエカチェリーナを俯瞰している。


 だからだろうか。姉に救いなき最期をと願っているのに、口は勝手に言葉を紡いだ。


「……私が、いるじゃない」


 言いながら論理がついてくる。今の姉には余剰の食糧があり、酸素も食糧以上に余裕がある。むしろ危惧すべきは精神状態の方だ。勝手に自殺でもされるとエカチェリーナの計画は狂う。

 今はあたたかく励まして、彼女の心身の状態を調整し、いつが死の直前の通信となるかきちんと計算しなければ。この言葉に一抹の優しさも存在しない。打算と嘘……それだけだ。


「いつだってあなたの隣には私がいるわ。忘れないで。だから今日を生き抜いて、明日もまた話しましょう。絶対よ」

『……そっか。ありがと、カチューシャ』

「いいの。ほら、船長の遺言、伝えてあげなくちゃ駄目でしょ」


 促すと、姉はしゃっくりあげながらも船長の遺書を読み上げた。

 友人家族、そして同志たちへの愛と回顧と感謝の念が綴られており、静まりかえった管制室に響きわたる。隣の職員は涙を堪えながら遺書の内容を走り書きしていて、ならばこの遺言も家族に伝わるのだろう。党さえ許せば、だが。


 結びまで読み終えると、残りの交信可能時間は五分も残っていなかった。次は数時間後だ。今のうちに主要な報告を聞いてしまおうと口を開き、しかし姉が先手を打つ方が早かった。


『ね、カチューシャ。覚えてる? お母さんがよく言ってくれたこと』


 出し抜けの問いに、もう涙は残らない。むしろ乾いていた。吹っ切れたように、覚悟のように。

 エカチェリーナが問い返す間も与えず、ぽつりぽつりと言葉を落とす。


『ふたりは双子だから、片方ずつの翼なんだよって。ふたりで力を合わせてはじめて大事なことができるんだよって』


 心底愛おしげな声が、幼い記憶を呼び覚ます。確かにそうだ。母はよく姉と自分に言い聞かせていた。

 エカチェリーナはのんびり屋の姉を支えて、優秀な姉は今一歩及ばないエカチェリーナを支える。つまりはそういうことが言いたかったのだろう。だが隣に在りつづけることなどできなかった。姉は常にエカチェリーナの一歩前で道を塞いでいる。


 互いが片翼など嘘だ。姉はひとりでも羽ばたけて、エカチェリーナは姉がいる限り羽ばたけない。なのにこんな詭弁を信じ続けられる姉が憎らしくて、妬ましくて、羨ましかった。


『真面目で、頑張り屋さんで、絶対泣かない強いカチューシャ。だから一緒にいるのが楽しかったし、一緒にいないと耐えられなかった。あたし、カチューシャの翼の片方でよかったよ。本当に』

「なに、どうしたの急に……」


 笑おうとして、うまくいかない。姉は何を言っている? どういう意図でこんな話をしている?


 愛と、回顧と、感謝。それはまるで、たった今まで姉が読み上げていた――


『だから、ごめんね。だいすき』


 泣き笑いのような囁きは、胸をたやすく串刺した。

 嫌な予感が木霊する。「何を――」と問い返そうと口を開く。だが言い終えるより先に、指揮官の男が声を張り上げた。


「おい、コマドリザリャンカ! 何をしている!?」


 半分悲鳴のような怒鳴り声。弾かれるように顔を上げると、暗い部屋でメインモニタの一部が点滅していた。その意味をしばし考え、理解し、慄然とする。


 宇宙ステーションサリュート宇宙船ソユーズ接続解除アンドッキング。ソユーズは切り離され、数時間後には軌道上に浮かんでいるだろう。

 だがそれで終わるはずがない。さらに数時間後には軌道を離脱し、やがて大気圏に再突入し、そして――地球へと落ちてくる。


「……やめてよ」


 呆然と呟けば、再び歯車が回り出す。混乱を油に、焦燥を燃料に、激情が腹の底からせり上がる。


 最期の瞬間はまだ先だと思っていた。いや、そうするつもりだったのだ。けれど主導権を握っていたのはエカチェリーナではない。姉が先に決め、選び、実行した。いつものように、エカチェリーナの望みを断ち切って。


 清らかな心で逝こうというのか。大嫌いだと、心の底から憎いのだと、一緒に生まれたくなんてなかったと、最後に告げるはずだったのに。

 最後の最後までエカチェリーナは姉に勝てない、追いつけない。唯一願った想いさえ、姉はあっけなく手折っていく。


 敗北感。幾度となく味わった辛酸を吐き出すようにインカムへ叫ぶ。言いたかった言葉は、もう、怒りと悔しさの中に消え去っていた。


「やめて、やめて! なんで、どうして……ふざけないでよっ!!」

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