第2話

 いま私が心から愛している女性の名は、川口まひな、という。今月23日に20歳になったばかりの、同じ会社の女性事務員だ。私とは年齢が7つも違うが、頭の回転が速くて会話をしていると本当に楽しい。それに物腰が柔らかく落ち着いた聞き上手でもある。白くきめ細やかな肌に、つんとした切れ長の目、その奥の美しく優しい瞳、血色の良い唇はふっくらと潤っていて、若い女性らしく高めの音程を持ちながら、会話をするときには少し低音の効いたハスキーな声で言葉を紡ぎ出してゆく。聡明さと匂い立つような瑞々しい若さ、それにしなやかな肢体と仕草を兼ね備えた、本当に美しい女性だ。

 そんなまひなは、今日は彼氏とデートだという。一方の私も妻子を連れて動物園。普通に考えれば、それぞれごくありふれた、幸せな休日を過ごす会社の先輩後輩というだけだろう。だが私は、まひなの恋人だか彼氏とかいう男が毎日ひどく妬ましく、心底憎かった。それは彼女への思いが募るにつれて日ごとに増してきた、もう一つの私の偽らざる心持であった。彼女が誰かのものであること、いや、誰のものでもないからこそ、私は彼女が愛おしく、そこに群がる男どもが悉く妬ましかった。晴れ渡る同じ青空の下で、いま、まひなはどこでどんな話をし、誰を想って微笑んでいるのだろうか。私は大きく息を吸い込んで、胸のつかえを押し出すようにため息を吐いた。


 娘に話しかけられているのに気が付いて顔を上げると、動物園の門が近づいてきていた。今日は水曜日。私の会社の休日が水曜日と日曜日なおかげで、さしもの人気動物園も閑散とした日時を狙えるというわけだ。券売機に千円札を二枚入れて人数分のチケットを買い、受付の女性に手渡した。娘がはしゃぎながら

「はいどうぞ!」

 とニコニコしてチケットを差し出したが、もぎりの中年女性は無表情で半券をひっつかむと、ものも言わずに千切って寄越した。私はこの厚化粧の臭いのきつい死にぞこないを強く睨みつけながら、妻のことは振り返らずに門をくぐった。妻はまだ携帯電話を指でなぞって、何かを黙々と読んでいるようだった。

 私は娘の手を引きながら、なんとなく形だけでも、と思って妻にも声をかけた。

「どこから見る?」

「真理に聞いたらええやん」

 中途半端に声をかけた私が馬鹿だった。いつもこうだ。完全に無視しても後味が悪いし、かといってこちらから謝る筋はない。だからこうして当たり障りのない風に接するのだが、結果はいつも同じ。そっけない返答に表情のない顔。妻は少し濃い顔たちで目鼻もはっきりしているのに、こんなにものっぺりとした表情になれるのかと、私は驚いてしまう事さえあった。


 娘のリクエストによって、私たちはペンギンやシロクマの居る極地動物コーナーへと向かっていた。傍らを園内の循環バスがゴトゴトと走ってゆく。ふた昔も前のアニメの主題歌をキンキンするスピーカーから垂れ流しながら。

「お父さんこっち! お母さん! お母さん!」

「はいはい。おい」

「うん。よし、行こっか!」

 さっきまで私に対しては無表情だったのに、携帯電話をかばんにしまってから急に機嫌よく受け答えをして、娘に微笑みかける妻が鬱陶しく、憎たらしかった。


 ペンギンのコーナーには彼らの泳ぐプールがあり、透明な板越しにその姿を見ることも出来る。ペンギンたちにとって、これからの季節はさぞかし暑いだろう。おかげで勢いよく水に飛び込むペンギンたちを間近で見られて、娘も喜んでいるようだ。

 休日なら家族連れやカップル、混んでいるのに自分たちは場所を譲らないでいいと思っている写生大会の参加者も居らず、ほぼ貸し切り状態だ。ペンギンの前に限らず、近くに飼育されている象やニホンザル、モンキーアパートの狭い建屋に至るまで、あまり入場者の姿は見かけなかった。順に見て回りながら、こんなにじっくりと動物を見たことなど、今まであっただろうかとふと考えてしまった。

 彼ら動物は本能で暮らしている。空腹、睡眠、繁殖。身を守り、生きていくためのプログラムだ。いっぽう私は飲み食いをし、衣服を着て、仕事を持ち、家族を作っただけでは飽き足らずか、それらすべてを台無しにしてしまっても構わないとさえ思っていた。彼ら動物たちには、そのような考えは起きないのだろうか。それとも、彼らには彼らなりの規範やモラルがあり、しかしまた理想の相手やカタチがあったとして、中にはすべてを投げ出してでもそれらを追いかけてみたいという衝動を起こす者も居るのだろうか……。それだけの余計な愛や情熱は、それを持つものが幸福なのか、持たざる者こそが幸福なのか。私にはわからない。少なくとも、追いかけている間は幸福であり、盲目であるという事だけはわかる。頭の中では。心では、体面だけは、それを否定し、私は私として、夫であり父親として義務を果たし、楽しんでもいる。夫としての楽しさは、もはや受け流すだけになってしまったが。

 自分たちが最低限生きるだけの知恵と本能を持ち、それによって生きていながらも飼育の檻に入っている彼らと、自分の責任と意思で必要以上の愛情や劣情を持て余す私と、はたしてどちらがより動物に近いのだろうか。それとも、私のような男は動物ではなく、けだもの、と呼ばれるのだろうか。


つづく

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